第113話 西陽

 遅い小暮が食べ終わって、勘定を済ませた。篠山さんの送別だからとみんなでお金を出し合おうとしたのに篠山さんは、ここは俺が払う、と結局みんなの分を篠山さんが出した。

 息子のヒロシがレジに立ち女将さんに、母ちゃんが飲んだビール2本は付けていいの、と僕たちに聞こえるような声で言ったので女将さんは息子の頭を叩いた。


「バカ!黙って付けなさいよ。聞かれたら付けられないでしょ!」


 そう言う女将さんだが、レジを適当に打って、結局請求した金額は半額くらいの金額だった。


「シノさん、今度は奥さんと来なよ」


 そういう女将さんの目が寂しそうだった。もしかしたら女将さんは篠山さんのことが好きだったのではないか、と変な勘繰りをしてしまった。

『かわせ』の外で少し屯った。僕と篠山さんは、これから南署に戻らなければならない。お前らとはここでお別れだな、篠山さんが言うとみんな寂しそうだった。小暮なんか泣きそうな顔をしている。そんな顔をするな、と篠山さんはみんなに言った。


「改めて、シノさんの口から言われるとなぁ。とりあえず体には本当に気をつけてくださいよ」


「そうですよ、長生きしてください」


「なんだよ。まだまだ死ぬような歳じゃねえぞ」


「あとよぅ、ジジイの交通事故多いから、シノさんも気をつけてよ」


 大島さんの中で、もう『ジジイ』が許されてしまっている。


「早速、運転免許証、返納してください」


 三輪さんも乗っかって冗談を言う。


「高速道路とか逆走しないでくださいよ」


「わかってる、わかってる」


「本当、退職前の休み期間に問題起こさないでくださいよ。最後までちゃんと刑事でいてください」


「わかったよ」


 そう言ってみんなと別れの挨拶をした。最後に大島さんが、またちゃんと時間作って送別会やりましょう、と言うと、そうだな、とみんなと握手をした。小暮は篠山さんの手を中々離さず大声で泣いた。お前そんなに付き合い長くないだろ、と三輪さんが冷静に突っ込む。最後に送別会の話をしたが、それは叶わない約束だとわかっている。誰かが時間の都合がついても、誰かが手の離せない事件に遭遇したりと、もうこの5人が一緒になることはないんだなぁ、としみじみ感じた。


 大島さんたちと別れて2人きりになると、急に静かになってしまった。


「ちゃんと退職するまでは、しっかりしないとな」


 独り言のように呟いた。


 南署まで戻る車は、篠山さんが運転した。僕が運転しますと言ったのだが、篠山さんは運転席に座った。相変わらず僕の運転技術を信用していない。山梨までは助手席に乗ってくれたのに、僕の運転が下手過ぎて懲りてしまったのか。僕は助手席に座り、篠山さんの横顔を見た。もう篠山さんの助手席に乗ることは2度とないんだなぁ、と思うと声をかけづらかった。

 南署まで向かう車の中では終始無言だった。


 南署の刑事課に着くと、篠山さんの退職を聞いた刑事や職員が集まってきた。庶務課の女性職員が花束を持ってきた。みんな、なんで今辞めちゃうんですか、最後に一緒に仕事したかったですよ、と各々が一気に喋り、篠山さんは照れながら後退る。掃除のおばちゃんなんか号泣していた。

 常田の立て籠り事件のすぐ後に、篠山さんは退職願を出し、周りの人には言っていなかった。こうなることを想定して、自分の身に合わないと周りには伏せていた。ただ、やっぱり篠山さんクラスになると伏せていても、どこから漏れたのか周りに広がってしまう。それだけ人望がある人なのだ。


「参ったなあ。それに、まだ明日も来るぞ」


「明日は明日で、シノさん捕まらないでしょ。みんな揃って挨拶したかったんです」


 有給消化の休みは明後日からかもしれないが、明日は署長や上層部への挨拶から、仮の退職手続きなどでほぼ捕まらないだろう。それに時間が空いたとしても、その時にみんなの手が空いていると限らない。署員たちが今日顔を揃えたのは、この日を逃すとみんなで送別できないからだ。女性職員が花束を渡すと、みんなが拍手をした。


「俺に花束って、なんか柄じゃねえな」


「違いますよ。奥さんに、ですよ」


「そうだよな」


「本当、似合ってないっすね」


 みんなが拍手する中、生活安全課の男性職員が遠慮がちに前に出た。


「あのー、最後にどうしても会いたいというお客様がいまして」


 男性職員の後ろに、50歳前後の女性と高校生くらいの男の子が立っていた。彼らはどう見ても職員ではない。おお、と感嘆の声を漏らす。


「大きくなったなぁ」


 男の子は、はい、とこちらが聞いていて気持ちいいくらいのハッキリとした返事をした。


「その節は」と女性の方が切り出した。男の子の母親だろう。


「息子は無事に成長しました。あんなことがあったのに、今では私を助けてくれます。篠山さんがいなかったら、私はこの子の母親でいられなかったと思います。それに、りょうさんがいなかったら、息子は」


 そう言って泣き出した。多分この男の子は、篠山さんの息子が助けた子なんだろう。この母親は、むかし息子を虐待してたという母親。篠山さんが、息子が助けた命を大切にしろと説教をしたという母親なんだろう。そして『遼さん』というのが篠山さんの息子さんの名前。


「篠山さんが定年が近いということはお伺いしてたので、最後には挨拶がしたいから連絡をくださいと生活安全課の方にお願いしてたんです」


「それならこちらからお伺いしたのに。態々すみません。急な決断になって申し訳ない。本当にありがとうございます」


 母親はハンカチで涙を拭きながら、何度も頭を下げた。篠山さんはそっと肩を抱き、いいんですよいいんですよ、と体を起こしてやる。そして息子に向き直り、幾つになった、と訊いた。


「はい。16歳になりました」


「そうか」


 篠山さんは、今度は男の子の肩を抱き、背中をポンと叩いた。丁度息子が死んだ歳になった男の子を、自分の息子の背中を撫でるように優しく触っていた。


「僕、将来警察官になろうと思います。僕を助けてくれた遼さんの分も、1人でも多くの人を助けたいと思います」


 母親はハンカチがグシャグシャになるほど泣いて、署員でも貰い泣きしている人もいた。


「じゃあ、まず母ちゃんを守らねえとな」


 はい、と背筋を伸ばして返事をする男の子の目は凛々しく、澄んでいた。僕もむかしはあんな目をしていたのだろうか。僕の目はいつしか霞んでしまったのではないか。


 刑事課のスピーカーが鳴った。事件は待ってはくれない。みんな慌てて職務に戻った。

 母親は帰りのタクシーを呼び、タクシーが来るまでの間暫く親子と会話をした。息子は早く母親を楽にさせたいので金銭面を考え、高校を卒業したらすぐに警察学校に入りたいと言った。篠山さんは手続きなどのアドバイスを丁寧にしていた。

 タクシーが到着すると、僕たちは外まで送りに行った。親子はまた深々と頭を下げ、タクシーに乗って帰っていった。

 親子が去ると、また2人きりになってしまった。なんとなく変な空気を感じて、さほど気にはなっていなかったが携帯で時間を確認した。15時半、微妙な時間だ。篠山さんもやることがなくて伸びをしたり、アキレス腱を伸ばすような体操をして誤魔化している。定例報告に来た制服警官が、お疲れ様です、と敬礼して南署に入っていった。制服警官は、意味もなく体をブラブラとさせている僕たちを見て、首を傾げていた。

 車道を走る車のボンネットがギラギラしていた。南署の入口は北側に向いていて、車道を眺める僕たちの顔の左半分を、西陽がジリジリと照りつける。


あちぃな」


「暑いですね」


 それから会話が続かない。

 なにもすることがない。こういうのを嵐の後の静かさというのだろうか。チラッと目が合うが、篠山さんは今度は腰から上を半回転させて、左右に腰の運動を始めた。

 篠山さんは僕の方から切り出してくるのを待っているのか。それとも避けているのか。

 西陽は、僕らを照りつけるだけで、答えをくれない。





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