第112話 乾杯

「お母ちゃん、5人で。いつもの!」


「わかんないよ!常連ぶってんじゃないよ」


 食事処『かわせ』に着くと、篠山さんと女将さんのいつもの調子が始まる。昼飯時を過ぎていたので、座敷席が空いていた。僕たちは靴を脱いで座敷に上がると、みんながみんなメニューを開いた。


「いつもバラバラなもの食ってんだから、『いつもの!』でわかるわけないじゃないの!」


 女将さんは、いつもならセルフサービスの水を今日は持ってきてくれて、5杯テーブルに置いた。


「なになに、今日は。水出してくれて。サービスが行き渡ってんじゃないの」


 篠山さんが女将さんを揶揄う。


「聞いたよ、シノさん。アンタ、辞めんだって?」


「誰から聞いたんだよ」


 大島さんも三輪さんも、自分ではない、と首を振る。


「お昼に来た連中が話してたのが聞こえたの。シノさんが中央署そこにいた時の部下の子たちよ。みんな寂しがってたよ」


「ジジイはな、早く引退した方がいいんだよ」


 そうおどける篠山さんの言葉に、大島さんが下を向いた。


「だけど、もったいなじゃない、退職金。なになに、半分くらいになっちゃうの?」


「いいんだよ、金額は。本当、少しでも貰えるだけで有り難いんだよ」


「なになに、じゃあいくら貰えるの?え?え?」


 女将さんは金の話が好きなようで、座敷に膝を乗せ、身を乗り出して篠山さんに近づいた。


「知らねえよ。そんなんどうでもいいんだよ。それより、注文取れよ!」


 篠山さんの方は金の話が苦手なようで、話を濁すようにぶっきら棒な声で、ネギトロ丼、と注文した。他のみんなも各々の注文をした。


「うるせえババアだな。金の話ばかりしやがって。市民の皆さんからいただいてる血税な、俺みたいなジジイがたくさん貰っちゃいけねえんだよ」


「お、ジジイがババアって言ってる」


 大島さんも調子に乗って揶揄う。篠山さんが大島さんの頭を軽く叩いた。そんな大島さんの一言に少し場が和んだ。

 プシュッと背後で音が聞こえたので振り返ると、女将さんが瓶ビールの栓を開けていた。目の前に空のグラスが並べられた。


「おい、ちょっと待て。それ、誰が飲むんだよ」


「え?アンタたち、シノさんの送別で乾杯しないのかい?」


「いやいや、まだ勤務中ですよ」


「何言ってんの?こんなところでサボってるのに」


「サボってないよ。勤務中だって飯くらい食べますよ」


 大島さんが言い返す。


「1杯くらいいいじゃないの」


 そう言って三輪さんの前のグラスにビールを注ぐ。


「ダメですよ」


 三輪さんも言い返す。


「じゃあ、いいよ。私が飲むから。それじゃあ、アンタたち、何で乾杯するんだい?水かね、シケてるねぇ」


「なんだよ。なんか頼めって言ってんだろ」


「そうだよ。税金払ってる市民に貢献しろって言ってんだよ」


 女将さんは遠慮がない。でも、冗談混じりで言っているが、本当は篠山さんのことを労いたいのだと思う。女将さんは座敷の淵に腰をかけて、三輪さんに注いでしまったビールのグラスを構えて乾杯を待っているポーズを取る。


「じゃあ、みんなコーラでいいよな」


 大島さんがみんなに言った。


「ヒロシー、コーラ5本とグラスもう1個!」


 女将さんは、みんなの返事を待たずにカウンターの方に向かって大声で中にいる人に指示した。カウンターでヒロシと呼ばれた男は痩せていて頼りなさそうな体型だった。ヒロシは蚊の鳴くような声で、はーい、とか細い声を出した。グラスをもう1個と言ったのは、さっき5個持ってきたグラスの1つは女将さんがビールを注いでしまったからだ。


「お母ちゃん、いいよグラスなんて。洗い物増えるだろ」


 気を遣って篠山さんが言う。


「何言ってんの。乾杯、瓶のままですんのかい?アンタたちアメリカ人かね」


 痩せた男が瓶のコーラとグラス1個を乗せたお盆を両手でしっかり持って、ヨタヨタとカウンターから出てきた。瓶が倒れないように慎重に足を運ぶ。5本の瓶が揺れ、カシャッと音がなる度、あっ、と声を漏らす。少し鈍臭い印象だ。年齢も40は超えているように見える。ただコーラを持ってくるだけなのだが、異様に遅い。その姿を僕たちは息を凝らして見守っていた。


「遅いよ!アンタ、コーラくらいお盆に乗せないで、手で持ってくるんだよ!」


「でも、たくさんかったから......」


「バカだね!こうやって持つんだよ」


 女将さんはヒロシに、左手の指の間に瓶の首を挟んで4本、瓶の口にひっくり返してグラスを被せた1本を右手に持った。


「こうやって持ちゃあ、さっと持って来れるだろ。何回言ったらわかるんだい?」


「でも、左手で4本なんて持てないよ。こ、小指に力が入らないので」


「だったら、右と左で3本と2本とか、頭使いなさいよ!」


 ヒロシは泣きそうな顔で肩をすくめている。だって小指が、と言いかけたところ、女将さんはパンっと中年男の頭を叩いた。たしかにトロ臭くて苛々する気持ちはわかるが、やり過ぎではないかと思った。


「いい歳して、ちゃんとしなさいよ。本当、鈍臭い」


「おいおい、ちょっと、そりゃあパワハラだよ」


 篠山さんも堪らず口を挟んだ。


「そうですよねぇ。もっと言ってやってください。これはパワハラですよねぇ」


 篠山さんの援護に、ヒロシは調子に乗って、女将さんを指差した。すると女将さんは、今度はわりとフルスイングに近い勢いでヒロシの額をパチンと叩いた。


「なにがパワハラだね!親子にパワハラも何もないよ。この出来損ないが!」


 みんなが一斉に顔を上げた。


「まったく、あの子は店は継がないって出てったんだよ。ITだかETだか知らないけど自分で会社持つなんて言って。そしたら急に帰って来て、やっぱり店継ぐって、あの調子じゃあ何時いつになるだかわかりゃしないよ」


 女将さんは割烹着のポケットから栓抜きを出して、喋りながも手際良く、コーラの詮をポンポン開けて行く。


「いい息子さんじゃないですか」


 大島さんはコーラを注いでもらいながら、そう応えた。


「どうせ、会社が上手くいかなくなったんでしょうよ」


 女将さんは投げ槍にそう言うと、みんなのグラスにコーラが注いでいった。みんなの分が注ぎ終わると、ちゃっかり自分も座敷に上がって、さっきのビールのグラスを構えて、ほら乾杯ね、と言った。


「はい、乾杯の音頭は誰?じゃあ、息子。息子が乾杯やりなさい」


「え?乾杯って、何て言えばいいのか......」


 ヒロシが篠山さんのネギトロ丼を持ったままモジモジと体をくねらせた。


「アンタじゃないよ!息子、シノさんの息子だよ!」


 そう言って僕を指差す。篠山さんが息子の代わりのように可愛がってくれていると言いたいのだろうが、息子さんが亡くなった篠山さんにとって、かなりデリケートなことを明け透けに言い放つ女将さんに、周りのみんなは戸惑っていた。その様子を重々承知で、篠山さんは笑って言った。


「そうだな。じゃあ、新井に乾杯してもらおうか」


 あ、はい。僕は素直に従うしかない。僕は大人になってから結婚式にも出席したことがないし、こういう場面に遭遇したことがなく、乾杯の音頭というものがどういうものなのかわからず、いきなり「乾杯!」と叫ぶと、そうじゃねえよ、と大島さんに注意された。


「なんか、その、乾杯の前にコメントとかしろよ。今までお世話になりましたとか、これからお体に気をつけてくださいとかよぅ」


「まあ、まあ、まあ、いいじゃねえか。なあ」


 困っている僕を篠山さんが助けてくれた。そして杯を持ち上げ、篠山さんが喋り出した。


「まあ、今まで色々と。なあ、お前ら事件解決もいいが、体には気をつけろよ」


 そう言って場を和ませようとしてくれた。女将さんは篠山さんに、まあお互い息子が頼りないね、と言いながら篠山さんのグラスにグラスをぶつけた。その音が号令となって、みんなが杯を合わせる。


「コーラかぁ。なんかこういう時にコーラは、なんかシケてんな」


 篠山さんはコーラを一息で飲み干すと、早速ネギトロ丼にドボドボと醤油をかけた。それを見た女将さんが、体気にしろって言ってアンタも塩分気にしなさいよ、また篠山さんに毒を吐く。それで場が和んだ。


 みんなの注文もテーブルに運ばれ、各々料理を掻き込んだ。刑事の食べ方は、とにかく早い。チンタラと噛んだりしない。ほとんど飲んでるんじゃないかというスピードで口に運ぶ。飯を食うのが遅い奴は仕事ができない奴だ、と教えられてきた。そう教えたのは篠山さんだ。大島さんも三輪さんもそう教えられたのだろう。小暮だけ箸にちょこんと白米を乗せ、トンカツを一切れずつ丁寧に口に運んでいる。


「お前、食うの遅えな」


「三輪、お前、コイツに何を教えてんだ」


 篠山さんと大島さんが、三輪さんを揶揄う。ちゃんと噛まないと消化に悪いよねえ、と女将さんが助ける。小暮がトンカツを二切れ慌てて頬張る。咽せる。みんなが笑う。ほのぼのとした昼食の風景。


「だけどねえ。本当は優しい子なのよ」


 女将さんは手酌でグビグビとビールを飲んで、あっという間に1瓶空けると、カウンターのヒロシの方を見て呟いた。


「ウチのお父さん、このところ調子が悪いのよ。持病の腰も悪化してるのもそうなんだけど、健康診断で胃に腫瘍が見つかってね」


「おい、そりゃ大丈夫なのかよ」


「ああ、べつに悪性の腫瘍じゃないから大丈夫なんだけど。でもねえ、歳だから体力的に見せ続けるのは難しいかもねえ、って話してたところなのよ。それ話したら、あの子帰ってきたのよね。会社がもうダメだから、名義を他人に譲ったって言ってたけど、それね、多分嘘なのよ。あの子、店のこと心配して帰ってきたのよ。お父さんが、どれだけ店大事にしてたか知ってるから。親ってのは、子供が何考えてるか大体わかっちゃうのよね。特に嘘は」


 しみじみした顔で、女将さんは気づくともう1本、ビールの栓を開けていた。


「わかるよ。俺も息子が中学くらいかな。大体エロ本隠してあるところなんて、わかったもんな」


 篠山さんも何も気にしてない様子で、亡くなった息子さんのことを話した。みんなに、もう気にするな、と伝えたいのだろう。それを汲み取った大島さんが、笑いながら言った。


「そんな恥ずかしいことバラされたら、天国の息子さん、怒ってるぜ」


 篠山さんも舌を出して誤魔化して、天井の方に向かって、すまん、と謝るポーズをした。


「僕は、まだわかんないですねえ。ウチの子、よくテレビのリモコンや携帯なんか隠しちゃうんですけど、携帯鳴らしてもマナーモードにしてあるとわかんなくて、一晩中探したりして」


 三輪さんがしみじみと呟いた。

 自分が小さかった時のことを思い出した。僕も三輪さんの子供と同じようなことをしたことがある。父が大切にしていた本を隠した。警察関連の書物なのだろうか。洋書だったので英語ばかりで、何の本かは小さい頃の僕にはわからなかった。でも毎晩、風呂上がりにリビングのソファでお酒を飲みながら読んでいる本だった。

 僕はなぜ父の本を隠したのかわからないが、自分の部屋の机の抽斗に隠した。すぐ見つかるような場所だ。無意識にそうしたのだと思う。その日の晩、父は風呂上がりに本を探していた。母に本を知らないからと聞いたが、母は知らないと答えた。

 次の日の晩、父は風呂上がりにいつものようにお酒を飲みながら、ソファで本を読んでいた。いつもの本だ。心臓がひっくり返るほど驚いた。怒られることを想像し、隠したことを後悔したと同時になぜか嬉しかった。本が無くなったことを疑わられたのが僕で、父は僕の部屋で本を見つけた。そのことが怒られる恐ろしさより嬉しかった。多分構って欲しかったのだと思う。兄ばかり見ている父に振り向いて欲しかった。

 父は何も言わない。これは自分から謝るべきなのか、気持ちを整理するため自分の部屋に戻った。何気なく抽斗を開けた。本は、そこにあった。兄がタオルを首にかけ、風呂に入れと呼びにきた。僕は再びリビングに戻ると、父はこちらを見ようともせず本を読み続けていた。リビングのゴミ箱には、本屋のビニール袋が捨ててあった。僕の父は、そういう人だ。


「お前んとこは、まだ小せえからなぁ」


 大島さんが言うと、篠山さんは唸ってから、そうだなぁ、と言った。


「大きくなっても、わかんねえこともあるなぁ」


「シノさん、どっちなんだよ」


「んー、わかんねえこともあるし、大体はわかるってことだよ」


 意味深な空気に、みんなどう処理をしたらいいのか黙っていた。


「そんな、晴れのち雨のち曇りみたいな天気予報みたいなこと言ってんじゃないよ!」


 女将さんがそう言うと、みんながどっと笑った。女将さんの場をコントロールする能力は絶妙だ。さあて、と腰を上げて、仕事に戻んなきゃ、と女将さんは座敷から降りた。草履を履いて振り返ると、


「なんだね、アンタ!まだ食ってんのかね」


 と小暮に言った。みんな食べ終わっているのに、小暮だけトンカツ定食がまだ半分も残っていた。さっきは、よく噛まないと、とフォローしてくれた女将さんに言われ、小暮は戸惑っていた。

 篠山さんと目が合うと、さっと目を逸らされた。さっきの野々村さんの言葉。僕は篠山さんに悟られているのだろうか。わかんねえこともあるし、大体はわかる、篠山さんはどっちなんだろう。正直に答えた方がいいのだろうか。

















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