第111話 最後の昼飯

 篠山さんは、廊下で馬場課長を捕まえ、最後の挨拶をした。馬場課長は足を止めることなく興味がなさそうに、ご苦労さん、とだけ言って通り過ぎていった。馬場課長の取り巻きたちは、あの人誰でしたっけ、南署のだよ、とこちらに聞こえるような声で会話をしていた。

 馬場課長と取り巻き2人が過ぎ去っても、野々村さんだけは立ち止まっていた。野々村さんは上官の目をしていなかった。馬場課長とその取り巻きたちが廊下の突き当たりを曲がり、姿が見えなくなると野々村さんは口を開いた。


「篠山さん、本当に辞めるんですか?」


 篠山さんは定年を待たず、早期退職を決めた。聞かされたのは昨日の夜だった。あとほんの数ヶ月で警察人生を最後まで全うできるのに、9月いっぱいで退職すると言う。急な話に僕も昨夜、野々村さんと同じセリフを言った。篠山さんの決断は梃子でも動かないようだった。それまでは消化しきれていなかった有給を使うため、明後日から休暇に入る。

 篠山さんは鼻の横を搔いて面倒臭そうに、まあな、と答えた。篠山さんも、野々村さんを上官としてではなく、かつて師弟関係だった部下に対する口振りだった。


「もう疲れちゃったんだよな」


「なんですか、それ。最後まで全うしなくていいんですか」


「母ちゃんを心配させたくねえからな。それに最後の事件を終えて、区切りがいいんだよ、これで」


「なにが区切りですか!このヤマ、本当にこれで終わりだと思ってないですよね」


 篠山さんは半笑いで、熱くなる元部下を宥めた。篠山さんは、けっして野々村さんを馬鹿にしているわけではない。どうこう騒いでも、どうにもならないこともあると半ば諦めているように見えた。


「お前のところの課長さんが、終わりって言ったら、それで終わりなんだよ」


「らしくないですね」


とかっていうのは、どうでもいいんだよ。これで真犯人が大人しくしてりゃあ、一件落着なんだよ。真犯人以外、誰も本当のことなんてわからねえだろ。お前らは、がないように、あれだ、なんとかするだな」


 上官だが年下の人間に言われ、バツの悪そうな顔で篠山さんはまた鼻の横を掻いた。


「どうしちゃったんですか。篠山さん、むかし俺に言いましたよね、目の前の困っている人を助けろって。昨日、関七海の記者会見見ました?もし常田が真犯人でなければ、常田の家族は謂れのない罪で誹謗中傷の被害に遭っているんです。それを見過ごせと言ってるんですか!」


「もし仮にだ、常田が真犯人ではないなんてわかってみろ。狙撃班の小沢はどうなる!アイツは先月赤ん坊が生まれたばっかりだぞ。アイツの過失で無実の人間殺したってなりゃあ警察の不祥事だけの話じゃねえ。アイツの家族が誹謗中傷の被害に遭うぞ。それでもいいのか!」


 篠山さんの声が廊下に響き渡り、刑事課から職員が顔を出して覗いてきた。定年間近の一介いっかいの老刑事が、若手ホープの上官に楯突いている、彼らの目にはそう映ったに違いない。篠山さんは野々村さんに睨みを効かせている。野々村さんも怯まず睨み返している。


「もう、この件に触れるな」


「俺はまだ調べますよ」


 ふんっ、と鼻を鳴らし、篠山さんは野々村さんに背中を向け、刑事課に歩いた。刑事課事務室の入口に群がる職員たちが慌てて顔を引っ込めた。篠山さんの姿が刑事課に消えると、いゃぁー、皆さん本当にお世話になりましたー、とさっきまでの声とは全く違う明るく陽気な篠山さんの声が聞こえてきた。


 篠山さんが消えた方向を睨み続けている野々村さんの圧に、僕は金縛りにあったように動けなくなっていた。足が動かなくなっていた僕に、野々村さんがグッと顔を寄せる。


「篠山さん、なにか隠してないか?」


 野々村さんが言っている意味がわからなかった。


「あの人、むかしから隠し事してる時、鼻の横を掻くんだよ」


 そう吐き捨てるように言うと、野々村さんも馬場課長が消えた方向へ足を進ませて去っていった。

 すぐに篠山さんについて行けばよかったのに、今刑事課に入ると、野々村さんと何を話していたか詮索されてしまいそうで、戻るタイミングを失ってしまった。しばらく立ち往生していると、廊下に大島さんと三輪さんの姿が見え、声をかけられた。


「おう、新井。シノさん辞めるんだって?」


「なんか、そうみたいです」


「お前、止めろよ。世話になったんだろ。あと、ちょっとの辛抱じゃねえか」


「なんか、疲れちゃったみたいです」


 この場合、なんと答えるのが正解なのかわからない。篠山さんが野々村さんに答えていたことを、そのまま言った。


「なにが疲れちゃっただよ。元々ジジイなんだから、疲れるに決まってんじゃねえか。なんか、他の理由があるんだろ。お前、聞いてないのか」


 これにもなんと返事をしたらわからなくなっていると、誰がジジイだ、と篠山さんが刑事課事務室からヒョコンと顔を出した。大島さんは慌てて姿勢を正す。何も言ってないのに三輪さんまで同じように慌てていた。


「お前ら、もう飯食った?」


 大島さんと三輪さんが互いの顔を合わせ首を振る。


「もう俺もこっち来ることないから、最後にみんなで『かわせ』行くか?」


「そ、そうしましょう」


 ジジイと言ったのを聞かれたことを気にしているのか、大島さんは余所余所よそよそしく答えた。篠山さんは、その様子を笑って見ている。


「どうせジジイなんだ、気にするな。まあ、お前もジジイだけどな」


「いや、そうなんすけど」


「お前もジジイなんだから、体のこと気をつけろよ。こんなソファで寝泊まりしてないで、ちゃんと家の布団で寝ろよ」


「あぁ、はい」


「あと、あれだ。三輪のところの若い奴も一緒に行くか」


 小暮のことだ。不意に話が自分に振られ、三輪さんは慌てて、あ、すぐ呼んで来ます、と今来た方向へ走っていった。人にぶつかりそうになり、すみませんすみません、と言う声が廊下に響く。


「なんなんだよ、みんな。腫れ物に触るみたいに」


 大島さんは、なんだか複雑な表情で、子供が言い訳をするようにモジモジしながら口を開いた。


「やっぱり、なんかこのタイミングで辞めるっていうの早えっすよ。疲れたって言われたって、あともうちょい大人しくしてりゃあ終わるじゃないっすか。ちゃんとした理由聞かねえと、なんかみんな納得できねえよ。でも、なんて聞いたらいいかわかんねえし」


 大島さんは目を合わせていると言いにくいのか、目を伏せたまま早口で言った。自分のことを心配してくれている後輩に、篠山さんは優しい目を向けた。


「違うんだよ。逆だ。このタイミングまで決心つかなかったのが遅えんだよ。ウチの母ちゃんに心配かけてて、もっともっと前から辞めなきゃなんねえって思ってたんだよ。最後にデカい仕事に関わられたっていうのが言い訳で、本当はもっと早く辞めるべきだった」


 篠山さんの話し方は、何か含むような言い方だった。さっきの野々村さんの言葉が引っかかる。


「だって、ここまで続けたなら、せっかくなら退職金だってしっかり貰った方が奥さんのためにもいいでしょ。変なタイミングだったら満額貰えないでしょ」


「金のことはいいんだよ。とりあえず老後を暮らしていけるだけの貯金はある。ウチの夫婦はあんまり金使わねえからな」


 大島さんは納得してない顔で、むぅ、と唸った。

 大島さん、ここにいたんですか、と能天気な田所の声が聞こえた。教育係の大島さんに報告事項があって探していたようだ。最初は気づいていなかったらしく、大島さんにファイルを渡すと、僕の顔を見て、


「なんだ、パイセンもいるじゃないですか。合同捜査終わったのに、今日は何しに来てるんですか?」


 僕はそれに対して返事をしなかった。まったく、嫌味な奴だ。篠山さんの最後に余分なことを言いそうな顔をしているので、ちょっと、と腕を引っ張り、廊下の端に寄って篠山さんたちから離れた。


「痛えよ、なんすか?」


「お前は、余分なこという顔してる」


 こっちも嫌味を言ったのにヘラヘラしていやがる。


「なんすか、それ。人の顔のこと言って失礼ですよ。それより聞きました?例の井口の件。アイツ、丁度俺らが山梨行ってたとき、イレチで静岡戻ってきたらしいんだけど、とうとう頭おかしくなっちゃったらしいよ。今、相馬先生んとこ行ってるらしいですよ」


 初耳だった。始めは僕たちが追っていたのを田所は西川を使って横取りした殺人犯だ。でも、僕は篠山さんがこれでよかったのかの方が問題で、井口のことなんかどうでもよかった。

 そこへ三輪さんが小暮を連れて戻ってきた。


「なんですか、みんな雁首揃えて。あ、篠山さんの送別会の予定を話してるんですか?」


 やっぱり余分なことを言う奴だ。それにコイツは、大島さんのバディだった。べつに送別会の話をしていたわけではないが、田所も一緒に昼飯を食べに行くのは嫌だった。大島さんが自分のバディも誘うのはけっして不自然なことではないから、それは嫌だとも言えない。パッと小暮の顔を見ると小暮も嫌そうな顔をしていた。


「お前は、この間の常磐町の空き巣の報告書作ってこい」


 僕も小暮も田所のことが嫌いなのを知ってか、大島さんは気を遣ってくれた。


「えー、なんで俺ですか。それ、大島さんの書類じゃないですか」


「バカ!新人はそうやって仕事覚えてくんだよ!」


 完全なパワハラだが、僕は心の中でザマアミロと思う。小暮も下唇を噛んで、笑いを堪えていた。

 田所はブツブツ言いながら、踵を返すと、


「じゃあ、行きますか」


 と大島さんが丁寧な口調で言うと、みんながSPのように篠山さんの周りを取り囲んで歩き出した。


「なんだよお前ら。しててくれや」


 篠山さんは含羞はにかんだ顔をして、みんなに囲まれながら外へ歩いて、中央署を後にした。
















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