新井 規之
第110話 犠牲
常田の山梨リゾート施設立て籠り事件の事後処理で、篠山さんと中央署へ訪れた。事件は、常田が射殺されてしまったことにより、容疑者死亡のまま書類送検された。中央署は4日前までの喧騒が嘘のように静まり返っていた。もちろん事件が全くないわけではなく、それなりの騒がしさはあるが、この間までの緊張感は薄く、どの刑事も事務的な落ち着いた対応をしている。
僕たちの姿に気づき、刑事課職員の課長が無表情で会釈をしてきた。公開捜査後の電話対応に協力し結束力を感じたが、何事もなかったかのような軽い挨拶だった。みんなあの事件での疲労と、緊張感から解放され、腑抜けになってしまったように見える。
どの刑事、職員も今回の結末に
だが世論は違う。報道は常田が連続幼女誘拐殺人事件の容疑者の可能性が高いと謳ってはいるが、確証のない証拠を並べて視聴者を煽っている。幼児愛好の嗜好があったこと、会社でも営業職で犯行を行いやすい環境にあったこと、別居した原因が娘に対しての性的虐待があったなど、あることないことを書かれ、世間の人たちはそれを信じてしまう。
また、馬場課長もこの事件をこれで終わらそうとしている。あれから連日、会議室に籠りきりだ。馬場課長のことだ、でっち上げまではいかないにしても、適当に証拠が辻褄が合うようにと画策しているに決まっている。上層部だけで話して、現場の刑事たちには何も伝えられないのはわかっている。
あのアホな課長でさえ、この事件が終わりでないことくらい感じているのだろう。ただこれ以上市民の不安を煽らないよう常田が犯人で幕を閉じた方がいいのだ。市民の平穏な生活を守るため、そして自分の保身のために、この事件はこれで終わる。
会議室から、上機嫌で馬場課長が出てきた。その取り巻きたちも金魚の糞のように後は続き、一件落着ですね、とゴマを擦っている。記者発表での辻褄合わせの文言でも出来上がったのだろう。半歩下がって歩く野々村さんだけ、納得がいかない難しそうな顔をしていた。
僕はこの事件を終わらせた。自分ではそう思っている。でも、これは市民のためでも馬場課長のためでもない。これは篠山さんの関わる最後の事件だからだ。このまま無事に終わって欲しい。
本当は篠山さんに手錠をかけさせてやりたかった。バルコニーに常田の姿が現れた時、戸惑う篠山さんの腕を引っ張り、最前列に陣取った。僕は銃を構えた。威嚇ではない、撃つつもりだった。発砲の理由を探した。常田が何か怪しい動きをしないか待っていた。1発で仕留めなければならない。だが僕が常田を仕留めるまで乱射するのは不自然だ。それに僕は射撃が苦手だった。射撃訓練の成績が悪かった。常に右に逸れる傾向がある。それを計算に入れても、万が一逸れた弾がみずきちゃんに当たってしまったら一大事だ。僕の教育係の篠山さんにも責任が問われる。だから、常田から大幅に逸れたバルコニーの柵を狙った。あとはタイミングを待つだけだった。
そのタイミングはすぐに訪れた。常田は右手を後ろに回した。常田が銃を持っていないと確信していた。改造銃を所持していると言っていたのは、あの井口だ。信憑性が全くない。それに常田がカーテンを捲った黒い物体も、あれはテレビのリモコンだとハッキリ見えていた。周りの刑事たちに拳銃所持を刷り込ませるため、銃だ!と叫んだのは僕だ。すぐ側の刑事がそれを信じて、拳銃を確認、と叫んだ。連絡用のイヤホンからは、発砲許可を待て、と野々村さんの指令が下る。現場はただならぬ緊張感に包まれた。左右向かいのコテージの2階バルコニーに2人、立て籠もっている4軒隣の屋上に1人、狙撃班が待機していた。狙撃班に選ばれるくらいだから、射撃訓練でも好成績だった連中だと思うが、日本では実戦で実射したことなどないだろう。僕だって人が死ぬところは傍観できたとしても、自分の手で人が死ぬと思うと引き金を引くことは躊躇される。みずきちゃんに誤射してしまうことは言い訳で、僕の撃った銃で常田が死んでしまうのには耐えられる自信がない。狙撃班の連中だって同じだろう。狙撃班の緊張も伝わってくる気がした。でもこの緊張感を僕が作った。あとは、この緊張が破裂するきっかけさえ作ればいいだけだ。それは一か八かの賭けだった。
僕の放った銃声をきっかけに、2発の銃声が聞こえた。それと同時に、バルコニーに立っていた常田の姿が消えた。1つは2階の壁に当たり、もう1発は常田に命中した。イアホンからは慌ただしい声が聞こえた。狙撃班の1人が膝を狙ったのが、常田の体勢が崩れ腹部に当たってしまったと騒いでいた。もしかしたら僕の銃声で腰が引けてしまい体勢が崩れたかもしれないが、真意の程はわからない。バルコニーの柵にしがみつき、みずきちゃんは泣きながら何かを訴えていた。
大勢の捜査員が一斉に動き出した。玄関は駆けつける者、中には1人の捜査員の肩を踏み台にさせてバルコニーへよじ登る者もいた。
「篠山さん、手錠!」
僕は必死に篠山さんの腕を引っ張り、玄関から土足のまま2階へ駆け上がった。他の捜査員を押し退け、バルコニーに向かった。2階に上がり外へ出ると、みずきちゃんは常田に覆い被さるようにして、救急車を呼んで、と泣き叫んでいた。常田の腹部の下には大きな血溜まりができていて、常田が助からないことは誰の目から見ても一目瞭然だった。先に着いていた捜査員がみずきちゃんを抱え起こした。
「篠山さん!今です、手錠を」
篠山さんはその光景に、片手で手錠をぶら下げたまま立ち尽くしていた。そうこうしている間に、救急隊が到着し、捜査員を押し退けて先にみずきちゃんを確保し、続いて常田を担架に乗せた。誰も常田に手錠を掛けようとする者はいなかった。担架に乗せられた常田はまだ息があったが、搬送された病院で息を引き取ったと聞かされた。
これが常田の立て籠り事件の結末だ。あとは、これだけ公にされたことで真犯人が再度同じ犯行を繰り返すことをしなければ、この事件はこれで片付けられる。常田は真犯人ではない。本物の『チャミュエル』が名乗り出ない限り、常田が真犯人ということで、この事件は終わる。そしてこの事件の根本の原因は、親の虐待だ。この事件をきっかけに、世の中の虐待が少しでも無くなれば、常田が犯人であろうとなかろうと、それは大きな問題ではない。
昨日、誘拐された関みずきちゃんな母親の関七海と記者会見で、常田は真犯人ではないことを訴えているのが報道された。ただ世論は冷たく、関七海の訴えを聞くどころか、虐待していた母親が無理やり娘を巻き込んで記者会見をしているだとか、義父といい母親といいテレビに出てそんなに目立ちたいのかなどと母親に対するバッシングの方が大きかった。記者会見を放送した情報番組ではゲストの精神科医がストックホルム症候群について語り、みずきちゃんの精神状態を気にしていた。またその状態で記者会見の場に連れて、娘に喋らせたと母親へのバッシングを生む。なぜか隠し撮りされた写真で、常田の妻の家族と関親子が一緒にバーベキューをしている姿が公表され、事件は常田家と関親子の自作自演ではないかと根も葉もないことを叩かれる始末だ。
常田が犯人にされたことで、常田の妻と娘、妻の実家の大石家は、この事件の犠牲者である。ただ世論は、誰もが常田が犯人であることを求めている。これで決着をつけ、平穏な生活、心の安心を求めているのだ。人は魔女狩りの時代から何も変わっていない。だれか生贄が必要なのだ。
ふと外に目をやる。白くてモコモコとした入道雲が目に入った。あの雲の向こうに、椎名恵の顔が映る。
これで良かったんだよね。
雲の向こうの椎名恵に話しかけた。
椎名恵の顔は、微笑んだようにも、悲しんでいるようにも見える曖昧な表情で僕を見下ろしていた。
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