第109話 1歩前進

 あらかたの肉や野菜が焼き終わり、玲香さんも座って食べ始めた。のんびりとくだらない話をしている時に、既に食べ終わって遊んでいたみずきが、玲香さんの前に立った。


「どうしたの?」


「あの、これ」


 みずきは封筒を玲香さんに渡した。それは常田の血が付いた例の手紙だった。そうだった、みずきは今日これを渡しに、この家を訪れたのだ。


「これが、裕司さんの手紙?」


 さっきまで笑っていた玲香さんも、手紙を目の前にすると少し顔に緊張が浮き出た。予め電話で、手紙の件は伝えてあった。手紙のことは気にはしていたんだと思う。けど、どんなことが書いてあるのか、読んだら常田のことを思い出して辛くなるんじゃないか、変なことが書いてあるんじゃないか、手紙って何よ、とか私だったら余分なことを色々と考えてしまう。気にしてはいたけど、催促するまでしなかったのは、複雑な思いが絡まり、その手紙を受け取らなければそれでもいいと思っていたのではないか。

 玲香さんは封筒を表にしたり、裏にしたりして眺めて、なかなか開けようとはしなかった。


「なんだね、手紙かね。祐司さんは洒落たことするねぇ」


 玲香さんの思いを汲み取ってか、お婆さんは冗談を言い、場を和ませようとした。気づくと御主人と優香ちゃんも側に来て、手紙を待つ玲香さんの手元を覗き込んでいる。


「みずきちゃんは、中身、知ってる?」


 みずきは頷いた。


「みずきもママに手紙書いた。オジサンと一緒に書いたんだよ」


 玲香さんの表情は、笑顔を保たせていたが、手の甲で額を抑え、ふぅー、と一息吐いて封筒を見つめた。目は少し潤んでいるように見える。平然を装ってはいたが、玲香さんも辛いんだと思う。


 御主人もお婆さんも優香ちゃんも、無言の圧で手紙を開けるよう催促していた。


「わかったわよ。開けるよ、開ければいいんでしょ」


 手紙を開くと、体を少し後ろに引き、覗き込む3人に見えないようにして、1人で読んだ。


「あー、ダメだ」


 玲香さんは手紙を持った手を膝の間にぶらんと下げ、顔を空に向けた。指先で丁寧に目の下を拭った。


「裕司さんらしいわ」


「ねえ、なんて書いてあった?」


 そう言う優香ちゃんに、玲香さんは手紙を渡した。優香ちゃんが目の前で広げた手紙を、御主人とお婆さんが覗き込む。


「本当だね。祐司さんらしいわ」


 お婆さんは感心したように唸った。というものが、私には常田がどんな人なのか知らないから想像できない。


「読む?」


 優香ちゃんが私の顔を見た。私は思わず手を出したが、すぐに手を引っ込めた。まだそこまで親しくない間柄なのに、そこまでプライベートなことに踏み込んではいけないと気が引けたからだ。玲香さんの方を見た。目が合った。


「いいよ。読んであげて」


 私が遠慮してると、私の気持ちを察したのか、いいじゃない、もう友達なんだから、と赤くした目を擦って微笑んでくれた。友達か、いい響きだ。私はみずきを産んでから、同世代の友達なんかいなくて、パートで知り合った同僚も、友達と言えるほどの仲にはならなかった。私と玲香さんの関係に、まだ知り合ったばかりなのだが、という響きが妙にしっくり感じた。


 私はゆっくりと手紙を広げた。

 そこには1行だけ書かれていた。

 誰でも書けそうな言葉だが、それは誰にも書けない一文だった。簡単な言葉だけど、選びに選んで選び抜いて書かれた一言。そこに全ての気持ちが込められていると感じた。そして、常田の為人ひととなりがわかった気がした。

 この人は犯人ではない。私のやることは、既に決まっていた。





 大石家を訪れて2日後、私は大勢の人の前に立っていた。私を取り囲む人たちは、一斉に私にカメラのレンズを向けてから。シャッターの光が眩しい。立ち眩みしそうだ。私は今、みずきの公開捜査で記者会見を行った利喜人くんと同じ舞台に立っている。みずきも一緒に立っていた。私の決断でみずきを巻き込んでしまったが、みずき自身も賛同してくれて、自分も出たいと言った。たくさんの報道陣の好奇の目が私たちに向けられている。自分で選んだことなのに、逃げ出したい気持ちになったが、みずきの前でそんな弱気な自分は見せられない。それにみずきは会場に入る時も何事にも臆さないしっかりとした足取りだった。みずきが側にいることが心強い。橋口さんも駆けつけてくれた。ひかりは控え室で橋口さんが見てくれている。

 笹原脩三と献金を渡した業者の代表が逮捕され、それを仲介した柊木奈津子も逮捕された。橋口さんは事情聴取で関与していないことが認めらた。柊木奈津子が多額の保釈金を払い、留置所からは保釈された時に、橋口さんは柊木奈津子の事務所を退社した。ひかりは橋口さんに懐いている。控え室で橋口さんは、私むかし保育士目指してたんですよねぇ、と言ってひかりをあやしてくれていた。私もその方が橋口さんには合っていると思う。

 私たちの隣には、あの頼りない弁護士の韮沢さんが立っている。橋口さんが呼んでくれた。何かあった時のために弁護士がいた方がいいのだが、すぐに頼めるのが韮沢さんしかいなかったようだ。特に何かするわけではないが、眉間にシワを寄せ難しそうな顔をして威厳を保っているようだ。また都合が悪くなるとスルッといなくなるのだろうが、私にはみずきがいるから大丈夫だ。それに会場には玲香さんと優香ちゃん、御主人にお婆さんの姿もあった。そちらの方がずっと心強い。


 それでは、と進行役の司会者が私たちの記者会見を始めることを伝えた。一斉にシャッターのフラッシュをたくさん浴びる。私たちは彼らに向かって、深々と頭を下げた。顔を上げてマイクを触ると、ハウリング音が鳴り、心臓がバクッと萎縮した。みずきが私の手を握る。みずきと目を合わせると、みずきはテーブルの高さの見えない位置で、拳を作りガッツポーズを見せてきた。私は意を決して口を開いた。


「この度は、お騒がせして誠に申し訳ありません。この場を借りて隣にいる娘、みずきにも謝罪したいと思います。私がこういった場で話をすることに気分を害する方もいるとは思いますが、皆さんに伝えたいことがあります。そのためには今までの私の罪を白日の下に晒さなければなりません。私の罪は、娘に対する虐待です」


 口を開くと、言葉がスラスラと出てきた。自分で喋っている感じがしない。喋る私を傍観している私がいる。傍観している私は、むかしの私。今の私は、自立した私、目の前の壁にも立ち向かえる強い私。そして、周りの私の大切な人を守れる私。傍観する私が消えるまで、私は報道陣を端から端まで睨むように見つめた。

 さっきまで天井で眺めていた今の私を傍観する弱い私は背を向けた。


「私は育児放棄していました。私が弱かったんです。娘は報道でもご存知だと思いますが『チャミュエル』なる人物に助けを求めました。その結果、常田さんが亡くなるこの事件に繋がってしまいました」


 カメラのフラッシュが眩しくて、目を開けているのが辛い。テレビカメラの照明が熱い。報道陣の視線も熱いく感じる。カメラの向こうにいるテレビを見ている人たちの視線も感じる。私たちが、ただの見せ物になってしまわないために、言うべきことは、ちゃんと言わなければならない。玲香さんが両手を組んで祈るようにして、こちらを見つめている。私は、ふぅー、と息を吐いて続けた。


「常田さんの名誉のために言います。常田さんは『チャミュエル』ではありません」


 会場がどよめく。これも演出だ。予め私が記者会見をする際、報道陣を呼ぶ理由として『犯人は常田ではない』ことを伝えてある。


「犯人は常田だと警察も発表してますよね!」


「どういうことですか!」


「じゃあ、犯人は他にいるってことですか!」


 方々から野次が飛ぶ。

 報道陣は台本のない舞台で、自分の役割を果たしているだけだ。私の役割は、常田の冤罪を晴らすこと、そして玲香さんたちを守ることだ。


「常田さんは、チャミュエルを探して彷徨っていた娘を助けてくれたんです。もし娘が常田さんに出会わなくて、もしチャミュエルに声をかけられていたら、今娘は他の被害者の子たちと同じ運命を辿っていたかもしれません。被害者遺族の方には申し訳ない言い方になってしまいますが、娘のみずきがこうして隣に立っていることに安堵しています。そして娘ともう1度向き合えたことに感謝しています。私たちにとって、常田さんは救世主なんです。常田さんがいなければ、娘の尊さと虐待をしていた愚かさに気づかなかった。娘のように悩んで自分の居場所を見つけられない子供たちが大勢いると思います。私と同じように虐待してしまうお父さん、お母さん。どうか目の前のご自身のお子さんともう1度向き合ってください。子供を傷つけることは、自分自身を傷つけることです。その子供たちに、チャミュエルの魔の手が迫っています。何度でも言います。常田さんは犯人ではありません。警察の方、どうか真犯人を見つけてください」


 私は会場を見渡した。出入口付近に腕を組んで壁に寄りかかっている野々村の姿があった。私は真犯人を見つけてください、ともう1度、野々村の方に向かって言った。野々村は微動だにせず、こちらを見返している。

 私は常田が真犯人ではないかと、そして大石さん宅への嫌がらせを止めて欲しいことも訴えた。玲香さんは両手で顔を塞いで泣いていた。

 今度はみずきがマイクを握った。みずきが喋り出すと、野次は収まった。常田が犯人ではないことを訴えた。行動を共にしている期間に常田から聞いたこと、その時に感じたこと、みずきはみずきの言葉で常田を守ろうと必死だった。

 私は野々村を見つめた。事件をこのままで終わらせることはできない。常田が真犯人ではない。根拠はないが確信している。野々村は組んでいた腕を解き、出入口に体を向けた。玲香さんの前を素通りし、出入口のドアを開けた。私はその背中を、じっと睨んだ。

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