第108話 網のコゲ
奥さんがバーベキューコンロに炭と着火剤を並べて、火を点けようとすると、なにかツンと鼻にくる刺激臭がした。彼女は火を点けるのを止めて辺りの臭いをクンクンと嗅いだ。
「なんか、臭わない?」
バーベキューコンロの周りを確かめて、臭いの発信源はそこではなく、私も一緒に周りを探った。シンナーのような臭い。もしガス漏れや何かだと、火を点けると危険だ。家の中も確かめたが、臭いはそこでもない。どうやら外から臭ってきているようだ。落書きのこともあり、もしかしたら誰かの嫌がらせではないかと不安になった。
奥さんは急いで玄関に回り、外の様子を伺いに出て行った。
「ちょっと!なにやってんの!」
奥さんの声が外から聞こえ、恐る恐る玄関に回り私も外へ顔を出した。
「お父さん!そんなもの、どっから持ってきたの!」
外には、白いポロシャツのお腹の部分が膨れた恰幅のの良いお爺さんがいた。お爺さんは咥えタバコで、壁に刷毛でペンキを塗っている。どうやらこのお爺さんが、この家の御主人のようだ。
「おう。さっきジャンボエンチョーでペンキ買ってきた」
「そうじゃないでしょ。引火したら危ないでしょ!タバコ!」
「え、そうなのか?」
慌ててタバコをポイッと地べたに捨て、足で揉み消した。常田の奥さんがそのポイ捨てを注意すると、お爺さんはまた慌てて拾い、ポロシャツの胸ポケットに入れると、またそのことを注意された。
「お父さん、それで忘れてそのまま洗濯機入れちゃうでしょ!それにポロシャツ白なんだから、灰で汚れちゃうでしょ!」
ブツブツと文句を言う奥さんに、御主人はしょんぼりした姿で後についていく。この家の女性は、強い。
「ちゃんとした業者さんに頼むから、お父さんは余分なことしなくていいよ。どうせ、やってもヘタクソなんだから」
「なにも、あんな言い方しなくてもいいじゃないかねぇ」
御主人はバツの悪そうな顔をして、私に言った。
庭に戻ると、御主人はお婆さんにも叱られ、更にしょんぼりとして、庭の隅に折り畳みのデッキチェアを広げちょこんと座った。私たちのせいで落書きされて、いろんな意味で御主人にも申し訳なくなってしまう。
異臭の原因がわかったところで、お婆さんはバーベキューコンロに火を点けた。奥さんは網の上に油を染み込ませたスポンジで油を塗り、トングで野菜を並べ始めた。
「あ、大石さん。私がやりますよ」
いつまでもお客さん顔をしていられないので、変わろうとすると、抱いていたひかりを見て、ひかりちゃん抱っこしてるから座っていて、と言われた。私は座るのも悪いかと、ひかりを抱いたまま横に立っていると、それに私まだ常田よ、と奥さんは言った。
「離婚届、まだ出してないの」
「え?」
「ウチのお父さん、あんな感じに見えて、結構頑固なのよ。離婚は絶対ダメだって。離婚するっていうのは、娘から父親を取り上げることなんだって」
紙皿に焼き上がったピーマンを乗せていく。その紙皿を御主人のところまで運んでいった。気がつくと、お婆さんも御主人の隣に座り、ビールをお酌していた。酒のつまみにピーマンが届くと、御主人は嬉しそうにピーマンを頬張った。なんだかんだ言って、この家は御主人のことを立てているんだと感じた。
「あの人ね、あ、常田のことだけど、いつも文句も言わないでなんでも私の言う通りにしてくれてたの。私がいくら我儘言っても、なんでも我慢してくれてた。私、それに腹が立ったのよね」
常田さんは、と言いかけてそれが常田裕司のことか奥さんのことか混乱してしまうな、と言葉を詰まらせていると、玲香でいいよ、と奥さんは私の気持ちを汲み取ってそう答え、玉ねぎをひっくり返した。
「玲香さんは、離婚するつもりはなかったってことですか」
「もちろん。祐司さんね、本当は私に言いたいこと、嫌なことたくさんあるくせに、いつも何も言わないの。ケンカすると、俺が悪かったって。それが腹立つなよね。ウチのお父さんみたいで。私が優香を連れて出て行ったら、なんかアクションあるかな、と思ってたら、あの人一切連絡寄越さないの。頭くるでしょ。だから、こっちも意地で連絡くるの待ってたのよ。そしたら、この時間でしょ。こっちから連絡するしかないじゃない?」
テレビでは離婚した妻と報道されていた。事実、別居状態で7年も経っているのだから離婚しているようなものなのかも知らないが、話を聞いていると少し違ってくる。
「そろそろね。連絡もしなきゃって思ってたところだったのよ。優香の中学受験もあるし。公立でいいかなって思ってたら、優香は私学に行きたいって言うし。私学って親の面接もあるのよ。離婚届出してないから、小学校の書類はあの人の名前代筆してたんだけど、面接っていうと代理で誰か連れてくわけにもいかないし。中学受験を機に、あの人に戻ってきてもらおうかなって、ちょっと考えてたところだったの」
また胸にグサっと何が刺さった。こんな事件がなければ、ここでバーベキューをしているのは私たちじゃなくて常田で、7年ぶりに幸せな家庭に戻れたのかもしれない。私の育児放棄が、こんな結末を生んでしまうなんて、いくら謝っても許してもらえない。
「変な責任感じないでよ」
紙皿に焼けた野菜を取り分け、手際良く肉を焼き始めた。
「私が悪いのよ。7年もそのままにして。なんて言えばいいのかな。あの人の方から言わせたかった。意地になってたのかな。あの人の方から言わせないと、実家に帰った意味がないと思っちゃって。お父さんにもお母さんにも、もういい加減にしなさい、取り返しつかないことになるよ、って言われて。まあ、取り返しつかないことになっちゃったんだけど。それに7年も連絡無いって、もしかしたらあの人にはもう新しい
「玲香さんは、自信が無いように見えないです」
私は自分に自信が持てないことを告白した。みずきは前の夫との子供で、マザコンで姑のイビリが嫌で離婚したこと、1人で育てようと決心したのに利喜人くんと出会って自分のことしか見れなくなってしまったこと、その利喜人くんと一緒になったことでみずきを育児放棄してしまっていたこと、自分も母親に育児放棄されていたこと、その母を憎んでいること、今まで生きてきて男性に媚を売るような自分の性格、自分の嫌な部分、汚い部分を包み隠さず話した。玲香さんは、肉を焼きながら黙って聞いてくれた。
「いいんじゃない。人間だもん」
「でも、今までみずきのことをちゃんと見てあげれなかった。自分のことしか考えてなかった、みずきの心を傷つけてしまった、そんなことに今気づいて、母親失格です。恥ずかしいです」
玲香さんは腰に手を当て、ふぅー、と一息吐いて考えるように空を仰いだ。
「じゃあ、母親合格って、なんだろうね?」
「......子供のために自分を犠牲にできる母親ってことですかね」
玲香さんはトングを持っている手をブルンブルン振るって否定した。
「あー、私、それ違うと思う。だって、自分の母親が犠牲になって不幸で、自分が幸せ感じられる?あなたの母親が、自分を犠牲にしてあなたに尽くしてたって、あなたは自分のせいで母親は不幸なんだって思っちゃわない?まあ今は、そんな母親が不幸になってたら、ざまあ見ろ、って思えるだろうけど」
玲香さんの話し方は、非常にサバサバとしている。
「私がみずきちゃんの立場だったら、自分のせいでお母さんが不幸だと思ったら、それは幸せだと思えるかな?」
そして後ろを振り返り、御主人とお婆さんの方を見た。御主人が玉ねぎを上手く持ち上げられなくて、玉ねぎがボロボロと崩れていくのを、お婆さんが笑って見ている。
「ウチのお母さんね、むかし浮気してんの」
「え?」
「私が中学生くらいの頃かな。弟はまだ小学校だったから覚えてないみたいだけど、お母さん家出て行こうとしたの。べつに浮気相手と暮らそうとしたわけじゃないんだけど、自分でお父さんの妻である資格がないって。そうしたらお父さんが、『コイツらの母親は誰だ』って。お母さんは泣きながら『私です』って言ったら、『じゃあ、コイツらの父親は誰だ』って。そりゃあお父さんのことに決まってるじゃんね。そうしたらお父さんは『じゃあ、お前は俺の妻だ』だって。要は別れないって言いたかったんだろうけど、回りくどいよね」
ほら七海さんも食べて、と焼き上がった肉と野菜を紙皿に乗せてくる。
「ほーら、子供たちー!ゲームは止めて早く食べに来てー!どんどん焼いちゃうよー!」
みずきと優香ちゃんが家から出てきた。優香ちゃんが肉に齧り付き、遠慮しているみずきにも食べるように促す。みずきはチラッとこっちを見たので、私は頷いた。みずきは嬉しそうに肉を口に入れた。
「お母さーん。ひかりちゃんが食べれるもの、なんかない?」
「ああ、じゃあ雑炊でも作るよ」
「大丈夫ですよ。あの、ミルクとかも持ってきてますし」
「そんなもんじゃ大きくなれないよ。もう離乳食は食べれるんでしょ。雑炊なんてササッと作れんだから、遠慮しないで」
そう言ってお婆さんが立ち上がると、隣の御主人が今度はピーマンと格闘していた。やっとなことで箸で挟んだピーマンを、お婆さんは掌で叩き落として、またケラケラと笑っていた。それを見ていた玲香さんは、私に戯けた顔を見せた。
「結果、お互いが遠慮しちゃダメってことじゃないかな。あんな感じでいいのよ」
奥さんはあんななって
「だからね。私、離婚届出さない。あの人最後に電話で、離婚届出せって怒鳴ったのよ。あの人がそんな声を荒げるのって珍しいんだけど。でもね、出さない。それにあの人は連続殺人なんてしてないって言うし、別れる理由ないでしょ。多分、犯罪者の家族にしたくないんだと思うけど、離婚届出したって、犯罪者の家族って言われちゃうんだから、意味ないよね」
玲香さんは結構重い話をしているのに、あっけらかんとしていた。
「みずきも言ってました。常田さんは犯人じゃないって」
「私も信じてる。っていうか、あの人が人を殺せる度胸があるわけないんだから」
焦げ臭いにおいに気づいた。2人とも話に集中しすぎて、目の前の肉が焦げていることに気づかなかった。わあぁぁぁ、と2人で慌てて焦げた肉を皿に上げて、真っ黒くなった肉を見て、ゲラゲラと笑った。
笑いながら網に付いたコゲを、片手でトングに挟んだ油のスポンジで落としていると、「さぁー、おじやだよー」とお婆さんがフワッとひかりを抱き上げた。ひかりは泣くかと思ったら、普通にご飯を食べ、いつもより機嫌がいいくらいだった。
みずきとひかりを交互に見た。私たちはこの子たちのために、いや自分のために何をすればいいのか決意した。そして玲香さん、優香ちゃん、御主人とお婆さんのためにも、やるべきことは決まった。油のスポンジでコゲを落とすと、自分の気持ちまで晴れやかになった気がした。
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