第107話 常田玲香と常田優香

 私たちは朝早く起きて身支度をした。買い物やピクニック気分とは違い、少しばかりの緊張感があった。昨夜、常田の奥さんに今日の午前訪問することを伝えると、彼女は快く受け入れてくれた。奥さんは常田が亡くなったことをみずきのせいではないと言ってくれたが、事件に関わっていることで全くの無関係とは言えない。彼女は口に出さないだけで、本当はみずきのことを恨んでいても、その母親の私のことを憎んでいても仕方がないことだと思う。それなのに逆に、娘さんを巻き込んでしまって申し訳ない、と謝罪された。そして、もしみずきが事件のことを思い出すのが苦痛でなければ、何があったのか話を聞きたい、そう言っていた。

 みずきは学校に連絡して休ませている。みずきは大丈夫だから学校に行くと言っていたが、体調のことより他の生徒たちに色々と聞かれるのはみずきにはまだ負担が大きいと思い、暫く休ませることにした。学校の方も皆まで言わなくても理解してくれ、学校側もマスコミが押し寄せ、他の生徒たちの影響のことも考え暫くは休んでほしいと言われた。電話口では、常田にも娘さんがいて、みずきよりも2つ上だと言う。向こうも娘さんは学校を休ませているそうだ。

 家の車は利喜人くんが乗って実家に行ってしまったので、タクシーを呼んだ。バスなどの公共機関を使うと、周り目もあるのでタクシーで直接行くことにしたのだ。

 タクシーの中、みずきも緊張していた。口数が少なく、ずっと下を向いて両膝を掴んでいた。みずきは自分に責任を感じている。自分が逃げたい、死にたいと思っていたことで、常田を巻き込んでしまった。SNSで『チャミュエル』という人物を知り、その人物は自殺願望のある小学生を甘い言葉で釣り、自分の快楽なのか子供たちのことを助けるためなのかはわからないが、みずきは勘違いで常田について行ってしまった。もし自分が常田を『チャミュエル』とやらに間違わなければ、常田は死ぬことはなかったと責任を感じてしまっている。みずきのせいじゃないと、私がいくら言ってもみずきの気は晴れない。みずきが死にたい、いなくなりたいと思わせてしまったのには、私に原因がある。これは私に責任がある。自分の気が晴れるためではなく、全てを晒け出さないと、私たちは1歩前に進めない。

 ボォー、ボォー。ひかりがタクシーの窓の外を指し、なにか言っている。何に反応したのかと外に目をやると、黄色い象の看板が見えた。耳鼻科の看板のようだ。


「ひかり、象さん見えたね。パオーン」


 それに気づいたみずきが、ひかりをあやす。重くなったタクシーの中の空気を、ひかりが少しだけ軽くしてくれた。


 程なくして、常田の奥さんの実家近辺に着いた。タクシーに停めるように伝え、私たちはタクシーを降りた。家の前までタクシーで行くことに、なんとなく気が引けて、少し手前で降ろしてもらった。降りた場所は、一軒家が多い高級住宅街だ。常田の奥さんの旧姓は大石だと教えてもらった。携帯でマップを確認しながら、大石さんの家を探した。


 大石さんの家はすぐに見つかった。私はその家を見て、胸が抉られる感覚がした。

「連続殺人犯の嫁」「幼児愛好家の変態」「出て行け」「死ね」家の壁には心無い辛辣な言葉が落書きされていた。周りのセミの鳴き声だけが大きく響き、私たちだけポツンと取り残されている感覚に陥った。それは現実味がなく、なにか次元の違うものを見せつけられている気分だった。1人の女性がバケツとタワシを持って、落書きを消そうと掃除していた。多分彼女が常田の奥さんだ。

 私たちが声もかけられず立ち尽くしていると、ひかりの声に気づいた奥さんが掃除の手を止め振り向いた。


「あ、えっと。関さんですよね」


 彼女は笑顔で、みずきちゃん?とみずきに声をかけた。


「あの、これって......」


 私はその落書きを見て、言葉に詰まってしまった。


「ああ、これね。昨日までは無かったんですよ。嫌ね、こんなことするなんて」


 みずきは常田の奥さんに近づくと、彼女が持っていたタワシを取り、壁にクレンザースプレーをかけて掃除し始めた。それを奥さんは慌てて止めた。


「みずきちゃん。いいの、いいの。手が汚れちゃうよ」


 すみません、私は頭を下げるしかできなかった。


「これ、私たちに掃除させてください」


 私はそう言うのが精一杯だった。こんな迷惑をかけてしまった。マスコミで報道されてしまうだけでなく、SNSで簡単に個人情報が拡散されてしまい、彼女は何にもしていないのにこんな仕打ちを受ける。それが心苦しかった。


「いいのよ。後でペンキで塗っちゃえば。さっきからやってるんだけど、これ全然落ちないのよね」


 奥さんは笑顔でそう言って、何事もなかったことのように掃除用具を片付けた。彼女だって辛いだろうし、こんな仕打ちを受ける筋合いもないのに、彼女の気丈に振る舞いが、かえって私の胸を抉った。


「さあ、さあ。上がって。まずは汚れちゃったから手を洗おうか」


 私たちは彼女の家の玄関に通され、靴を揃えて家に上がった。みずきは洗面台に案内され手を洗い、リビングに通された。ソファに座ると、奥から白髪頭のお婆さんが冷たいお茶とお菓子を運んできた。


「あの、すみません。お構いなく」


「いいんだよ。こんな暑いんじゃあ、喉だって乾くでしょ。お嬢ちゃんはジュースの方が良かったかい?」


 あ、大丈夫です。ありがとうございます。みずきはかしこまって、お婆さんにお辞儀をした。礼儀正しい子だねえ、とお婆さんは感心して頷く。ひかりが何か話したそうに口をパクパク動かしていたのを、お婆さんはマネをして、ひかりの頬っぺたを撫でた。


「可愛い子だねぇ」


「本当に、私たちのせいで、こんなことになってしまって誠に申し訳ありません」


 私は顔を上げれず、謝ることしかできない。


「何がだね?」


 こういう時、常田のことをどう言って表せばいいのか迷ってしまう。常田の奥さんから見て『旦那さん』と言ったらいいのか、お婆さんから見て『お婿さん』と言ったらいいのか。迷った末、話の流れでわかるかと思い、『常田さん』と呼ぶことにした。


「あの、その、私たちのせいで常田さんを亡くしてしまい、それに、あの奥さんまで、あの、家の、家に迷惑をかけてしまって、その」


 いざ奥さんを目の前にすると緊張が大きくなってしまい、まったく何を言っているのかわからなくなってしまった。私は自分の気持ちを伝えるのが下手だ。だけど、これからはしっかりと向き合わなければならない。床に降りて土下座して頭を下げた。


 常田の奥さんとお婆さんは顔を見合わせ、優しく手を差し伸べ、体を起こしてくれた。


「関さんが悪いわけではないですよ」


「そうだよ。アンタたちの方が被害者でしょ。みずきちゃん、本当にウチの祐司さんがアンタに怖い思いさせちゃったんじゃないの、ごめんね」


 お婆さんがみずきに声をかけた。みずきは膝を掴んで俯いていた顔を上げ、首を左右に振った。


「ほれ、外は暑かったから喉乾いたでしょ」


 お婆さんはそう言って冷たいお茶を勧め、席を立ったかと思ったら、今度は茹でたトウモロコシを持ってきた。


「これ、甘くて美味しいから。食べな」


 トウモロコシを差し出されて困ったような表情をしていたみずきは、助けを求めるように私の顔を覗いてきた。じゃあ、いただこうか、そう言って私が先にトウモロコシを取ると、みずきも遠慮しながら一口齧った。


「美味しい!」


「ね、美味しいだろ。昨日、佐久間さんに貰ったんだけど、今年のは本当に美味しいんだよ」


 佐久間さんが誰なのかはわからないが、私も一口齧ると甘くて、塩気も丁度いい加減で本当に美味しいかった。一口しか食べないのも失礼かと思い、親子で黙々とトウモロコシを齧っていると、それはそれで失礼なんじゃないかと不安になってしまう。その姿を、お婆さんは満足そうな笑みで眺めていた。


「さあて、アンタたちは、昼はどうするんだい?」


 私とみずきは、トウモロコシの芯を持ったままキョトンとしてしまった。


「今日はね、天気もいいから庭でバーベキューだよ。アンタ、車で来たのかね?」


 お婆さんはそう言ってハンドルを動かすジェスチャーをした。どうやら昼ご飯も食べて行けと言いたいらしい。私は首を振って、でも本当にお構いなく、と遠慮した。


「じゃあ構わないから、こっちの都合で、アンタたちも食べて行きなさい。車の運転ないならお酒でも飲んでいきな。夏の真っ昼間のビールは美味いよ。アンタ、酒は大丈夫かね?」


「いや、本当にお気遣いなく......」


「関さん、いいじゃないの。バーベキューは大勢の方が美味しいから」


 お婆さんは、こちらの話を全く聞かないし、奥さんも奥さんでそれを否定せず、楽しそうにしている。


「ウチのお母さん、そうと決めたら、絶対そうするから。ごめんなさいね。もしかしたら、お昼なにか予定あった?」


 なんだか相手のペースでどんどん話が進んでいく。奥さんもフレンドリーに接してくる。とても2日前に旦那さんが死んでしまった妻とは思えない。むかしからの友人を久々に家に招いているような雰囲気。私たちは今日の目的を見失ってしまい、あたふたしているうちにリビングの窓を全開にして、テーブルやら椅子やらを庭に並べ始めた。なんだかわからないまま、私たちもバーベキューのセッティングを手伝っていた。


「あ、優香。関さんよ。で、こっちがみずきちゃん」


「こんにちは」


 そこには常田の娘が立っていた。みずきよりも2つ上だと聞いていたが、背格好はみずきと同じくらいだった。手にはポータブルのゲーム機を持っていて、みずきに近づいた。


「ね、これやったことある?対戦しよ」


 みずきは言われるままに、手を引っ張られリビングに連れられ、彼女はテレビにゲーム機の配線を繋げてゲームを始める。みずきにはゲーム機なんて買ってあげてないし、やり方がわからないのかドギマギしていると、彼女はコントローラーの使い方をみずきに教えていた。始めは困ったような顔をしていたが、すぐに打ち解け、楽しそうにゲームをしていた。


「もう、お客さんが来てるんだから、優香も手伝いなさいよねー」


 そう冗談めかして言う奥さんに、


「いいんだよ、子供は遊んでいれば」


 と、お婆さんが和やかな目で2人の子供を見ていた。奥さんはまな板と包丁を出し、キャベツやカボチャ、トウモロコシを切っていた。この家の人たちは、人をリードしてしまう性格の家系のようだ。

 みずきと優香ちゃんが遊んでいる姿を眺めていると、常田が何故、みずきを連れ出したのかがわかった気がした。みずきと優香ちゃんは顔は似ていないが、仕草や雰囲気がなんとなく似ている気がした。









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