第106話 常田の手紙
ひかりの目が覚めて泣き始めた。ひかりの寝起きは機嫌が悪い。起きた時に私の姿がないとぐずり出す。私は夕飯のカレーの具を煮込みながら、オーブンでキッシュの焼き加減を見ていた。レシピ通りの時間だと焼きが甘く、表面に焼き目が付かない。追加で数分グリルにかけるのだが、少し目を離すと焦げてしまう。ちょっと今手が離せない。
ひかりの泣き声が止んだ。キャッキャ、キャッキャと笑い声まで聞こえる。ひかりの寝ている和室を覗きにいくと、みずきがひかりをあやしていた。面白い顔をしたり、音が鳴るオモチャを駆使して、ひかりを喜ばせていた。みぃちゃん、みぃちゃん、とひかりも大喜びだ。ひかりはみずきのことを『みぃちゃん』と呼ぶ。安心してオーブンに戻ると、キッシュは絶妙な焼き加減で仕上がっていた。
急いでオーブンを止めて、カレーの鍋を覗いた。ジャガイモに串を指すと、こちらも煮込みは丁度良い。火力を弱め、カレーのルーを溶かし、隠し味の板チョコを一欠片、適度にかき混ぜて完成。
夕飯にカレーとキッシュでは、少しパンチが強すぎるかと思ったが、この2つのメニューはみずきの書いた手紙にあった『ママが作る好きな料理』の2つなのだ。久しぶりにみずきに作る料理を、そのどちらか一方に選べなかった。
「わー、いい匂い」
みずきがひかりを抱いて、キッチンに入ってきた。ひかりがみずきの頬を引っ張るので、
利喜人くんでも、機嫌の悪いひかりの寝起きをここまであやすことはできない。やっぱり姉妹なんだな、と感心と安堵が私の心を満たした。
丁度、炊飯器のアラーム音が鳴り、ご飯が炊けたことを知らせた。蓋を開けると湯気が立ち上がり、炊き立ての米の甘い匂いがした。空気を入れるように優しくかき混ぜる。
時間も夕方の5時。少し早いけど、寝起きのひかりがそろそろお腹が空く時間。またぐずるといけない。リビングのテーブルを水拭きで拭いて、料理を並べる。
「ママ、みずき手伝うよ」
みずきがひかりをベッドに戻そうとするのを、大丈夫、それよりも降ろすと泣いちゃうから抱っこしててあげて、とひかりのお
テーブルの真ん中にシリコンマットを敷き、20センチの耐熱皿に乗ったキッシュを置く。深めの皿にお米を
いつも私が座る椅子に腰掛けると、みずきが隣のベビーチェアにひかりを座らせてくれた。私はキッシュにナイフを入れ、みずきの分を小皿に取り分ける。もう1皿はひかり用に小さめにカットした分は細かく砕いた。服を汚さないようにご飯用のスタイをひかりに付けた。ひかりは、まぅー、と口を尖らせた。ご飯を食べる前に必ずやる仕草だ。それを、みずきは立ったまま微笑ましく眺めていた。
「ほら、みずきも食べよう」
ひかりの口にスプーンを運びながら、私の向かい側の椅子に座って食べるように勧めると、みずきは困った顔をしてまごついた。そこはいつも利喜人くんが座っている席だ。みずきは食事の時間、いつも部屋の隅で食べていた。利喜人くんに作った余りだったり、たまに作った分量が足りなかった時は、みずきに食事を与えない時もあった。それを思うと胸の奥に何か刺さる感触がする。いくら謝っても許されることじゃない。こんなみずきが好きな料理を2品出したくらいで許されるとも思っていない。でも、これからは楽しく一緒に食事をして、いっぱい話して、時にはケンカしたりして、ちゃんと親子をしていきたい。それは私の身勝手な要求だ。今は恨んだり怒ったりしてなくても、これから私に対して反抗する時期が来た時に、私がしてきたことを思い出して責められるかもしれない。それは覚悟の上だ。
一緒にご飯を食べること、好きな料理を作ってあげることが贖罪ではない。私には、ひかりもいる。みずきだけ特別扱いすることでもなく、みずきが普通に娘であること、みずきが普通にひかりのお姉さんとして接することができること。みずきに普通を味合わせなければならない。そのためには私が2人の母親になること、それをこれから積み上げていかなければならない。今まで目を背けていたことに、真っ向からぶつからなければ、私たちは本当の家族になれない。そのための1つの行為として、一緒にご飯を食べることから始めるのだ。
「一緒に、食べよう」
「でも、本当にいいの?」
みずきの言いたいことはわかった。
ここには利喜人くんはいない。昨日みずきは1晩病院に入院し、私は付き添った。みずきが病室で寝ている間に、利喜人くんに連絡した。電話で別れを告げた。利喜人くんは、ひかりは絶対に渡さない、と言った。電話では埒があかないので、今度ちゃんと話そうということで電話を切った。
今朝の検診でみずきの体調に問題がなかったため、すぐに退院できた。利喜人くんに電話して、そのまま今日は帰らずホテルかどこかに泊まることを伝えた。私には帰る実家がなく、すぐに住むところを見つけなければならない。どんなに条件が悪いところでも、早く見つけなければならない。それまではホテルに泊まるしかない。
利喜人くんは、住むところが見つかるまで家にいていい、と言ってくれた。それまでは利喜人くんは実家で暮らすと言っていた。
「ひかりが泣いて仕方がない。やっぱり七海さんじゃないとダメみたいだ」
ひかりは山梨に行っている間、警察関係者が使う24時間の託児所に預けてあった。あのあと利喜人くんはひかりを迎えに行き、家に帰ったあと、ひかりはずっと泣きっぱなしだったらしい。電話している最中も、ひかりの泣き声がずっと聞こえていた。
「とにかくすぐに帰ってきてほしい。家の近くになったら電話して。そうしたら、俺、とりあえず実家に行くから」
彼の言う通りに家の近くでもう1度電話すると、彼はひかりを置いて、私たちに顔を合わせないように出て行った。利喜人くんは、私やみずきに会いたくないのではなく、彼なりに気を遣ってくれたんだと思う。本当にいい人だった。ただ4人で暮らすのは難しかった。私が母親でいられない。利喜人くんにも迷惑をかけてしまった。だけど私が決めたことだ。どっちも上手くやろうなんて贅沢な話だ。それに私はそんなに器用ではない。むかしのように、みずきには苦労はかかるだろうが、その分愛情も通わせると思う。今度は、ひかりもいるのだ。みずきには、もっと苦労かけるかもしれない。
「また前みたいに、ママと一緒に頑張ってくれる?」
みずきは大きく頷いた。そしてカレーを食べ始めた。私とみずきじゃ、この分量は多いなと思ったが、みずきはカレーもキッシュも、サラダもガツガツと食べて、おかわりもした。残ったら明日もカレーでいいかな、と思ったがみずきはカレーを4杯も食べ、鍋にはほとんど残っていなかった。明日は明日で、またみずきが食べたいものを作ればいい。みずきに食べさせてあげられなかった料理を、今度は私が得意な料理を食べてもらうのもいいかもしれない。毎日毎日違ったメニューでみずきを楽しませてあげたい。
ベビーチェアをキッチンまで寄せて、みずきと2人で食器を洗った。ひかりも興味深々でシンクを覗こうとする。楽しい時間だった。
「ママ、明日、本当にいい?」
「体調は大丈夫なの?」
「全然平気だよ。だって食べ過ぎで吐いちゃったくらいなんだよ」
昨晩はみずきは寝るまで、常田と何をして過ごしたのかを聞いた。食べ過ぎで吐いちゃった話、お金持ちのお爺さんの飼っている2匹の犬の話を、楽しそうに話してくれた。まるで旅行に行った時の話のようで、私も聞いていて楽しくなってしまった。その時に1つだけお願い事をされた。
「じゃあ、明日行ってみる?」
「本当に!みずき、オジサンと約束しちゃったから」
そう言うと、みずきは少し寂しそうな顔をした。昨晩入院中に病院で、常田が亡くなったことを病院に来た刑事から聞かされた。みずきは泣いた。常田がいなければ私に気持ちを伝えられなかった、手紙を書くことを提案したのも常田だったと聞かされた。
みずきは常田が書いた手紙を、奥さんに渡したい、そう申し出た。私たちは病院に来た刑事に、常田の奥さんの連絡先を教えてほしいと言った。刑事は、被害者に被疑者家族の連絡先は教えられないと断ってきたが、みずきはその刑事に、「被疑者じゃないもん!」と泣きついた。刑事は、渡したいものならこちらで預かります、と答えた。
「自分で渡す!」
みずきは言い張った。内緒ですよ、と言いながら刑事から常田の奥さんに電話をした。刑事は途中で、私に携帯を寄越した。奥さんが関さんに替わってほしいと言っています。
私は電話口に出ると、常田の奥さんは謝罪の言葉を述べ、明日みずきの体調が良ければ来てもいいと言ってくれた。夫が最後に一緒に過ごしたみずきちゃんと会ってみたい、とまで言ってくれた。常田の奥さんは礼儀正しく、優しい声の持ち主だった。
「じゃあ、明日行こう。ママ、常田さんの奥さんに連絡入れておくね」
そう言うと、みずきは常田から預かった手紙を、明日忘れないように大切にバックに仕舞った。
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