第105話 血の付いた手紙
救急車に開かれていたバックドアから乗ると、中で救急隊員が待ち構えていた。タオルケットでみずきの体を包み、体温を測ったり脈を測ったりしている。
「私はなんにも怪我してません。オジサンの方早くしてください」
「とりあえずね。普段と違う生活をしてたわけだから、検査するだけだよ。ちゃんと食べ物は食べさせてもらった?」
救急隊員はみずきの細い体を見て、優しく声をかける。ちゃんと食べてたし、ちゃんと寝た、と答えていた。むしろ家にいる時よりも、まともな生活をしていたのかもしれない。
下瞼を捲り眼球にペンライトを当てたり、膝を曲げ伸ばししたりしていた。みずきは人形のようにそれに従う。隊員の指示に、はい、はい、と素直に従い、質問に対しても敬語で返していた。知らない間に随分大人になっていた。
救急車の中には、色んな医療機器が取り付けられていた。管のような物がいくつもぶら下がっている。モニターのようなものがあり、緑のランプが点いていた。ふと外を覗くと、コテージから担架が運び出されていた。白いシーツが被されていたが、真ん中の辺りが赤く染まっていた。そこへもう1枚、色のついたシートを被せていた。常田の顔には酸素マスクが被されていた。
「少しチクッとするよ」
隊員がみずきの腕に注射器を当てた。みずきは少し顔を歪めた。もう注射も我慢できるようになったんだね。隊員は採った血液を検査機器のようなものに入れ、数秒経つとレシートのような紙が出てきた。なんとかの数値が少し足りないので疲労しているようですが思ったより元気です、と隊員が説明してくれたが、私は外の様子が気になってあまり聞いてなかった。常田がもう1台の救急車に乗せられる。
「特に心配することは無さそうですが、このまま病院へ行き1日様子を見るために入院しましょう」
隊員が言うのを私は頷いて返事をした。
「オジサン!」
みずきも外の様子に気づいたようだ。救急車の窓はスモークが貼られ中の様子が
「オジサンは大丈夫なの!」
さっきまでおとなしかったみずきが取り乱し始めた。隊員が宥めて、ベッドに座らせる。
「大丈夫だよ。それより、様子を見るために1日入院になるけど、いいかな?」
「そんなのどうでもいい!みずきも、あっちの救急車に乗る!」
みずきが常田と一緒にいた時間、どんな過ごし方をしてきたか想像するしかできないが、きっとみずきにとっていい時間だったのだと思う。私がしてきた仕打ちを思うと、真っ直ぐ顔を上げることができない。
「オジサンも頑張ってるから、みずきちゃんも頑張ろう。きっと助かるよ」
隊員はそう優しく声をかけてくれているが、向こうの様子は違うと思う。向こうの救急車が大きく揺れた。AEDとか心臓マッサージをやっているのだろうか。私は人の生き死にの場面に遭遇したことがないから、あまり詳しくない。只事ではないことだけは見て取れた。みずきはベッドに座り、向こうの状況に気づいていないようだったので、ホッとした。みずきの側に座り、みずきをベッドに寝かせて手を握った。私にはそれくらいしかしてあげれない。
向こうの救急車がサイレンを鳴らし、先に出発した。少し遅れて私たちの救急車も走り出した。こちらを呆然と眺める利喜人くんの姿が見えていた。
みずきは天井を見つめ、暫く黙っていたかと思うとすぐに寝息を立てた。さすがに疲れてしまったのだろう。私は両手でみずきの手を包むようにして握った。
「お母さん、多分みずきさんはストックホルム症候群だと思いますので心配なさらないでください」
「ストックホルム症候群?」
なんか聞いたことあるような単語なのだが、それが何のことなのかわからない。
「誘拐や監禁事件で、犯人と被害者が行動を共にすることで心理的な繋がりができてしまうことなんですが、こういう事件でよくあることなんです。ストレス障害の一種ですが、短期間だったので、すぐに戻ると思います。後々の定期的なカウンセリングが必要になるとは思います」
隊員の説明はなんとなくわかったが、どうも腑に落ちなかった。映画やドラマで被害者が犯人な感情移入してしまうシーンを見たことがあるが、ああいうことなのか。多分みずきは、この1週間あまり常田と過ごして、本当に楽しかったのだと思う。誘拐された心理状態でのことではなく、もしストレス障害だとしたら虐待を受けていた家にいた時からなのではないか。監禁していたわけではなく、逆に放置していたのだ。家にいることが苦しく、外へ出て常田に助けられたのだと思う。みずきにとって犯人は常田ではなく、この私だ。
今はあのコテージでの緊迫した時間から解放され、興奮状態のまま生物学上の母親である私を見て、親と認識したことで私の元に寄ってきたが、落ち着きを取り戻した時に、みずきは私のことをどんな目で見るのだろう。私たちにされた仕打ち、母親を放棄していた私のことを思い出して、私から離れていってしまうかもしれない。
それでも私は覚悟を決めたのだ。どんなに罵倒されても、どんなに冷たくされても、みずきの側にいると。許しを乞うわけではない。彼女の私に対する恨みや憎しみが消えるまで、いや消えなかったとしても私の一生はみずきのために使う、そう決めたのだ。だから、もうみずきを離さない。そう思うとみずきの手を握った手に力が入ってしまった。
「......ママ」
「ごめん。痛かった?」
「違う。これ、読んで」
握っていた逆の手に、みずきは封筒を持っていた。封筒は半分ほどが血で赤く染まっていた。
「これ、みずきが書いた、手紙」
私はうんうんと頷いて封筒を受け取った。
「それにね、私の気持ちが、書いてある。ママに言いたいこと、全部」
私は何度もうんうんと頷いた。
ここにみずきの気持ちが書いてある。私に対する恨みや憎しみが書いてあったとしても、これは全部読まなければならない。全部受け止めなければならないのだ。手紙をすぐに開く勇気がでなかった。
「ちょっと、血が付いてるけど、オジサンの血だから、汚くないよ」
私が手紙を開けることを躊躇しているのを、みずきは血が付いているからだと思ったらしい。
私は意を決して手紙を開いた。少し乾き始めた血で紙と紙とが貼り付いていた。破けないように、そっと剥がした。
『ママへ』
力強い文字だった。綺麗な字だった。難しい漢字も1角1角を丁寧に書かれていた。こんなに綺麗な字を書けるんだね、こんなに文章が書けるようになったんだね。私はこの成長を知らないまま、この7年を過ごしてしまった。
そこには色んな想い出が語られていた。3歳の頃に一緒に出掛けた日の話、私が作る料理で1番好きな物、ひかりが生まれて嬉しかったこと。そこには私に対する恨みや憎しみの言葉は一字一句見当たらなかった。ママと一緒にいたい、また楽しく暮らしたい、ママのことが好きだ、私に対する愛情がたくさん散りばめられていた。本来なら私がみずきにかけてあげるべき言葉なのに、私を包み込むあったかい言葉が溢れていた。
ふと顔を上げると、みずきは体を起こして私を見つめていた。
「ママ、変な泣き方だね」
そう言って笑顔を見せた。私はみずきをまた抱きしめた。今までしてあげれなかった分、今までしてこなかった分、もう離れない、もう辛い思いをさせない、そう心に誓い強くしっかりと抱きしめた。
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