関 七海
第104話 白いワンピース
ずっと見つめている2階の窓のカーテンが少し動いた。中に人影が見えた。犯人か。みずきは無事なのか。
何か黒いものが見えると刑事たちが、拳銃を確認、と叫んでいた。胸の奥を鷲掴みされたような痛みを感じた。みずきに会いたい。
刑事たちに緊張が走る。さっきまで疎らな位置に散らばっていた刑事たちが一斉に前に出た。目の前にいた若い刑事も、初老の刑事の腕を引っ張り、前まで走って行った。私も釣られて足が前に出てしまったが後ろにいた制服警官に、危ないですから下がっていてください、と止められた。
さっきカーテンが動いた時、人影の側にみずきの顔が見えた気がする。ハッキリと見えなかったが、みずきのはずだ。早く、みずきに会いたい。
「大丈夫。大丈夫だよ」
利喜人くんが、気持ちの込もっていない優しい言葉を吐いた。なにが大丈夫なのかわからず、返事に困って何も反応できず、無視してしまった形になってしまった。彼は気を悪くしたのか、フンッと鼻を鳴らした。そう思わせてしまったのは申し訳ないが、今はそれどころではない。
こんな母親でごめんなさい、こんな母親でごめんなさい、こんな母親でごめんなさい、何度も心の中で懺悔した。テレビでの報道があったように、あの人が常田祐司という男なのだろう。なぜうまく逃げきれなかったのか、ほんの少し前まではあの人を責める気持ちの方が大きかった。でも今はみずきに会いたい。
もしみずきが無事に戻ったら、ただ抱きしめたい。後のことは考えられなかった。みずきが戻ってくれば、また元の生活が始まってしまう、利喜人くんからみずきを庇うことができるかとか、またみずきを無視するようなことになってしまうのかとか、全く考えられない。とにかく、みずきを抱きしめたい。
もしかしたら、みずきは私が駆け寄っても、こちらを向いてくれないかもしれない。私のことが嫌いだと罵倒されるかもしれない。最低な母親だと責められるかもしれない。殴られるかもしれない、蹴られるかもしれない。それでも私は抱きしめる。みずきが嫌がっても、抱きしめて謝り続ける。みずきのことなんて考えてないでなんて身勝手な親だと思われても仕方ない。今までずっとみずきのことを考えてやらなかった。これからだって、私は自分のことしか考えられないかもしれない。だから、どんなに罵倒されても責められても、私はみずきの側にいたい。許されなくてもいい。許してもらう資格なんてない。
「もうすぐ終わるよ」
利喜人くんがそっと肩を触ってきたので、私は驚いて肩が飛び上がってしまった。利喜人くんは息を飲み、私の肩から手を引いたが、私と目が合うと、大丈夫、きっとうまくいく、もう1度肩をぎゅっと触ってきた。彼に触られて寒気がした。全身にザワザワと鳥肌が立った。
「触らないで」
私は消え入りそうな小さな声しか出なかった。利喜人くんは驚いた顔をしていた。自分の聞いた言葉が聞き間違えた思ったのか、引っ込めた手をまた私の肩の上に乗せて撫でてくる。私が感じたのは、嫌悪感だった。私が混乱していると受け取ったのか、嘘の笑みを貼り付けて、大丈夫、大丈夫、と繰り返し撫でてくる。私は震える体で、それを我慢した。
周囲がざわついた。2階の窓のベランダから叫び声が聞こえた。なんて言ったんだ?常田か?と周りの刑事たちが話しているが、ベランダには人の姿はない。ベランダの窓は開いていて、その間からカーテンが風に揺れている。中にいるのか。今から立ちます、という声が聞こえた。床から生えてくるように2本の手が伸びてきた。男は両手を挙げて立ち上がった。
あれが常田祐司か。写真でしか見たことがなかったが、悪い印象がなかった。生で見る常田祐司も、40代半ばの普通の中年男性で、人を殺すような男にも、幼児に悪戯するような男にも見えない。声は男性にしては少し高く、弱々しい。
「僕はー、連続殺人などしていませーん!」
窓の隙間で揺れるカーテンの向こうに、みずきの姿を見つけた。
「みずきー!」
声が掠れてしまって、うまく大声を出せない。私の声は、みずきちゃんは無事か、という拡声器の音量で掻き消されてしまった。私の声はみずきに届かない。拡声器の刑事の方を見ると、拡声器を持った刑事以外ほぼ全員が、常田の方へ銃を向けている。止めて!後ろにはみずきがいるのに、発砲してみずきに当たったらどうするつもり!私の悲鳴は声にならなかった。体の力が全部抜けそうだった。
「今からー!」
常田がみんなに聞こえるようにゆっくりと大声を出した。
「みずきちゃんをー!」
色んな方向から、ガチャっと銃の音がする。
「開放しまーす!」
カーテンが揺れる窓がゆっくりと開いた。カーテンが開いて、みずきの姿全体が見えた。白いワンピースを着ていた。テレビの報道で、常田祐司は逃亡の途中子供の服を数点買って行ったと言っていた。みずきは小さな頃、ピンクが好きだと言っていた。ピンクばかりだと子供っぽいと思い、以前グレーを着せてあげようと買ってきたトレーナーは、クローゼットの奥に仕舞ったままだ。利喜人くんがいなかったから買ってはみたが、そのグレーのトレーナーがみずきに似合う自信がなかった。みずきくらいの年頃の子がどんなものを着るのか、どんな色が好きなのかわからなかった。それくらい、みずきのことを見ていなかった。着ている白いワンピースは、みずきにとても似合っていた。同じ家に住んでいたのに、あんなに大きくなっていたことに初めて気づいた。
視界がぼやけていた。気がつくと顔中濡れていた。溢れる涙が止まらない。もう止めて、みんな銃を下ろして。私をあそこへ行かせて。みずきの側に行かせて。
常田祐司は両手を挙げたまま、こちらを見下ろし、辺り一帯を見回した。そして私と目が合った。彼は何か言いたげな表情をした。そしてまた一帯を見回し、他に誰かと目を合わせたのか暫く動かなくなった。その後、顔を真っ直ぐ前に向け、みんなに聞こえるように大きな声でゆっくりと話し出した。
「あとー」
また私は足が前に出てしまう。制服警官が私の前に出て、腕を広げて制する。
「これはー」
1歩でも近づいていたい。1秒でも早くみずきの側に行きたい。私は制服警官の腕を振り払い、よろよろと前に出た。
「みずきちゃんの気持ちですー」
常田は片方の手を下ろし、後ろに手を回した。制服警官は私を押し戻そうと前に憚るが、私はそれを押し除け、前の方の刑事たちが群がっているところまで足を進めた。さっきの初老の刑事と若い刑事の背中が見えた。若い刑事は、危ない!と叫んだかと思うと、パンッ、パンッ、と乾いた音がして構えた拳銃から煙が出ていた。
耳がキーンとした。私はすぐに2階のベランダの方へ視線を移した。常田はまだ立っていた。常田の目の前のベランダの柵、だいぶ常田の立つ位置から外れたところの柵の木が欠けて煙が立っていた。若い刑事は狙いを外したようだ。すぐにみずきを確認する。この位置からだと角度的に奥の窓が見えなかった。柵に当たっただけなら、みずきは無事?みずき、大丈夫?みずき、どこ?
常田の姿が、すうっとゆっくり消え、ドサリッと鈍い音が聞こえた。え?常田は撃たれたの?どういうこと?私はパニックになりそうだったが、それよりも刑事たちの方が慌てていた。
「誰だー!誰が撃った」
「発砲の許可してないぞ!」
「1人で転んだのか?」
「違う!迎えの狙撃班だ!狙撃班、応答しろ!」
何が起こったの?この若い刑事は外したでしょ。どういうこと?
上を見上げた。みずきの姿があった。みずきがベランダの柵に身を乗り出し、泣き叫んでいる。
「誰なの!誰が撃ったの!誰か、救急車呼んで!死んじゃう!」
みずきの金切り声に、刑事たちの動揺が大きくなった。刑事たちは方々に一斉に動き出した。1階の窓ガラスを割って突入する者、電話をかけて救急車を呼ぶ者、壁を伝い2階の柵に手をかけよじ登る者、無線機に向かって怒鳴っている者。何が起こったのか、みずきは無事なのか、どうなるのか、頭がうまく回らず私はどうしていいのかわからなくなった。これで無事に終わったのか。みずきがこのまま帰ってくるのか。
私はベランダとは逆の方向、さっきまでいた方へ目を向けると視界の中に利喜人くんが小さな姿で見えた。あの人は1歩も動いていないようだ。また、コテージの方へ顔を向ける。
まだ耳鳴りがしていた。頭がぼうっとしてくる。さっきまで目の前にいた刑事たちが慌ただしく疎らに動き回っている。常田の姿が見えなくなって、どのくらい時間が経ったのだろうか。一瞬、なぜここにいるのかも忘れてしまう。そうだ、みずきはどうなったの?
「無事確保!」
上から声が聞こえた。声だけで姿は見えない。
目の前でガチャガチャと音がする。まだ外にいる刑事たちが、1階の割ったガラスを何か板のような物で退かしていた。
暫くして、刑事に抱き抱えられたみずきが1階の窓から姿を表した。
「みずき!」
「ママ!」
ガラスの破片がないところまで運ばれてくると、みずきは芝生の上に降ろされた。私は駆け寄った。みずきも私に向かって走ってきた。
私は抱きしめた。みずきも私にしがみついてきた。やっと抱けた。何年振りだろう。みずきの髪の匂いを嗅いだ。みずきの肌の感触を確かめた。みずきの体温を感じた。本当は強く抱きしめたいが、みずきの細い体に触ると、どのくらいの力加減で抱きしめたらいいのかわからない。私は壊れやすい物を抱えるように、そっとみずきの体を包み込むようにして抱いた。
私の顎の下から、グフェグフェと奇妙な声が聞こえる。小さな頃、私が泣いていると友達に、七海ちゃん泣き方が変、と言われた。みずきは私に似て泣き方が変だ。間違いなく私の子供だ。
背骨の浮き出るゴリゴリとした背中を摩った。ちゃんと顔を見たい、そう思って少し体を離し顔を覗いた。みずきのワンピースが血塗れで、私は悲鳴をあげてしまった。
「みずき!どこ怪我してるの」
さっきベランダで見たワンピースは真っ白だったのに、半分以上が血で染まっている。手まで真っ赤だ。
「みずきは怪我してないよ。これ、オジサンの血」
「みずきは怪我してない?」
「大丈夫。大丈夫だけど、オジサンが」
真っ赤に染まる自分の手を見て、またみずきが泣き声をあげた。私はさっきよりは少し強めにみずきの体を抱いた。
若い刑事が撃った銃は、威嚇射撃で態と外したのかと思っていた。ベランダの柵に当たり、常田を外したと思っていたが、跳ね返った弾が当たってしまったのだろうか。
遠くの方からサイレンの音が聞こえた。救急車が到着したようだ。
「発砲の許可はしていない!なぜ撃った!」
怒鳴り声が聞こえた。野々村の声だった。
野々村の前には、黒いヘルメットを被り、長いライフルのような物を縦に構えた男が立っていた。
「すみません!下ろした右手を狙いましたが、他の銃声に気を取られ、弾道が逸れて右脇腹に当たってしまいました!」
「言い訳はいらない。これで常田が死亡したら、他の件の供述が取れなくなるぞ」
どうやらあの若い刑事が撃ったのではなく、この狙撃手が誤って撃ってしまったようだ。みずきは私の腕の中で、物凄い形相でその狙撃手を睨んでいた。
狙撃手は小走りで去り、野々村はこちらに気付いて近寄ってきた。
「みずきちゃん、怪我はないかい?」
みずきは首を振った。
芝生の広場に救急車が現れた。
「みずきも救急車に乗ろう。お母さんも一緒に乗ってください」
「嫌だ!オジサンが先。みずきは大丈夫だから、オジサンを早く診てあげて!」
担架を持った救急隊員が私たちの横を通り過ぎた。
「オジサンって、犯人のことかい?」
「犯人じゃない!オジサン!」
みずきは狙撃手だけではなく、野々村のことも睨みつけた。私は、落ち着いたら一緒に乗りますので、と断って野々村に離れてもらうようにお願いした。
「大丈夫か?みずき。心配したよ」
野々村がいなくなったと思ったら、今度は利喜人くんだった。そんな心にも無いことを言って、みずきに触ろうとした。私はその手を跳ね除けた。
「触らないで!」
今度は大きくハッキリした声で言った。私はみずきを抱き上げて、彼から1歩離れた。
「私の娘に、触らないで」
呆然とする利喜人くんを残し、私はみずきを抱き上げたまま、救急車に乗った。
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