第103話 白い部屋
白い壁、白い床、白いテーブル。窓も何もない広い部屋に閉じ込められて、オレは絵を描かされたり、変なカードを見せられたりしている。
「これは何の絵に見えますか?」
眼鏡をかけた検査技師の男が言った。筆で適当に描かれた雑な絵や、目がチカチカするような幾何学模様、森の木にも人の顔にも見える黒い絵なんかを見せ続けられている。オレはまるで小学生のガキみたいに素直に見たままを答えた。退屈だった。
さっきは二等辺三角形が少し曲がったような図で、迷路みたいな細かい線がグチャグチャっと描かれた絵を見せられて、「これが何に見えて、これを見てどう感じますか?」という訳の分からない質問をされて、アフリカの原住民が付けてるチンコケースに見えたが、オレは大人なので、「ピアスかなんかですか?綺麗だと思います」と思ってもいないが、それっぽく答えた。
さすがにこういう場面では
たまに三角と丸がランダムにたくさん散りばめられている絵を見せられて、三角と丸とどちらが多いですかとか、5本並んだ鉛筆の絵を見せられて、1番長いのはどれですか、と幼稚園児のテストみたいなのも混じる。馬鹿にし過ぎだろ、40代のオッサン捕まえて、こんなもん訊いて、お前らは何が知りたいんだ。
目を逸らして辺りを見ても、どこも真っ白で退屈過ぎる。オレは正常だ。こんなのが続くと、逆に気が狂いそうになる。
オレの答えによって精神が病んでるとか、深層心理みたいなのを探ることによって犯罪を犯す資質みたいなのがわかるのだろうか。精神状態を数字や色で表し、それによって将来犯罪を犯す確率を判断し、犯罪を犯す前に取り締まるみたいなマンガを読んだことがある。タイトルは忘れた。そのマンガでは、精神状態を読み取る機会みたいなのがあって、それで数値がわかるのだが、中には免疫体質があって、罪を犯しても精神状態が変わらなく数値化できずに捕まえられないという登場人物がいた。まあ、悪役だ。本当に精神がおかしい奴とか犯罪体質の奴は、こんな絵で鑑定されても、それを擦り抜ける答えがわかっちゃうんじゃないだろうか。
人というのは、常に精神状態は一定ではなく、機嫌が悪い時だってあるし、その時の気分によってこんな絵は違って見えるもんだろう。こんなテスト全く意味がない。
むしろ、オレがどんな答えを出しても、薄ら微笑んだ顔で表情を変えないこの検査技師の男の方がヤベえ奴なんじゃないか。オレに無意味な質問を繰り返し、ジワジワとオレの精神を破壊して楽しんでいるのではないか。見せる絵の順番は、少しずつオレを狂わせていく何かの法則があるのではないか。この検査技師の男の微笑みは、検査されているオレを安心させるためのものではなく、少しずつオレが狂っていく様を楽しんで笑みが漏れてしまっているのではないか。そして最後に狂ったオレを、この男はどうする気なのだ。その最後を楽しみで仕方のない顔に見えてきた。何をされるのか想像できないが、オレの膝が急にガタガタと震え出した。
「井口さん。ちょっと緊張してますか?一旦落ち着きましょう。大きく深呼吸してください」
検査技師は、人差し指を立てた手をすうっと上に上げて、宙でカーブし折り返し、今度は人差し指を下に向け、ゆっくりと下げた。それが深呼吸する時の空気の流れを表しているようだ。それを何度か繰り返す。
オレはそれに従ったのは、彼を信用したからではない。命じられたようにやらないと、殺されるからだ。落ち着かせるために深呼吸しているのに、不安はますます増加する。うまく肺に息が入らない。
「空気が通りやすいように、背筋を伸ばしてください」
背筋を伸ばそうにも、膝が震えて足場を支えられない。でも彼の命令に背けば、この後何をされるかわからない。体を勢いよく起こして、無理やり背筋を伸ばすと、震えと緊張のあまり左右の足が絡まって、椅子から転げ落ちてしまった。
大丈夫ですか、と顔に優しい表情を張り付けて、検査技師が近寄ってきた。ひゃっ、変なクスリを注射される!オレは検査技師の体を押し返し、力の入らない足でヨロヨロとドアへ向かった。ドアノブは横に長い棒状のもので、それを下向きに捻るとドアが開くことはわかっているのだが、そのドアノブが動かない。力が足りないと思い、体重を乗せるがびくともしない。内側には鍵穴がなかった。外から錠をかけられている。
「誰か!ここ、開けてくれ!助けてくれ!!」
叫んだところで助けてもらえるわけがない。外の人間もこの検査技師の仲間なのだ。検査技師がゆっくりと近づいてくる。オレは消される。開くはずのないドアを、全身を使って押す。体がドアに張り付いて、このままドアに同化して、そのまま向こうへ抜けれないのか。
「落ち着きましょう」
検査技師が言う。こうなってる原因の奴に落ち着けと言われて、落ち着ける奴なんかいるわけないだろ。力だけはある。こんなドア壊してやる。ドアに肩をピッタリと付けて力一杯押す。何度か体当たりした。びくともしない。
「安定剤をお願いします」
検査技師が天井に向かって言った。ドアを押しながら、検査技師の目を向けた方向を見ると、半球状のカプセルみたいなものが天井に付いている。そのカプセルから、わかりました、という声が聞こえた。あれが外の部屋との通信する機械なのだろう。安定剤とか言って仲間を呼び出したのだろう。
すぐにドアが開いた。白衣を着た検査技師が2人入ろうとしているところ、2人を突き飛ばして外へ出ようとした。後に続き、わらわらと3人の検査技師が現れ、5人掛で羽交締めにされた。オレにカードやら絵を見せてきた検査技師がオレのシャツを捲り、腕を見ている。オレは必死で腕を曲げる。オレの体を押さえていた検査技師の1人が、オレの腕を無理やり真っ直ぐに伸ばしてきた。大丈夫ですよー、大丈夫ですよー、と言いながら、いつの間に用意したのか注射器を構えて、押し子を少し押して液体の空気を抜く。少し落ち着きますからね、危ないので動かないでください、そう言いながらサッと血管を探し針を入れる。わぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ、止めてくれ!安定剤と言いながら、オレの精神を破壊するようなヤバいクスリなんだろ。頼む、誰にも言わないから、解放してくれ。ぐぅわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!
なんだか体が重くなってきた。頭だけが軽くなって、首から上が離れて、ふわっと飛んでいってるような感覚。視界は周りが白くぼやけて、中心の狭い視野の中、白衣の男たちが動いている。なにか話しかけてくるが、なんと言っているか聞き取りにくい。耳の中に水が入ってしまったように、ボコボコと聞こえる。肩を叩かれているようだが、感覚は薄い。
今、目の前にいる白衣の男が、オレにカードやら絵を見せてきた検査技師なのか、それとも別の検査技師なのか判断できない。みんな同じ顔に見える。今度は頬を叩かれた。頭が少し揺れた気がするが、やっぱりあまり感覚がない。このまま死ぬのかなと思うが、多分死なせてくれない。根拠はないが、こいつらはオレをジワジワと苦しめるのが目的だ。
「今日はもう休ませましょう」「また明日にしますか」検査技師たちが話し合っている。こんなことがまた明日も続くのか。オレはここへ連れてこられたのが
そんなことはどうでもいい。そうか、オレはもう死んでて、ここは地獄なんだ。地獄っていうのは、昔から火山の麓の岩肌で、同じ腰巻きをした鬼たちが金棒持ってみたいなイメージだが、いつの時代からあのままなのか。これだけ日常生活が発展しているのだから、地獄だって変わっているのではないか。見渡す限りの風景が岩肌であることが絶望の光景なら、この見渡す限り白い部屋も地獄ではないか。あんなにマグマが流れてたり、骸骨だらけの汚い環境で労働を強いられては、鬼たちだって仕事する気力が低下してしまう。鬼の腰巻きに代わって、この白衣なんじゃないか。そうか、検査技師たちが鬼なのだ。地獄では針の山を登らされたら、足を延々と積まされる地獄があったはずだ。石を積むのは子供だったかもしれない。賽の河原といったか。でもそれは三途の川より手前だったか。ここは延々とカードと絵を見せられる地獄なのだ。
オレはいったいなんの罰を受けているのだ。
あの長谷という女が言っていた。自分のやったことを白日の元に晒さないと、アナタは自分の罪から解放されないと。たしか浮気する奴が落ちる地獄というのもあったな。借金か、それとも常田のことをハメようとして嘘の供述をしたことか。それとも方々で子供を作って父親らしいことをしていないことか。どれが1番の罪なのかわからない。でもどれも些細なことではないか。ガキの悪戯と大した差はないじゃないか。
自分の罪は置いておき、オレを
この世の中は小さな罪で溢れている。人は生きているだけで、罪なのだ。浮気だって、借金だって、他人を騙すことだって、みんなしているだろ。オレがなんの罪を......。
そうか、オレは人を殺したんだった。そして誰を殺したのかを問われている。オレは女房だと言い張り、現実には殺されたのは斎藤遥香という取引先の女だという。そんなことも、どっちだっていい。今更だが、なぜそこまで女房を殺したと言い張っていたのか思い出せない。刑事たちが斎藤遥香だというなら、それでいいじゃないか。もうどっちを殺したのかを思い出そうと思っても、なにも感じない。多分、誰かを殺したのは事実なんだろう。
オレの罪、オレの罪、オレの罪。
オレの罪は、誰を殺したのかをわからなくなっていることなのか、と思うと妙に納得がいった。人を殺すという重大な罪に目を背けて、わからないままにしている。罪に責任を持たないでいる。それがオレの1番の罪。
意識が遠のく。さっき検査技師たちに安定剤と言われ注射された変なクスリのせいだ。だるい。眠い。検査技師たちは、また明日もと言っていた。オレの賽の河原はまだ明日も続く。今目を閉じて、そのまま死んでしまうことはないのだろう。いっそこのまま目が覚めなければいいのに。
長谷に言われた通り、罪を認めなければオレはオレの罪から解放されないのだろう。でもわからないものは仕方がない。オレの深層心理の中で真実を露にすることを拒んでいるのか、国家の陰謀でハメられているのか、わからない。
ただ、そのわからないことが罪だと、オレはわかった。それだけで、オレは自分の精神が正常だと思える。
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