第102話 国家の陰謀
静岡中央署に着くと、乱暴に腕を引っ張られ、すぐに取調室に連れて行かれた。取調室では長谷と、白井に変わってまた西川という若僧が一緒に入ってきた。また何を訊かれるんだろうと相手の出方を待っているが、2人とも何も喋ってくれない。西川は狭い取調室の中を行ったり来たりしながら、腕を組んで時計を見たりして立ったまま貧乏揺すりしているし、長谷はむすっとした顔のまま、こちらを見ているだけだ。
何度か白井という刑事が取調室のドアを開けて、西川に耳打ちをして出て行く。オレは沈黙が苦手だ。気のせいだろうが、静寂の中に耳鳴りのような音が聞こえると気持ちが騒つく。かといって音が聞こえる方がいいかというと、それも苛つく。服の布が擦れる音、紙が捲れる音、革靴の音、他人の呼吸の音、鳥肌が立つ。だから、オレは静寂を埋めるように、いつも喋りまくってしまう。話したいことなんてない。静かなのが嫌なのだ。ただこの取調室の雰囲気は、話す余地を与えてくれない。自分の鼻息が聞こえて、
またドアが開いた。
「手塚由衣さんが来たけど、どうする?」
西川に耳打ちする白井の声が、漏れて聞こえた。他人の声に安心する。ただ内容が安心できない。由衣が来たって?どういうことだ。由衣は死んでんだぞ。
半分開いたドアの外が騒がしい。白井は後ろを向き、何か喋っていたが、とにかく退きなさい、と歳の多い男の声が聞こえた。白井を押し除けるように、取調室に髪をオールバックにした5、60代くらいの男が乱入してきた。
「あんたたち、何やってんだ。まだ彼を診ていないのに、勝手なことして」
グレーの地味なスーツに古い
「相馬先生」
どうやらこの初老のジジイが、精神鑑定する医者のようだ。この長谷が、オレが殺した女房は生きてるから現実を見ろと、女房と思しき人に合わせるということを非難しているのだ。今から会わされる女が、女房ではないことは明確なので、止めてくれるのは有難いが、精神鑑定をされるのは迷惑だ。だってオレは、おかしくなんてなってない。コイツら刑事たちが、オレを精神異常者にしたいだけなのだ。
オレは会社で、鬱になっただとかで長期休暇をとっている奴は、ズル休みだと思っていた。そういう奴は気が弱いから、病気を理由にして、会社の所為、上司の所為にして、堂々と休んでいる愚か者だと思っていた。こっちは学生の頃から柔道で体を鍛えているから、精神も鍛えられている。精神など病むはずがない。
「これは一時的に、罪から逃れようと記憶の置き換えが起こっているだけだと思うんです」
「だから、それはこっちで診てからでないと判断できないよ」
「奥さんに会えば、現実を受け入れられるかと」
「何を言ってるんだ、長谷くん。もしその現実を受け入れられなくて錯乱状態になったら、どうするつもりだね。責任取れるのかい?きみは犯罪心理学を学んでいるかもしれないが、適当な知識で判断してもらっちゃあ困る。それに私を呼んだのは、きみだろ」
「すみません」
取調室の隅っこに寄って、小声で言い合っているが、興奮して音量を調整できなく、全部筒抜けだ。あの気が強い女が押されている。オレの髪を掴みやがって、いい気味だ。
「とにかく、彼の取調べは私が診断した後にしてもらわないと」
初老の男は近寄ってきて、監察医の相馬です、と名乗って、きみ1人で歩けるかね、とオレを見下ろしてきた。この場は助かったが、医者の傲慢な態度は、それはそれで腹が立つ。気を遣っているようで、遣っていない。べつに怪我しているわけでもないから、歩けるに決まっているだろ。どうも他人を見下しているような態度が鼻につく。
白衣を着た男が2人入ってきて、両側の脇を抱えられてオレを立たされた。ゆっくりでいいですよ、と口では優しいことを言っているが、右側の男の脇に入れた手が痛い。オレが連れだされることに西川という若い刑事は、止めようかどうしようかと狼狽えているが、長谷は黙ってこちらを見つめるだけ。西川も上司がその態度なので、何も手を出さないでいる。気性の荒いこの女に、あとで八つ当たりでもされるんだろうなあ、と若い刑事のことが気の毒に思えた。
「なんなの!いったい」
取調室の外の方が騒がしい。聞いたことがある声だ。由衣の声に似ている。
「アタシを殺そうとしてたって、どういうことなの!この中にいるんでしょ。ちょっと文句言わせてくれない!」
相馬という偉そうな監察医が、白衣の男たちにドアを閉めるように指示した。その白衣の男たちを押しのけて女が乱入してきた。
女は由衣に似ていた。声が似ていれば、顔もなるのだろうか。それにしても、自分が殺した女が目の前にいるようで、なんとも言えない光景だ。監察医が止めるのもわかる。これが本当に女房だったら、気が狂ってしまうかもしれない。ところで、なぜここに女房に似ている女が乱入してくるのか。偶然にしては都合が良すぎる。
「ちょっとアンタ!私を殺したって何よ。ふざけないでよね。こっちはやっと新しい彼氏とうまくいってるのに邪魔する気?」
いきなり怒鳴られて言葉が詰まっていると、さらにオレに罵倒を浴びせる。
「ただの浮気だったら今に始まったことじゃないけど、その浮気相手を殺したって、アンタ正気?アンタ、うちだけじゃなくて、前の奥さんや前の前の奥さんにも子供がいんのよ。その子供たちが殺人犯の子供って呼ばれるのよ!わかってる?」
「......はい」
女の剣幕に圧倒されて、やっと出た言葉が「はい」しかなかった。罵倒は更に続いた。
「はい、じゃないでしょ!それに100歩譲って、殺したのが浮気相手じゃ自業自得だと思うけど、アンタは私を殺したと思ってるって、いい加減にしてよ!私はアンタを殺す動機があっても、アンタに殺されるような筋合いはない!」
とてつもなく興奮しているので、言っている内容がメチャクチャだ。どうやらこの女は、由衣に似ているだけではなくて、オレの女房という設定で乱入したようだ。オレが、その斎藤遥香を殺したということを自供させるために、このそっくりさんを呼んだのだろうか。それにしても見事な演技だ。この迫真の演技はアカデミー賞ものだな。
見れば見るほど由衣に似ている。まじまじと由衣に似ている女を見ていると、さすがオレが惚れた女だけあって、いい女だ。白衣の男たちと西川の3
それにしても、こんなにも瓜二つの人間なんて本当に存在するのだろうか。まさかこのために整形手術までしたっていうんじゃあるまい。警察っていうのは、そこまでするものなのだろうか。もしかしたら女房が殺されたとなると、なにか不都合なことでもあるのだろうか。警察がそこまで動くとなると、オレは何か国家の機密にまで巻き込まれてしまったのか。
女房の由衣は国家の何かしらの重要人物で、それが想定外の事故で、オレが殺してしまった。由衣が死んだことが国外に漏れるとマズい自体になってしまうので、急遽由衣の代わりになる人間を用意した。だから、オレが女房を殺したと言い張ることは国家にとって不都合で、ここで長谷と相馬がオレに由衣を会わせるのをどうだこうだと言っているのも芝居で、オレが殺したのは別の人間ということにしなければならない。実際、丁度よくオレは浮気していて、その浮気相手の斎藤遥香を殺したことにすれば、女房の由衣は生きていることになる。斎藤遥香を殺したのは、まさか警察の仕業ではないか。由衣の身代わりを用意するために殺したんだ。オレは完全にハメられている。これは国家の陰謀だ。これでもまだ殺したのは女房と言い張れば、オレは消される。
「なんとか言いなさいよ!」
「あの、アナタが女房でいいです」
「はぁ?何言ってんの!」
「誰にも言いません。僕が殺したのは、その斎藤遥香さんという人です。だから、助けてください」
由衣に似た女は、まだ何かオレに罵倒していたが、白衣の男たちに引っ張られ、取調室から退出させられた。出て行く間際、アンタたちが私を呼んだんでしょ、と刑事たちにも怒鳴っていた。
「だから言っただろ!」
相馬という監察医が長谷に怒鳴った。もう、そんな茶番はいい。絶対誰にも漏らさないから、命だけは助けてくれ。由衣に似た女を連れ出した白衣の男たちが戻ってくると、またオレの両脇に立ち今度はオレが連れて行かれる。
オレは取調室のドアの前まで歩かされた。俯いた状態だった長谷は、井口!と大声を出してオレに掴みかかってきた。相馬と白衣の男たちが、慌てて長谷をオレから引き離そうとする。
「いつまで現実から目を背けてるんだ!自分のやったことを白日の元に晒さないと、アナタは自分の罪から解放されないのよ!」
相馬がオレと長谷の間に、肩から体を捻り込ませて引き離し、長谷の肩を押して突き放した。
オレは白衣の男たちに連れられ、取調室を後にした。
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