井口 雅紀

第101話 長谷徹子

 オレは頑丈そうな黒い車に乗せられた。静岡に移送されるのだそうだ。この長谷と西川という刑事が運転してきた軽自動車で帰ればいいものの、態々静岡から大袈裟な移送車が迎えにきた。もう1台車が到着し、そちらにはオレが殺した女の遺体が乗せられるのだそうだ。移送車はゆっくりと山梨県警を出た。

 見た目は普通のワゴンだが、多分防弾ガラスだったりするのだろう。手錠をかけられたまま、後部座席に押し込まれた。両側刑事に挟まれた。オレの左側には長谷という女刑事だ。若い男の刑事は、この車の手前を乗ってきた軽自動車で静岡に向かっている。

 逃げないようにか、かなり密着して座った。ブスではないが、オレの好みではないので嬉しくともなんともない。右側にはイカツイ刑事がオレに睨みを利かせている。そんなにまでしなくても、逃げねえって。もう、逃げる気力すらない。

 オレは、女房ではなく取引先の斎藤遥香を殺してしまったようだ。自分で自供したのだから、そうなのだが、なんだか現実味がない。自供した時は、殺した感覚がハッキリと蘇ってきたが、時間が経ってしまうと3日前に見た夢の話をしているようで、それが真実かどうか曖昧になってきた。長谷のところに静岡から連絡があり、女房は生きているということを聞かされたが、やっぱりオレは女房を殺したんだと思う。むしろ、オレは本当に人を殺したんだろうか。どうも他人事のように思えて仕方がない。

 オレの車はどうなるんだ、と右隣の刑事に話しかけると、無駄口は叩くな、と愛想のない顔で突き放された。

 後部座席と運転席はクリア板で仕切られ、警察無線が篭った音で聞こえる。それ以外、誰もが無言で気が滅入る。酔ってしまいそうだ。吐きそうになったらどうしたらいいですか、と訊くと、トイレ休憩は1回だけだ、それまでは我慢しろ、と運転席のシートの後ろポケットに入っていた嘔吐袋を渡された。袋を受け取ると、手錠がガチャガチャと音を立てた。

 車窓の風景が、ただ後ろに流れていくのを眺めながら、退屈な時間を過ごすしかない。あまりにも暇だったので、また女を殺した日のことを思い浮かべる。女房が帰った後、斎藤遥香が来た。オレは、そう刑事に話した。斎藤遥香の顔を思い浮かべようとするが、はたして彼女がどんな顔だったか、バックシートに乗せた死体の顔は赤黒く、その顔と斎藤遥香の顔を照らし合わせることができなかった。そもそも、斎藤遥香という女は本当に実在するのだろうか。


「斎藤遥香って、誰ですか?」


 オレは長谷に訊いた。長谷は呆れたような目を向けて、いいから黙りなさい、と不機嫌になった。なんだ、この女。オレに気があるのか。オレが他の女の名前を出しただけで嫉妬しているんじゃないか。


「取引先に、その斎藤遥香って女が本当にいるんですか?」


 長谷は目を丸くして、あなたまだそんなこと言ってるんですか!と声を荒げた。


「オレが殺したのって、やっぱり女房ですよね」


 長谷だけではなく、右隣の刑事も同時に、態とらしいため息を吐いた。


「てめえ、デタラメ言って心神喪失で罪から逃れようって、そうはさせねえぞ」


 右隣の刑事は狭い車内で肩をぶつけてきて、顔を近づけて睨んでくる。息が臭い奴だ。体全体でオレを押して、威圧してくる。そんなに密着してきて、まさかコイツもオレに気があるのか。

 その体を長谷は細い腕で押し返す。


「白井くん。その辺にしておきなさい」


 どうやら長谷の方が、役職は上のようだ。白井と呼ばれた刑事は苛立ちを抑えられずに、肘でドアを叩いた。車体が揺れる。


「一応、相馬先生に連絡しておいて」


「こんな奴、精神鑑定するんですか。意味ないですよ」


「いいから!」


 なにを皆んな苛ついてらのだろう。まあ、オレのせいなのだろう。ただなんとなく取調室の雰囲気に押されて、オレは自白させられてしまったのではないだろうか。人を殺してしまったのは認めよう。だが、本当に斎藤遥香という女を殺したのか。


「そもそも、その斎藤遥香さんって人は、実在するんですか?」


 相手に気を遣って言葉を選んだつもりだったが、てめえ、という怒号とともに白井という刑事に胸倉を掴まれた。


「白井くん!」


 興奮している白井を長谷が制する。


「本来、署に戻ってから話したいのですが、1つだけ訊きます。あなたは、誰かを殺したという自覚はあるのですか?」


「はい。だから、女房を」


「まだてめえ、そんなこと言ってんのか!おちょくるのもいい加減にしろ!」


 前の座席で警察無線が鳴る。静岡県警各局、山梨の宿泊施設でどうたらこうたら、と割れた音でよく聞き取れない。クリア板で遮られているため、尚更だ。発砲がどうのこうのと聞こえた。なにか山梨で面白いことが起こっているのか。オレが乗せられた車両は、丁度静岡に入ったところだ。そう言えば、常田の奴はどうなったんだろう。この無線の事件は、アイツのことなのか。発砲という言葉が聞こえたから、アイツは関係してない。オレはアイツが改造銃を持っているとか嘘を吐いたから、本当にアイツが銃を持っているはずがない。


「そう言えば、常田って、どうなりました?」


「それはあなたに関係ないでしょ。すみません、無線切ってください」


 運転手は、連絡が取れなくなると困りますので、と言い無線の機械を弄り、ボリュームを下げただけのようだ。無線はまだ喋り続けていたが、内容は全く聞き取れなくなった。


「あなたは、奥さんを殺したと思っているのね」


 オレは素直に頷く。


「白井くん。署に連絡して、手塚さんに中央署に来てもらってちょうだい」


「ですが、相馬先生を通さないとマズくないですか?勝手にそんなことしたら」


 いいから、と長谷はピシャリと言うと、すました顔をオレに向けた。


「心神喪失か、そのフリをしているのかどうかは、私にはわかりません。だけど」


 長谷は言いかけたところで、とんでもない力で髪の毛を掴まれた。


「あなた、いい加減に現実を見なさい」






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