第100話 モンブラン

 カーテンの端を、持っていたリモコンで少しめくった。カーテンを開けたら、バルコニーにたくさんの警官がいるかもしれないので、なるべく窓から距離を取りたかった。10センチほど捲れたか、その隙間から外の様子を伺う。まだ鈍い音が断続的に聞こえるが、バルコニーの床が死角になって、その様子が見えない。何か警官同士で揉めているのか。それとも得体の知れない武器か重機みたいなものを準備しているのか。いや、それはない、ここは日本だ。

 芝生の広場には、さっきより人が増えている。そのほとんどがスーツ姿だ。


「ママ」


 みずきが俺のすぐ後ろに隠れるように立っていて、小さな声で呟いた。みずきの見ている方向には、たしかに女性の姿が見えた。あれが、みずきの母親か。童顔で、大人しそうに見えた。

 また怒鳴り声が聞こえた。刑事の1人が俺の存在に気づいて大声を挙げたのだろう。大勢の刑事たちの視線を一気に浴びた。拳銃を確認、という叫び声が聞こえた。窓を締め切っているせいで、外の声が篭って聞こえる。多分聞き間違えだろうと呑気に構えていると、刑事たちが拳銃をこちらに向ける。嘘だろ、俺は窓から身を引いた。その一瞬、1人の刑事と目が合った。みずきの母親の近くに、険しい顔の初老の刑事と一緒にいた若そうな刑事だ。みんな俺の方を見ているのだから、俺が1人を見れば目が合うのは当たり前なのだが、そいつからは妙に強い視線を感じ、俺が彼の目に吸い寄せられたという方が正確かも知れない。一瞬だったから、気のせいなのかも知れない。

 俺はさっと窓から離れ、もし銃撃られたらと思い、遮るものがないかとベッドの脇に崩れるように身を隠した。みずきも引っ張り頭を下げさせた。息が荒くなり、体が熱くなった。足に力が入らない。どうやら腰が抜けてしまったようだ。寝そべった状態で、みずきの体を引き寄せ、なるべく体を小さくした。

 しばらく2人で縮こまっていたが、なにも起こる様子はなかった。さすがに全員で銃を乱射するようなマネはしないだろう。ここは、日本なのだから。それにこちらには、みずきがいる。みずきの安全を考えたら、日本の警察がそんなことはしない。それは安全な国に住んでいるという呑気な過信なのだろうか。

 あの若い刑事の目が脳裏にチラつく。怒りでもなく、使命感でもなく、哀れみでもなく、どういう感情なのかわからないが、なにか体の内側をほじくり返すような威圧的な視線だった。実際に見たことがないからわからないが、人を殺そうとしている目に見えた。多分気のせいだろう。だが、彼の殺意を感じ取ったと同時に、何か同調するものを感じた。なんと表現したらいいのかわからない。単純な言葉を使うと、、そう感じた。


 みずきは頭を低くしたまま、手だけ伸ばしてテーブルの上から便箋とボールペンを手繰り寄せた。便箋の綴の裏表紙を下敷きにして、ママ、ママ、と言いながら続きを書き足している。少し取り乱しているようだ。俺は左手で、みずきの背中を摩ってやった。大丈夫、大丈夫、心の中で念じながら摩った。

 みずきのペンが止まった。


「か、書けたよ」


 みずきは震えた手で、俺に便箋を寄越した。小刻みに震える紙がカサカサと音を立てる。


「オジサン。読んでみて」


 俺は首を振った。それでもみずきは、俺の胸に便箋をグッと押し付けてくる。

 俺は仕方なく受け取ろうとしたが、右手にはテレビのリモコンが握られたままだった。リモコンを置こうとしたが、掌が開かない。緊張のあまり、手が強張ってしまっている。


「みずきちゃん、ちょっと、手が開かない」


 頭で掌に、開け、と指令を出しているのに、このまま握り潰すんじゃないかという力でリモコンを握っている。みずきは慌てて、俺の指1本1本開いて、リモコンをなんとか掌から外してもらった。腰は抜けるわ、手が開かないわ、指を開いてもらうわで情けない。


「これを読むのはお母さんだよ」


 手紙を受け取った俺の掌も小刻みに震えている。指先が冷たく、やっと開いた手にジンジンと血が通っているのがわかる。痺れたように、痛い。


「いいよ。渡せないから、オジサンが読んでくれればいいよ」


 もう1度、首を振る。俺は、この手紙を読まない。読む必要がない。


「もう、気持ちを全部書いたんでしょ。だったら、あとはお母さんに渡すだけだよ」


「もういいよ!ね、逃げよう。みずきも見えたけど、さっき外の人、みんなピストル持ってたよ。死んじゃうよ」


「もう逃げれないって。それに日本の警察は、そんなに簡単にピストル撃っちゃいけないんだよ。だから大丈夫」


「大丈夫じゃないよ。ピストル撃たれなくても、オジサン、逮捕されちゃうよ」


 必死で心配してくれることが、単純に嬉しかった。だから、どんなことをしても、この手紙を母親に渡さなければならない。でも腰が抜けて動けないから、落ち着くまで息を整える。寝そべったまま、みずきの便箋を綺麗に畳み、封筒に入れた。


「逮捕は、仕方ないよ」


「どうして?オジサン、悪いことしてないじゃん」


「他のうちの子を連れ出した時点で、もう誘拐だよ」


「誘拐じゃないよ。みずきが勝手についてきただけだもん!」


「でもね、勝手についてきちゃったって言っても、誘拐は誘拐だからね。ちゃんと逮捕されないとね」


 逮捕にもないと思った。


「なんで!それじゃあ、連続殺人犯にされちゃうよ。テレビで言ってたもん!」


「大丈夫だって。それはやってないって、ちゃんと警察に話せばわかってもらえるから」


「無実の罪で死刑になっちゃったら、どうするの?」


「死刑は、ないだろ。オジサンがやったっていう証拠もないし」


「警察はきっとオジサンを犯人にして、この事件を終わらせるつもりかもしれないじゃん!そういうの、テレビでよく見るよ」


 考えが大人なのか子供なのかわからない。ただ、みずきは必死になってそれを阻止しようとしてくれているだけだ。それだけで本当に有難い。

 そんな必死さに気持ちが和んで、少し足の感覚が戻ってきた。後ろに手をついて体を起こし、ベッドのシーツを掴んで、ベッドの淵に腰をかけた。


「みずきが出てって、オジサンの無実を言うから、オジサンは待ってて!」


 みずきは勢いよく外へ向かおうとしたが、ちょっと待て、とみずきの服を掴んで止めた。

 みずきが外へ飛び出した瞬間、たくさんの銃弾を浴びてしまうということはないだろうが、実弾の入った銃口をこちらに向けられていることには変わらない。そんな状況の中、子供1人を矢面に立たせるわけにはいかない。万が一を考えたら危険だ。それに自分の身を守るために、みずきが体を張る必要はない。誘拐事件を起こしたのは俺だ。自分のケツは自分で拭かなければならない。


「みずきちゃんが1人で出てったら、危ないよ。それにオジサン1人になっちゃったら、それこそ銃撃されちゃうよ」


 俺は拳銃を構えるポーズを取ってそう言うと、みずきは、あ、そうか、と俯いて足を止めた。咄嗟に思いついた言い訳だったが、みずきを止めるには充分な理由だった。

 さあて、表に出るとするか。まだ左足に力が入りにくいが、ベッドに手を付いて、それを見ていたみずきに支えられて、ようやっと立ち上がることができた。みずきの手紙の封筒を彼女に見せて、右側の尻ポケットに仕舞った。


「よし!」


 足に力が入らないので、気合の声だけ出してみた。股関節なのか、膝なのか、足首なのか、どこに力を入れればいいのかわからないが、左足が上手いこと動かない。左側に体重を乗せると、フニャフニャッと倒れてしまいそうだ。それでもさっきより少しマシで、左足を引き摺ってなら歩けそうだ。


「これを、みずきちゃんのお母さんに渡してくるよ」


 みずきは、何か言いたそうに口を開けて困惑している。だが、もう決めたことだ。


「危ないから、呼ぶまで、中で待ってて」


 カーテンの上から、窓の鍵をそっと開けた。銃撃されることはないだろうが、向こう側からそこにいるとわからないよう、なるべくカーテンが動かないように気をつけて開けた。そして頭を低くして、ゆっくり窓を開けた。窓枠の下の方を引いたので重く感じた。最初窓は固く、指先に力を入れると、ブワウッと空気が入り、カーテンが風で揺れた。ガサガサと人が動く音と、刑事が声を上げたのが、近くに感じる。カーテンの裾を捲り、バルコニーに刑事がいないことを確認した。

 匍匐前進でバルコニーに出る。ゆっくりと前に進んだ。体を這ったままバルコニーの真ん中まできた。客観的に見たら、滑稽な姿だろう。まるでトカゲにでもなった気分だ。さて、ここからどうすればいいのだ。

 とりあえず立ち上がる前に、抵抗しないことだけは示さなければならない。


「拳銃は、持ってませーん!」


 緊張のあまり「せ」のところで声が裏返ってしまった。


「なんか言ったぞ」


「身代金の要求ですかね」


 刑事たちがザワザワとし始める。刑事たちの声はハッキリと聞こえるのだが、こちらの声は届いていないようだ。


「常田祐司かー!」


 拡声器を使ったひび割れた音が届いた。


「はいー。常田祐司ですーぅ!」


 ありったけの声を出して返事をした。やっぱり間抜けだ。


「なんて言った?」


「はい、って聞こえませんでしたか?」


 こちらの声が届かない理由がわかった。俺は匍匐前進の態勢のまま、顔を下に向けているので、下まで声が響かないのだ。


「今、立ちまーす。撃たないでくださーい!」


 俺は左手を上げて、右手を床につき、ゆっくり体を起こした。まだ左の足がフニャフニャしているが、さっきよりマシだ。左膝をつき、両腕を上げて、右脚に力をいれて立ち上がった。方々から、チャチャ、と金属音がして、顔を上げて周りを見渡すと複数の銃口がこちらに向けられていた。撃たれないとわかっていても、気分のいいものではない。


「あのー、撃たないで。銃なんか持ってないですから」


 俺は万歳の格好で、武器を持っていないことをアピールした。


「僕はー、連続殺人などしていませーん!」


 そんなこと言っても、はい、そうですか、とは簡単にならないのはわかっている。誰も銃を下ろそうとしてくれない。久しぶりに自分のことを「僕」と言った。なんとなくこの場では「俺」よりは「僕」の方がいいと判断したが深い意味はなく、かえって気恥ずかしい。


「みずきちゃんは無事か!」


 さっき拡声器で喋った刑事が質問してきた。俺は、首を縦に振り、無事です!と大声を張った。


「今から、みずきちゃんを、開放しまーす!」


 俺は両腕を上げたまま、辺りを見回し、みずきの母親を探した。自分の体を抱えるようにして、泣き顔を晒している。よかった、みずきの母親は、やはりみずきのことを心配している。この手紙さえ渡せば、きっとうまくいく。

 さっきみずきの母親の側にいた若い刑事の姿がなかった。辺りを見回すと、若い刑事と、一緒にいた初老の刑事はかなり前方まで来ていた。また、若い刑事と目が合う。このまま目を合わせていると、目を抉られるような気がして、さっと目を逸らした。

 俺はみずきを呼び寄せようと1歩下がると、刑事たちはザザッと1歩前に寄ってきた。大勢の刑事たちの動きに怯み、また膝に力が入らない。その威圧感にまた足が動かなくなってしまった。振り向くと、みずきの姿がカーテンの隙間から見えた。みずきもこの光景に足がすくんでいるようだ。もうちょっと待ってて、と俺は目を瞬いて合図した。


「あと、これはみずきちゃんの気持ちです。これをお母さんに.....」


 封筒を掲げようと尻ポケットに手を当てて、そう言いかけたところで、あの若い刑事が、危ない!と大声を出した。そのタイミングで、また下半身の力が抜けて俺は倒れた。左手を上に挙げて、右手で封筒を取ろうとしていたもんだから、手を前につくのが間に合わず顔から転んでしまった。左の頬骨と顎をぶつけて、目がチカチカした。耳鳴りもする。


「オジサン!!」


 みずきが駆け寄ってきた。危ないから下がってなって、と言ったつもりが、顔面が痛くてうまく喋れない。左頬を下にして、膝を立てて腰が上にくの字に曲がり、尻を上にしたなんとも情けない状態。今度はムカデじゃなくて、これじゃあ尺取虫シャクトリムシだな、と泣きたくなった。


「ごめん。オジサン、転んじゃった」


「違う!見て!血ィ!」


 顎でも擦り剥いたかな、こんな大事な場面でみずきを心配させてしまった。ちゃんと体を起こさないと、こんなみっともない格好のまま取り押さえられるのもカッコ悪い。そう思って手をつこうと、右手を動かそうとした時、右手に持った封筒が視界に入った。封筒の3分の1ほどが変色している。なんだか濡らしてしまったようだ。みずきが頑張って書いたものなのに、汚してしまった。何やってんだ、俺。

 とりあえず体を起こそうと、左手をつこうとするが、なんだか力が入らない。咽せた。吐き気がすると思ったら、口から血が飛び散った。

 マジか。ここから最悪を想像する。体が持ち上がらないので、頬をついたまま顔を自分の下半身に向ける。頬がバルコニーの床の板と擦れて痛い。ジーンズの腰のあたりが濡れている。小便を漏らしたみたいに気持ちが悪い。熱い。シャツの腹の辺りも同じように濡れて赤黒くなっている。いやぁー、こりゃあマジか。尻を突き上げたその下に血溜まりができている。

 腹の周辺はものすごく熱いのに、体全体は寒い。なにか喋ろうとするが唇が震えて、鳩尾の下辺りがくすぐったい感覚がして、唇を動かすと笑ってしまう。


「オジサン!」


 みずきが俺にしがみついてくる。


「ダメだよ。服、汚れちゃうよ」


 俺の血の量を見て、みずきが狼狽る。喋るたびに破裂した下水管のようにゴボゴボと血が溢れ、血溜まりを大きくしていく。


「どうしよう。どうしよう」


 みずきは俺の傷口を押さえようと、血の付いたシャツを触った。彼女の手首まで真っ赤に染まった。みずきは立ち上がって、バルコニーの安全策まで駆けて身を乗り出し、誰か救急車呼んで!と叫んだ。

 自分でもわかるんだけど、もうこれは手遅れだ。頭がぼうっとしてきた。寒いし、眠い。痛みはよくわからない。血を見るまでは撃たれたことさえ気づいていないくらいだ。血を見た瞬間、腹部の辺りに鈍痛を感じたが、今は感覚がほとんどない。締め付けられるような苦しさは感じる。とにかく、寒い。そして眠い。


「誰なの!誰が撃ったの!誰か、救急車呼んで!死んじゃう!」


 みずきが泣きじゃくりながら叫んでくれている。俺の最期としては、素敵な終わり方じゃないか。俺のことを心配してくれる人間がいるなんて。もう、救急車なんか呼ばなくていいから、少しでも側にいて欲しい。


「みずき.....ちゃん」


「なに?」


 みずきが駆け寄ってきた。震える俺の肩を摩ってくれた。


「ごめんよ。汚しちゃったけど、ちゃんと、お母さんに手紙、渡しなよ」


「ダメ!オジサン、もう喋らないで」


「もう無理だって。だから悪いけど、最期まで一緒にいてもらって、いいかな」


 寒くて声が震える。こんなにセミが鳴いていて、このクソ暑い夏の日に、体は真冬に丸裸で外に出されたように寒い。もう、死ぬなぁ、呆気ないなぁ。でもこの1週間ほどは充実していた。みずきと出会った。旅行みたいだった。たくさん笑った。玲香と話せた。みずきと玲香の顔が浮かぶ。もう視界がボヤけてしまっている。優香の顔も思い浮かべた。最期は、大事な人の顔だけ思い浮かべよう。玲香、優香、そしてみずき。みずきも大事な人だ。俺の最後の1週間を華やかにしてくれた。だんだん目の前が暗くなってきた。みずきの叫び声が聞こえる。たくさんの足音も近寄ってきた。頼む、静かにしてくれ。頼む、みずきと2人きりにしてくれ。優香が生まれて、初めて家に来た時のことを思い出した。赤ん坊特有の、ふわっと甘い匂いがした。優香の隣に寝ていると、すごく暖かかった。ふっとモンブランが思い浮かんだ。俺はモンブランが好きだ。死ぬ前にモンブラン食いたかったなぁ。でもこの最期に思い浮かばなくても。もっと大事な人のことを考えていたい。最期の1秒まで、玲香と優香、みずきのことを考えていたい。3人の顔を順番に浮かべる。俺にとっては誰が1番ではない。もう視界も見えない。みずきが腕を掴んでいる。顔は見えないが、みずきだ。悪いけど、死ぬまでずっと俺の腕を持っててくれ。玲香、優香、みずき、玲香、優香、みずき。視界も頭の中もボヤけてしまって、3人の顔が混ざってしまう。モンブランまで出てきやがる。まあ、いいか。みんな大事っていうことで。体がふわっと軽くなった気がした。このまま、もう俺は――。





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