第99話 満足のいく手紙

 カーテンを閉め切ったことで、部屋の中が静まりかえった。さっきまで窓を開け放していたのを閉め切ったことにより外の音が聞こえなくなり、無音に近い状態になった。そのせいもあって自分の心臓の音が聞こえる。


「オジサン。どうしよう」


 気のせいか、みずきの声が響いて聞こえる。まるで広い倉庫にでもいるかのようだ。心配そうな目を向けるが、みずきは何にも悪いことをしていない。心配しなければならないのは俺の方だ。静寂に耳が慣れてくると、防音されてはいるのだろうが、外の声が小さく聞こえるようになり、いたぞ、という声が耳に入った。のことだろう。これは完全に刑事たちに包囲されている状態。

 俺はみずきのその声を無視して2階に上がった。みずきも黙ってついてくる。慌ててカーテンを閉めたので、2階のバルコニーに繋がる窓のカーテンが少し開いていた。なるべく体を隠すようにしてチラッと外を覗き、その隙間を閉めた。刑事の数はさっきより少し増えているようだった。


「続きを書こう」


 俺は平然とした顔を装い、みずきに手紙を書くよう促した。本当は心臓はバクバクしている。体の中で暴れまくって口から出そうな勢いだ。覚悟を決めた、というと大袈裟になる。だが、逮捕されることは受け入れた。指名手配されてコソコソ逃げ回るのも面倒だし、無罪を訴えて認められても、ご近所の目を想像したら普通の生活になんて戻れるわけはない。刑務所に入ってしまう方が楽な気がする、そう自分に言い聞かせた。もしかしたら、みずきが母親と暮らせるようになって親子で面会に来てくれるかもしれない。そう考えれば、これからの希望の1つとして刑務所暮らしも苦にならないのかもしれない。あわよくば、女房と娘が面会にと図々しいことを考えてしまったことは否定しない。みずきを誘拐した容疑だけではなく、連続殺人の容疑までかけられてしまったら死刑ではないか、という疑念が過ったが、1人で考えてもどうにもならないことは考えても仕方のないことだと振り払った。

 今はそれどころではない。みずき親子が面会に来てくれることを考える前に、まずみずきを母親の元に返さなければならないのだ。そのためには、みずきの手紙を完成させなければならない。それが今すぐやらなければならない俺に課せられたミッションだ。


「オジサン。みずきが勝手についてきちゃったって言うから、今から刑事さんのところに行こう。そしたら、捕まらないかもしれないよ」


 それもそうかもしれないが、今のまま出ていっても、みずきは気持ちを母親に伝えられないだろう。やっと手紙を書く気になったのだ。この手紙は途中で終わらせて有耶無耶にしてはいけない。


「大丈夫、大丈夫。それよりも、さあ、手紙の続きを書こう」


「いいよ、手紙書かなくても。みずき、ちゃんとママに言うから。手紙じゃなくてもママに言えるから。ね、このままじゃあ、警察が突入してきちゃうよ」


 それは外国の映画の話だろ。でも本当に突入されて、羽交い締めにされたり、警棒で殴られたら嫌だなあ。くだらないことを想像して弱気になってしまった。でも日本の警察がそんなことまでしないだろうと呑気なことも考えていた。やっぱり痛いのは、嫌だ。


 みずきの体は窓の方に向けたまま、顔だけこちらを向けている。カーテンは閉まっているから、外の様子なんて見えないのだが、何度も窓の方を指差したり、部屋の中を行ったり来たりと落ち着かないようだ。

 俺はそれを気にしない振りをして、テーブルに着いた。俺も便箋に向かう。俺も手紙を書くから一緒に書こう、と行動で促したつもりだ。

 やはり便箋を目の前にすると、なかなか手紙なんて書けないもんだ。手紙を書くなんて、いつから書いてないのだろう。用事があるときはメールやラインで済ませるし、便箋になんて久しぶりに見た。便箋の1番下の欄にはホテルの名前が印刷されていた。1番上にはホテルのマークみたいなものが印刷され、その下に少しスペースがあって、20行くらいの横書きの線が並べられている。俺は手首を振ってボールペンを持った。気合を入れて臨まなければならない。1番上に、『玲香へ、優香へ』と書いた。書く相手は他にいない。

 俺はみずき手招きで呼び寄せた。みずきは外の様子を気にしながら、隣に座った。


「オジサンも書くぞ。一緒に書こう」


 そうは言ったものの、やはり1文字も書けない。手が動かない。玲香、優香、と呼びかけから書いてみたが、上の行に『玲香へ、優香へ』なんてタイトルみたいに書いてから、また次に同じことを書いて変な書き出しになってしまった。覗き込むみずきに、変だよね、と話しかけると、微妙、という微妙な返事が返ってきた。


 とにかく外のことは忘れて便箋に向かう。微妙な書き出しの便箋は丸めて捨てた。もう1度、『玲香へ、優香へ』と1番上に書いて、便箋と睨めっこをする。みずきも、ゆっくりとだが、字数を増やしていった。

 俺の方はというと、これはいいぞ、と思って書き出してみると、やっぱり納得がいかない。また紙を丸める。みずきが紙をクシャクシャにした時、ある程度書いて下書きにすればいい、なんて思ったくせに自分が丸めて捨てている。べつに丸める必要はないのに丸めてしまうのは、これはクズだ、と目の前から消去したくなるのだ。気がつけば、丸めた便箋の数は俺の方が多くなっていた。

 納得できる言葉が見つからない。締め切り間近の小説家のように頭を抱える。


「いいんだよ。書き直せば」


 さっき言った同じ言葉で、みずきに慰められる。


「思ったように書けばいいんだよ」


 またもや俺が言った言葉。みずきは、してやったりという顔で舌を出した。なんだか生意気を言うようになった。

 テーブルにボールペンを置き、両腕を膝の上に乗せる。目を瞑って、ふぅー、と息を吐く。気持ちを落ち着かせる。次に目を開いて、便箋を見た時にパッと思いついたことだけ書こう。もう書き直しは、無しだ。格好つけた言葉もいらない。言い訳も書かない。余分なことを考えない。そのために目を瞑って、一切を遮断する。周りの音も聞こえない。落ち着くまで、待つ。玲香と優香の顔だけを、頭の中で浮かべる。優香の顔は3歳くらいまでの顔しか知らない。でも、それでいい。3歳くらいまでの顔なら、今でもハッキリと思い浮かべることができた。膝の上で抱いている時に、俺の顔を触ってきた時の顔。顔が近くて、少し寄り目になって、不思議そうに俺の頬に生えた無精髭を触っていた時の顔だ。チクチクする、と言って笑った顔。


 パッと目を開いた。まだ書いていない便箋に、言葉が浮かんで見えた。それをなぞるように書く。そのまま書く。そして、書けた。


 みずきが脇から、そっと覗いてきた。


「書けた?」


「うん。書けた」


「それだけ?」


「うん。これでいい」


 みずきはニヤニヤしながら、大人みたいに静かに頷いた。どうやら、揶揄からかわれているようだ。あまり覗かれるのも恥ずかしく、中を見られないように文面を内側にして三つ折りにした。まあ、もう文面は全部読まれてしまっているのだが。

 彼女も9割くらい書けたようだ。最後の締めの言葉を悩んでいるらしい。俺も仕返しに覗き込んでやると、左手で隠して睨んできた。あまり邪魔すると、続きが書けないだろうと思い、その場を離れた。リモコンを探して、テレビのボリュームを下げた。そしてチャンネルを変える。教育番組のチャンネル以外は、全て俺の事件のことだ。どの局もこの宿泊施設の駐車場の画面で、チャンネルを変えてもレポーターの顔と風景の角度が少し違うくらいだ。報道陣は中には入れないらしい。駐車場と宿泊施設を繋ぐ通路は規制線の黄色いテープで塞がれている。自分がその渦中の人間だとは思えないくらいに他人事で、穏やかな気分だった。自分の気持ちを手紙に露呈させたら、体が軽くなった気がしていた。

 みずきは俺の方を、放課後の補習でプリントが終わった人から帰っていいよと言われ、先に出来上がって帰る生徒を見るような目で眺めたあと、観念して自分の便箋と向き合っていた。締めの1行は、最初の1行の次に難しい。最後の1行には意味なんてない。全体を締める言葉として飾る最適な1行なんて、ない。ちゃんとした手紙の作法とかあるのかもしれないが、この手紙の目的は彼女の気持ちを晒すこと。子供の手紙に『敬具』なんていらないし、そんな形を作るための飾りだったらいらない。そこで終わりにできないということは、まだ彼女の中に絞り出していないことがあるということだ。全部書けばいい。形なんか気にしなくていい。 


 突然、外から大きな鈍い音がして、みずきは驚いて肩が飛び上がった。車の交通事故のような、鉄のような何か硬いものがぶつかる音。怒号も聞こえる。ガシャンガシャンと何度もぶつかり、キーッという擦る音や重いものが土の上に落ちたような音、人の怒鳴り声。

 みずきは怯えて肩をすくめ、カーテンの方を見つめている。俺はテレビのリモコンを持ったまま、外の様子を伺おうと、カーテンの閉まっている窓に向かった。


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