第98話 言葉の威力

 みずきの字は、角がしっかり曲がり、ところとところのメリハリがしっかりしていた。『私』という字を漢字で書いた。『ママへ』の次の行に『私』を書いて、筆が止まっている。

 文章というのは、最初の1行が難しい。最後に書きたいことは決まっていても、最初の1行がなかなか出てこない。その1行さえ出てくれば、書きたいことはいっぱいあるのに、その1行が出ない。男の俺はお産というものを経験したことはないが、最初を出すまでが、きっと苦しいのだろう。もちろん子供を産むことは、最後まで苦しくて痛いのだろうが、文章というのは言葉を産む作業だと思う。お産を経験してない俺が言う話ではないが、他の例えが見つからない。


 みずきも苦しんでいる。『私』の字の次に、ボールペンの先を当てては離し、また当てては離しを繰り返している。『私』の字の次に『が』で持ってくるか『は』を持ってくるか迷っているように見える。1文字の違いで、文章の流れがガラッと変わってしまう。言葉というものは、正しく使わないと別の意味になってしまう時がある。使い方に気を遣わなければならない。みずきはもうそれがわかる年齢なのだ。『私』の次に『は』を書いて、少し眺めて便箋の紙を綴から外してクシャクシャにした。みずきは振り返って、ベッドの淵に腰掛けている俺に、間違えた、と言ってバツの悪そうな顔を向けた。


「いいんだよ。書き直せばいい」


 本当は紙を丸めないで、書けるところまで書いて、あとで修正すればいいと思ったが、余分なことは言わないでおいた。筆が乗るためには、最初の書き出しが重要だ。そこが納得いかなければ次に繋がらないということを経験上理解している。

 若かった時、何を血迷ってか作家を目指していたことがあった。目指す、という表現は大袈裟か、周囲の人間に将来の夢として作家になりたいと言っていただけだ。あれから何もしてはいない。

 中学の頃友達とバンドを組んで、好きなミュージシャンのコピーで満足していた。高校に上がるとギターの奴が、そろそろオリジナル曲を作りたい、と言い出した。「俺が曲作るから、お前、歌詞を考えてくれ」その申し出に、なぜ俺なんだと訊くと、「お前は国語が得意だから、と答えた。国語なんて漢字くらいしか勉強することないし、あとは他の奴らより少し本を読むことが好きだっただけで、自分が国語を得意だという認識はなかった。「じゃあ、曲書いてきてくれたら、歌詞を乗せればいいんだな」俺がそういうと、「歌詞のイメージで曲が浮かぶから、先に歌詞を書いてきてくれ」と言う。こっちとしては、先にメロディがなければ節も言葉数もわからないので難しい、と渋ってみたが、「歌詞の内容でメロディが降りてくる」と相手が譲らないので、俺が歌詞を先に書いてくることになってしまった。

 とにかくどこから手をつけていいのか分からず、やっとこんな感じかなと書いてみたら、最初の1行書けるとその後意外とスラスラと書ける。どんな内容だったか全く忘れてしまったが、その時の社会風刺みたいなものを取り入れた、我ながら魂の篭った詞が書けた気がした。ただ、メロディや節がないので、言葉はずらずらと並べられて、これをどうやって曲にするのか疑問だったが、とりあえずギターの奴に見せた。奴は大真面目な顔で、フンフンと偉そうに読みながらギターを構え、適当なフレーズっぽいのを奏でた。そのリフもどっかの誰かの丸パクリなのだが、それを何日かかけてとりあえず曲っぽいものが出来上がった。

 稚拙ながら多重録音機でデモテープを作ってメンバーに聴かせた。メロディに乗らない部分は削って、節に合わない部分は書き換えて、完成した曲。初めてのオリジナル曲にメンバーも喜んで、もしかしたらプロになれるんじゃねえか、と期待だけが膨らんでいった。そんな調子で3曲くらい作って、ライブでコピー曲の合間に演奏したりした。反応はイマイチで、やはり既存のコピー曲の方が盛り上がるのは、オリジナル曲というのは浸透するまで時間がかかるものだから仕方がないと思っていた。オリジナル曲を広めるためにダビングした3曲入りのカセットテープを、ライブの時に無料で配った。人の手に渡るものだから、ジャケットや歌詞カードも白黒のコピーで作った。歌詞カードには、作曲はギターのやつの名前、作詞は俺とそいつの名前がクレジットされていた。でも、腹が立つことはなかった。削られたり、変換された言葉は、もう俺の作ったものではない。

 そんなこともあったが、そのままプロを目指そうというメンバーが熱く語るので、俺もその気になっていた。本気だったかというと微妙だ。流れに身を任せただけだった。他にやりたいこともなく、なんとなくこのままプロになれるなら、進学も就職も考えなくて済む程度の考えだ。それでも夢中になれた。俺が書いた詞を書き換えられたって、ギターの奴がちゃんとした形にしてくれるだけでいい。それは俺に作詞の才能が足りなかっただけだ。作詞もお前の名前でいいよ、と打診したこともあった。そうしたら、こういうのは印税の問題があるからシビアに考えた方がいい、と大人ぶったガキらしい答えが返ってきた。俺もそれを恥ずかしいと思わない若さがあった。

 高校3年になり、周りは進学や就職内定が決まり始めた頃、俺たちバンドメンバーは、そういう邪念を振り払って音楽に没頭してきたつもりだった。そのうちメンバーも短大や専門学校に進学することを決めて、1番本気だったギターの奴は地元の中小企業に内定が決まっていた。


 お前は、どうすんの?


 取り残されたのは俺だけだった。何も考えていなかったから、受験勉強も就職活動もしていない。毎週担任の教師に進路指導室に呼ばれていた。今後の進路のことは担任からも詰められたし、両親も心配していた。だけどこのセリフをギターの奴から聞くとは思ってもいなかった。ドラムの奴は東京の短大に行くからバンドを辞めなきゃならない、「新しいドラムを探さないと」と彼は言う。どうやら続けるつもりらしい。「俺も仕事始まったら最初のうちはできないかもしれないけど、落ち着いたらまた始めよう」軽く言う彼の言葉に、さーっと情熱が覚めた。


「それなんだけど、俺も辞めるよ」


 何も考えずに口から出た。「なんでだよ、お前ベース上手いじゃん、あれだけ練習したのに」彼はどんな心境でその言葉を発しているのか。「わかった、引き抜きだな、他のバンドでやるんだろ」引き抜かれるほど俺は上手くもない。「あの曲はだからな」何を言ってるんだ、あの曲は俺の作ったものじゃない。


「俺、小説家になろうと思ってて。歌詞書くと、ダラダラ長くなっちゃうでしょ。歌詞書くより、文章の方が書けるかなって、前から思ってて」


 どういうつもりだったか忘れたが、多分ムキになって、そう答えたんだと思う。「小説家か、お前なら向いてるよ。バンドなら趣味でもやれるしな。またやろうよ」


 そんな感じで、ボヤっとしたままバンドは自然消滅した。高校を卒業して、ドラムの奴が静岡に帰って来た時たまに集まったりしたが、バンドの話は出なかった。互いに別の生活を始めれば別の付き合いも増え、次第に会う回数も減り、ここ10年ほど会っていない。4〜5年前にボーカルの奴から実家に『結婚しました』という写真付きの葉書が届いていた。ボーカルの奴は歌唱力はそこそこだったが男前で、バンド内で1番モテる奴だった。他人のことは言えないが、葉書の写真にはむかしの面影は薄れて、いいオッサンになっていた。

 それからギターの奴はというと、最近の出来事だが、たまたまいつもは寄らないスーパーで買い物をした帰りに、そのスーパーで彼に似た風貌の人を見かけた。スーパーのユニフォームのジャンバーを着ていたから従業員なのだと思うが、スーパーの搬入口で荷物の上げ下ろしをしていた。ふと見えた横顔がギターの奴に似ていた。40を超えているのに長髪でまだらな金髪だった。もしかしたら本人かもしれない。でも声はかけなかった。せっかく就いた定職を辞めたのだろうか。アイツはまだ音楽を続けているのかもしれない。アイツはあの曲をまだ演奏しているのだろうか。俺にはもうベースラインすら思い出せない。あの曲を勝手に演奏しているのが嫌だと言っているわけではない。だって、あれは俺のじゃなくて、アイツが作ったものなのだから。むしろ、これは俺の初めて作ったオリジナル曲だ、と演奏し続けていてほしい。


 しょっぱくて、臭い想い出に浸ってしまった。みずきは何度も話しかけたいらしいが気づかなかった。


「オジサン、大丈夫?」


「ああ、ごめんごめん」


「これって、これでいいかなぁ?」


 座るみずきの背後から、テーブルの上を覗いた。もう5行ほど書いてあった。


「結構書けたね」


「ここって、文章おかしい?」


 整った字が、しっかりと列に並び、まだ内容は読んでいなくても気持ちが篭っていることは充分に伝わった。読んでみても、おかしいところは見つからない。


「ここは、『です』じゃ変なのかなぁ?」


「べつに変じゃないよ」


「でも、こっちは『だよ』だから、どっちかに合わせた方がいいよね」


 多少文章の語尾の調子が色々混ざっていたが、それはそれでいいと思った。そこに気持ちが表れてるから、「です」になったり「ね」になったりしてるのだ。自分だったらこう書くなぁ、とか主観を入れたら、もう彼女の文章ではなくなってしまう。手紙は、字面を綺麗にするために換えたりしない方がいい。

 俺は家庭教師のように彼女の斜め後ろから覗き込むようにして、漢字の誤字だけ指摘した。


「あとはいいんだよ。思ったように書けば」


 自由に書くということが難しいのは理解している。だからこそ、気持ちが伝わると思う。便箋の半分くらいまで書いたところで、また詰まってしまった。ボールペンの後ろで顎を叩きながら、続く言葉を探している。どんなに時間をかけたっていい。自分の中にある言葉を見つけ出し、便箋に吐き出せばいい。

 みずきは便箋を睨むように見つめている。自分の中から吐き出した字、それは自分の心と向き合うこと。書いた字を見ていると、自分の中でも心の整理がつくようになる。というのは嘘を嘘と認識しにくい。喋っているうちに嘘が本当に思えてくるからだ。でもは違う。書き出した瞬間から嘘とわかる。その嘘を眺めているうちに耐えられなくなって消したくなる。消したくならなかった言葉は、なのだ。そして本当の言葉は人の心を打つ、はずだ。

 だけど逆のことを言うが、文章というものは不思議なもので、他人の文章を見てると、換えたり教えたくなってしまうから厄介だ。こうやって書いたらもっと伝わるのにとか、ここはもっと強調してとか。でもそうしたらみずきの感情ではなく、になってしまう。だから、言わない。言いたくないから、見ないようにした。また、ベッドの淵に座る。


「ねえ、オジサーン」


 椅子の背もたれに肘をかけ、困った表情をこちらに向ける。


「はい、続けて」


 俺もふざけて、先生のように言ってみる。


「じゃあ、オジサンも書いてみなよ」


「オジサンが?オジサン、みずきちゃんのお母さんのこと知らないからな。お母さんだって、知らないオッサンから手紙もらったら気持ち悪いでしょ」


 俺からみずきの母親にお願いする手紙を書くことだってできる。でも他人からの忠告なんかきけるくらいなら、虐待なんかするはずがない。きっと母親だって苦しんでいるに違いない。そこへ知らないオッサンからの忠告なんか受け入れる心の余裕なんてないはずだ。母親を変えるためには、みずきの言葉だけで充分だ。もしそれで変わらなければ、変わることは無理だろう。でも、変えられる。みずきの魂の篭った言葉で母親の心は揺れ動くはずだ。


「違うよ。オジサンは、奥さんと子供に書くんだよ」


 この子の発言には感心させられることが多い。全く予測していなかった課題を、俺にもポンと放り込んできた。人には手紙を書けって言って書かせているくせに、自分に降りかかると、書くことないよとか、もう離婚しちゃってるわけだし、もう遅いよぉ、などと言い訳ばかり出てくる。


 みずきは便箋の綴から1枚を外して、自分のテーブルの空いているスペースに置いた。抽斗からボールペンをもう1つ出して便箋の上に置き、ポンポンと掌で示す。


「オジサンも、自分の気持ち書いたらいいよ」


 少し意地悪な笑みを向け、俺にも催促する。これは、さっきまでの仕返しか。わかったよ、と答えたがどうも照れ臭くて、立ち上がったもののテーブルには向かわず、少し外を眺めようとバルコニーに向かった。べつに円形の芝生の庭を見たかったからではない。すぐに手紙を書き始めることへの少しの抵抗だ。

 だが、外を眺めた時の違和感、人はまばらで10人ほどがチラチラこちらを見ている。こんなリゾート施設に似つかわしくないスーツ姿の男たちだった。施設の従業員ではない。一瞬でわかった。刑事だ。

 スーツ姿の男たちは、俺の姿を見ると、こちらに悟られないように気にしてはいるのだろうが、少し構えるような動きをとったように見えた。


 俺はさっとガラス戸を閉めて鍵をかけ、カーテンも閉めた。


「ヤバイ。警察来ちゃったかも」


 俺の一言にみずきにも緊張が走る。みずきと手分けして部屋中の鍵とカーテンを閉めた。玄関も閉めた。部屋中のカーテンが閉まると、まだ昼間なのに暗くなった。


「どうしよう、オジサン」


 心配そうな視線を俺に向ける。


「大丈夫。続きを書こう」


 俺は、部屋の電気を点けた。

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