第97話 筆圧

 泣くのがヘタクソな俺とみずきは、暫く泣いた。周りの目なんて気にしなくてよかった。泣くことを咎める他人は、ここにはいない。今まで塞き止められていた感情が溢れ、我を忘れて泣いた。

 気が済むまで泣いてから、みずきと顔を見合わせた。互いの泣き方の可笑しさに笑った。俺はいい大人の貰い泣きなのかなんなのかわからない体裁の悪さに自嘲し、みずきは泣いて枯れた自分の声に笑った。


ごえべんだよね」


「オジサンみたいな声になってるよ」


「目、腫れてるよね」


「オジサンみたいな顔になってるよ」


 みずきは、わーんと泣くマネをして睨み、ベッドをドンドンと叩いた。俺は、地震だ地震だ、とおどけて飛び跳ねた。大の大人がはしゃぐもんだから、ベッドのスプリングが軋み、バインバイン音を立てるので、なにがそんなに可笑しいのか、みずきも燥いで笑い転げた。

 どのくらいの時間ふざけて笑っていたかわからないが、笑うのにも疲れてきた。少し落ち着いたところで一息つき、みずきに話しかけた。


「そういう気持ち、お母さんに言ったことある?」


 急に現実に引き戻されて、顔から笑みがスッと消えた。そして真っ直ぐ俺の顔を見て、ないよ、と言った。


「だから、何回も言ってるけど、みずきが一緒にいたいって言ったら、ママ、絶対困るもん」


 堂々巡りのように思えたが、彼女の顔は落ち着いていた。自分の塞いでいた気持ちを吐き出して、スッキリしたのか、ハキハキとした口調で晴れやかな顔をしているように見えた。


「困るとは限らないよ」


「そんなことない。自分の気持ちは、ちゃんと言った方がいいって」


「言ったら、どうにかなるの?」


「それは、わからない」


「じゃあ、言っても意味ないじゃん。ママを困らせるなら、言わない方がいい」


「言ってみないと、わからないよ」


「オジサンも、そうだったの?」


 感が鋭い子だ。さっきの女房からの電話の内容を話した。俺みたいな勘違いから溝ができ、そこにあったはずの平穏な幸せを放置するような間違いを彼女にしてほしくなかった。みずきは黙って俺の話を聞いていた。知らぬ間に俺が俺の物語を話す番になっていた。


「オジサンはいいよ。そうやって奥さん待っててくれたんだから。でも、みずきのママは違うよ。ママにはリキトくんとひかりがいるから。逆にみずきがいることで困らせてる」


 そうかなぁ。俺は独り言のように呟いた。たしかに新しい旦那ができて、今まで通りに長女を構えなくなってしまったのかもしれない。でも、1人で育てていた大変な時期を共にした娘を、そんな簡単に割り切れるだろうか。もしくは旦那の目に怯えて、母親の方も自分の気持ちに蓋をしてしまっているのではないか。俺は子供を産んだことはないから、知ったようなことは言えないが、自分の腹を痛めて産んだ自分の分身を、邪魔の一言で片付けられないと思う。

 既に確立してしまっている母親と義父と妹の家族に、みずきだけが浮いた存在なのはわかる。想像するだけしかできないが、血の繋がりのない親子というものを母親の立場として両立するのは、簡単なことではないと思う。それでも、もし旦那と娘をどちらか選ばなければならないとするなら、血を分けた娘を選んでほしい。他人の俺の希望なんか知ったことではないだろうが、それでもこのギスギスした世の中でそうあってほしいと思う、ある種願いのような気持ちの方が強い。彼女の物語の中で、トレーナーのことが忘れられない。もしかしたら、そのトレーナーは勘違いで彼女のために買われたものではない場合もある。でもその可能性は低いと感じる。母親がみずきのことを嫌っているのであれば、みずきがこんなにも母親を求めるだろうか。想いは同じではないだろうか。俺は女房のことを諦めていたが、未練たっぷりだった。俺の一方通行な想いだと諦めていたが、女房は待ってくれていた。俺とみずきは違う状況であれ、同じような境遇に思える。俺だけ待ってもらえていたなんて考えられない。

 もし彼女がいなくなって、渡せなかったあのトレーナーはどうなるのだろう。そのトレーナーはみずきに手に渡るべきだ。そうでなければ、いけない。


「いや。言うべきだよ」


「絶対、大丈夫?」


「そうとも言えない」


 明るい兆しを感じる表情のみずきに、なんとも無責任な言葉を言い放ってしまった。でも、言った方がいいという根拠がある。

 俺も自分の気持ちを伝えればよかった。女房が待っていてくれた結果があったからだけではない。待っていてくれたことは嬉しかったが、待たせてしまった罪悪感の方が大きい。7年もの間、娘の優香はどんな気持ちで過ごしていたのか。玲香は、その娘に父親が側にいないことを、どう説明していたのか、そしてどう接していたのか。あの時、俺が自分の気持ちを晒け出していれば、7年も待たせなくてすんだ。あの当時俺が別れたくないと言ったら、玲香はその時の感情で別れていたのかもしれない。でも玲香は、別れ離れになっている間、何度も悩んで何もしないままの7年が経ってしまったのだろう。優香だって、その7年間父親がいないことを幾度か母親に訊いたのかもしれない。その都度答えに詰まる玲香の姿は想像に容易い。俺も玲香も7年間、前に進めなかったのだ。ただその間、娘が側にいなかった俺よりも、玲香の方が苦しかったんだと思う。その俺の罪は重い。

 みずきの場合も同じだ。自分の気持ちを伝えないまま、たとえ拒絶されたとしても、みずきの母親に対する気持ちは届かなければならない。みずきの母親も時が止まっているのだ。みずきも、みずきの母親も1歩前に進まなくてはならない。


「そうだよな。思ってても、迷惑かなと思うと、なかなか言えないよな。わかるよ」


「オジサンも、そうだったの?」


 やっぱり鋭い子だ。それとも俺がわかりやすいのか。


「嫌われたかと思ってたから、これ以上嫌われたくないと思って、何も言えなかった」


 みずきは、同じだよ、と何度も頷いた。


「でも、みずき、オジサンに言えただけでスッキリした。だから、もういい」


「本当に?でも、死ぬのはダメだよ」


 説得力が全くない言葉だ、我ながら頼りないと思う。でも本当に根拠のない理由だが、やっぱり死ぬのはダメだと思う。生きてればこれからいいことがあるとか、死んだら悲しむ人がいるよと断言してあげられない。生きてれば辛いことはいっぱいあるし、悲しんでくれる人がいなくて孤独かもしれない。でも、ダメなものはダメだ。


 チャミュエルという輩は、みずきを救おうとして、安易なという選択をさせた。そんな子供たちの弱みにつけ込んでいるだけの人間なのかもしれない。みずきや他の子供、それでも救いの手が差し伸べられたと思い、死んだ子供たちは死ぬ選択をして本当に救われたのかもしれない。そのだったのだと思う。

 でも、それでは本当の意味での救いになっていない。チャミュエルは救いと言って1番簡単な方法で、終わらせようとしている。それは救いじゃなくて、だ。死にたいから死ぬ、それでもいいと思う。それが1番合理的だ。無理に生きてたって辛いだけだ。そんなに辛いなら死んだ方がいい、その方が楽になれると思う。俺だって、もういいや、このまま朝目覚めなければいいのに、と考えながら何度布団に潜り込んだことだろう。そんな俺が、死ぬのはダメだって言っても、説得力の欠片もない。

 病気や事故で死ぬことはある。生きたいのに生きられない人だっているんだぞ、命を無駄にするな、なんて説教するつもりもない。ただ自分で自分の命を断ち切るなんて、あまりにも悲しすぎるじゃないか。

 俺がチャミュエルに間違えられたのも何かの縁だ。こうなったら、俺がチャミュエルの代わりに、この子を救う。自分のことを棚に上げて、大風呂敷を広げたもんだ。だが、それでいい。


「わかった。死なない」


 みずきは俯いたまま、死なないと答えた。今はそうして話を合わせてくれただけかもしれない。俺と離れたら、どこかでまた死にたくなってしまうのかもしれない。でも今、ほんの一時いっときだけでも、生きようと思ってくれたなら、それでいい。


「よし。じゃあ、今の気持ちお母さんに伝えよう」


「それは無理」


 そう言って俯いた顔を上げた。


「死なないから、オジサンとずっと一緒にいる。それじゃ、ダメ?」


 嘘でも嬉しかった。俺もそうしたいと思う。そうしたら、家族と別れてしまった寂しさを埋められる。それって幸せなんだろうか。所詮、血の繋がらない2人の親子ごっこだ。戸籍なんか変えられないから、これからどうやって学校へ行かせればいいのか、指名手配犯が住居を借りられるだろうか、この子を嫁に出す時に俺はどんな立場で送り出すのか、相手はどういう関係だと思うだろうか。考えれば考えるほど、現実味がない。それを全てクリアできたとしても、互いの傷を舐め合って一緒に暮らして、それを幸せと呼べるのか。捨て猫が捨て猫を育てられるわけがない。

 ただ、彼女が生きることを受け入れ、俺と一緒でいいと言ってくれたこと、それだけで嬉しかった。それだけで俺は生きていける。もう逃げない。俺はこの後、逮捕されるだろう。自首したっていい。俺はそれを素直に受け入れる。受け入れたら気持ちが楽になった。よくドラマや映画で、刑務所のご飯のことをというが、それがどんな臭いか知るのもいいかもしれない。そして刑務所の中で、みずきのことを思い出す。出会ってから約1週間だったけど、濃密な時間だった。止まっていた時間が少しだけ動いたと感じられた1週間。刑務所でみずきのことを思い出しながら、臭い飯を食べるのだ。これを楽しかった想い出にするためにも、みずきは母親の元で幸せに暮らしてもらわなければならない。その第1歩には、気持ちを伝えなければ。


「よし。手紙を書こう」


 我ながら名案だ。手紙なら、口で言えないことも書ける。書いていれば、伝えたいことが整理できる。何度だって書き直せばいい。納得のいく言葉を、書きながら見つければいいのだ。

 大抵こういう宿泊施設には、便箋と封筒が置いてある。多分、抽斗ひきだしの中だ。俺は下の階に降りて、リビングの隅のデスクの抽斗を開けると、便箋と封筒はすぐに見つかった。部屋案内のファイルが入っていて、そのファイルを開いた表紙の内側のポケットに入っていた。封筒は1枚だったが、便箋はつづりになっていた。これなら何回だって書き直せる。

 みずきもロフトから降りてきたので、目の前で便箋をヒラヒラとさせて、あったよ、と言った。便箋とボールペンをデスクに置き、みずきの後ろに回り肩を掴んで無理やり座らせた。


「ほら、さっき言ったこと、ここに書いてみよう。手紙だったら渡せるでしょ」


 みずきは半分困ったような顔をしたが、デスクに座ると素直にボールペンを手に取った。そして1行目にゆっくり、しっかりとした強い筆圧で「ママへ」と書いた。


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