第96話 悪魔祓い
「リキトくんが来なければよかったのに」
本音が溢れ出す。自分の口から漏れた言葉に、ハッと顔を上げて目を瞑った。
「でも、ひかりは可愛いよ。ひかりのことは大好きだよ。ちょっと焼き餅焼くときはあるけど」
複雑な心境だと思う。最近は親が再婚して、片親が違う兄弟や姉妹なんて珍しくはないだろうが、当の本人としては、簡単に割り切れるものではないだろう。ましてや、みずきは10歳の子供だ。大人の事情を割り切って、表面上だけでもうまくやれたら、子供じゃない。大人だって難しいのだ。
妹は可愛い、そんな素直な言葉を聞いて、ほっとした。焼き餅を焼くという感覚に、嘘偽りはないだろう。
「オジサンも、そのリキトくんって義理のお父さんのこと、聞いてて嫌いな奴だな」
彼女に同調する言葉を使った。短い間だが、彼女と接してきて、その彼女に対してそんな仕打ちをする義父のことは腹方が煮え返るくらいに怒りが込み上げてくる。だけど俺の感情を入れてはいけない。彼女の気持ちを晒け出すよう促すくらいに留めておかなければならない。これをビジネス用語なのか心理学用語なのか知らないが、傾聴と言ったか。相手が口にしていることを妨げないよう、同じ気持ちだということを表して少し背中を押す程度、そんな言葉を選んだつもりだ。こんなことを、うろ覚えで進めて、間違った方向へ導いてしまったらいけない。あの研修で、もっとちゃんと勉強しておけばよかった。後悔しても遅い。だが、気持ちがあれば、彼女に届くはずだ。俺にはちゃんとした意志がある。着地点はなんとなく見えてきた。あともう少しなのだ。
俺は間も無く逮捕されるだろう。殺人は犯していなくても、誘拐という罪を犯している。無罪ではない。こんな犯罪者の父親でも、1人の少女の心を救えられれば、娘は許してくれるだろうか。許してほしいなんて思うのは、こちらの我儘だ。たとえ許されなくとも、そんな父親だったと記憶されるのであれば、ただの犯罪者よりは少しはマシなのではないだろうか。
「やっぱりリキトくんは、ひかりのパパだから」
「そういうのは考えないことにして。お母さんのことも妹のことも抜きにして、俺はみずきちゃんがどうしたいのかを聞きたいな」
みずきは顔を上げると、眉間にシワを寄せていた。苦しいと思う。ずっと我慢してきたことだから。今まで服も新調してもらえなくて、合っていないサイズの服に体と気持ちをパンパンにして閉じ込めてきたのだ。あのサイズが合っていない小さいピンクのサンダルはもう捨てて、解放するのだ。あともう一押し。
「他の誰かが困るとか、そんなの関係なくして、みずきちゃんがどうしたいかだよ。本当は死にたくないでしょ」
敢えて核心に触れてみる。
みずきはベッドの上に、両足をL字に外側に折り、女の子座りの姿勢になった。両腕を前に放り、両手でシーツを掴む。顔は俯き、ガバッと垂れた髪で表情は見えない。なにかブツブツと小さな声で念仏を唱えるように語り始めた。それはみずきの今までの受けた記憶。俺はその断片断片を拾い、物語として聞いた。
家に義理の父親が来た。やがて母親と義父の間に子供が生まれた。自分の妹だ。最初は自分も可愛がられていたが、妹ができてからだんだんと自分の居場所がなくなることを感じた。まだ甘えたい時期なのに、自分がお姉さんになることを言い聞かせて我慢した。母親1人では大変だと思い、他人だが自分を可愛がってくれる義父のことを受け入れた。義父に違和感を覚えた。理由はわからないが、父親の接し方ではないことはわかった。理解できなかったが、それを母親には言えないことだとは感じていた。義父を拒絶した。その辺りから、さらに自分の居場所がなくなってくることを感じた。母親に助けを求めたかった。母親に気付いて止めてほしかった。母親は気づいている、でも助けてくれない。母親も自分から離れていってしまうと感じた。
ある日、母親が妹のひかりを連れて買い物に出かけたことがあった。土曜日だった。みずきを置いて3人で、ひかりの新しい洋服を買いに出掛けた。母親はひかりを抱っこ紐で抱き、たくさんの紙袋を下げて帰ってきた。でもそこに義父の姿はなかった。急な仕事で会社に行くことになり、出先で別れたらしい。みずきは1人で留守番をして待っていた。テレビを見ていたが、家族の帰宅の気配を感じ、テレビを消してリビングの隅の小さな机で勉強しているフリをした。母親はたくさんの紙袋を床に置き、ひかりを寝室に連れていき、そっとベビーベッドに寝かせた。ひかりが熟睡しているのを確認すると、寝室のカーペットの上で紙袋の中身を1つ1つ取り出しては広げ、畳み直していた。買ってきた服をひかりに着せることを想像しているのだろう。1枚1枚服を眺める母親の顔は幸せそうだった。義父はみずきの服を買うことは認めていなかった。そんなに必要ない、まだ今のが着れる、がいつものセリフ。みずきはリビングの隅で、羨ましいと思っていることを悟られないように横目でチラチラと見ながら勉強しているフリをする。空になった買い物袋を綺麗に畳み、次の袋へ。母親はまた、その動作を続ける。最後の1枚を広げると、母親の表情が変わった。なんとも寂しげで悲しい憂いを秘めた表情だった。そんな表情の中、むかしを懐かしむような暖かい眼差しが混じっていた。母親の眺める服は、母親や義父のものとしては小さく、妹のものにしては大きなグレーのトレーナーだった。首元と裾にレースのフリルが付いていて、フロントにはピンクの英字がプリントされていた。みずきの好きな色はピンクだ。そのサイズなら、きっと自分のだ。義父と別れてから買ってくれたのだろう。ママー、と叫んで抱きついて、ありがとう、と言いたかった。でも、我慢した。
久しぶりの新しい服、そのものが嬉しかったのではない。私の物を買ってくれた、それを選ぶのに自分の服を選ぶのに時間を使ってくれた、自分のことを忘れていなかったことが嬉しかった。贅沢を言えば、母親の手から渡してほしかった。驚かせてほしかった。だから気がついてないフリを続けた。
長谷はこちらを向くことなく、そのトレーナーをゆっくりと畳み、母の服が仕舞われているカラーボックスの
彼女のこの物語は、ハッピーエンドではない。これをハッピーエンドにするのだ。
デフッ。
?
なんの音だ?
ブフッ、デフ。デュ、デュフデュフデュフッ。
みずきの方から聞こえる。彼女の口から出ているのだ。なんの呪文だ。それとも調子が悪いのか。目の前の両手でシーツを引き裂こうとしているのか、シーツを掴んだ両手を広げる。ガフッ、ヴー。手の力を抜くと、首を上に上げた。けたたましい金切り声をあげたかと思うと、口を「い」の形にして震えている。悪魔にでも取り憑かれたのかと思った。泣いているのだ。喉の奥で何かが
頑張れ。俺と同じで、みずきも泣くのがヘタクソだ。
「ママと、グエッ、ママと、ママと一緒にいたいよぉぅゔー」
俺は側に近寄り、ベッドの淵に腰をかけた。背中を摩ってやった。頑張ったね、俺はその言葉を口に出さずに、背中をゆっくり摩ってやった。地響きのような唸り声は、彼女の背中を伝い、俺の掌まで響いた。華奢な体の尖った背骨を掌に感じた。ゆっくりと強く、彼女に取り憑いた悪魔を押し出すように、何度も背中を往復する。摩擦で掌が熱かった。少し痺れてきた。それでも何度も上下に往復した。
あぁぁぁぁぁー。彼女の感情を塞き止めていたものが外れて、みずきは小さい子供のように泣き声をあげた。顔はクシャクシャになり、顔中水浸しだった。たくさんの涙の粒がみずきの丸い頬を転がっていく。俺は背中を摩るのを止めて、軽く肩を叩いた。赤ちゃんを寝かせる時のように、リズミカルに優しく叩いた。涙は連鎖する。さっき涙袋は空になってしまったと思っていた俺の目にも、同じものが溢れてくるのを感じた。
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