常田 祐司
第95話 陽が射す
「オジサン、ごめんね」
みずきはベッドの上で膝を抱えて座り、項垂れている。俺はみずきの話を聞いて、こちらこそ申し訳ないと思った。こんなことに巻き込まれたことによる怒りというものは、微塵も感じなかった。むしろ、連れ出してしまったのは俺だ。みずきは、本当はチャミュエルという人物に会いたかったところ、俺の勘違いで連れ拐われてしまったのだ。
「オジサンこそ、チャミュエルじゃなくて、ごめん」
テレビでは虚しく俺のニュースを流れている。テレビのスピーカーから呼ばれる俺の名前を、自分のものと感じることができない。呼ばれている名前も、使われている写真も、まるで自分のものではないみたいだ。テレビで呼びかけられている俺の名前は、連続殺人犯の常田祐司の名前だ。俺は誘拐犯かもしれないけど、殺人犯ではない。そして自分の体自体も自分のものではないように感じる。
さっき女房から電話があった。まだ離婚届を出していないと告げられた。感極まって涙が出た。泣いたのは本当に久しぶりだったので泣き方を忘れてしまっていた。涙はボロボロ出るのに、泣いている時にどういう声を出すのか、どういう姿勢で泣くのかなんて、余分なことを考えてしまう。そんなものは自然でいいのだろうが、意識してしまうとその自然がわからない。あまりにも涙が止まらないので、声を出したら涙を出し切れるのかと、うーんうーん唸ってみるが、便秘の人間が糞を出すように力んでいるので、みずきは心配していいのか笑っていいのか困った顔をしていた。
涙は今は治っているが、出し切っていない感じが気持ち悪い。そう言えば最近は頻尿だ。トイレで小便を済ませても残尿感がある。変な時に汗をかいたりする。歳をとってくると、体から外へ水分を出すのがヘタクソになってくる。
「チャミュエルってのは、いったい何なの?」
特に気になっていたわけではないが、大の大人が子供の前で泣いて、バツが悪くて適当な会話に持ち込もうとした。
「そんなことより、逃げようよ。みずき、昨日店員さんに名前聞かれたのって、テレビ見て確認するためだよ。もう、ここ、バレちゃうよ」
みずきは買い物をした紙袋に着替えを入れて身支度を始めていた。子供なのに俺なんかより、しっかりしている。
「もう、逃げなくていいよ」
諦めとは少し違う。もう逃げても仕方のないことだ。俺は家族から逃げた。女房から逃げた。でも女房は逃げようとも、追いかけようともしていなかった。彼女は待ち続けた。俺は初めて女房に大きな声をあげた。早く離婚届を出せと怒鳴った。嬉しかった。こんな俺を待ち続けてくれていたことが、心底嬉しかった。だから怒鳴った。離婚するのは彼女から逃げるためではない。家族を守るために、女房も娘も俺と縁を切らなければならない。そして、もう逃げてはいけない。
「オジサン、もう逃げないよ。だから、みずきちゃんも、逃げちゃダメだ」
「みずきは逃げてなんかないよ。ママのために、いなくなった方がいいんだから」
「それは違うと思う」
そう思った根拠なんてない。だけど、子供を産んだ母親が、子供がいなくなっていいわけがない、そんなの綺麗事かもしれないが、俺はそう信じたい。こんないい子が、なぜそんな思いをしなきゃならないんだ。俺は女房に捨てられたと思っていた。でも離婚届を提出していなかった。自分で勝手に思い込んでいただけで、そんな奇跡のような幸福感を味わえた。俺がこんな時間を起こしていなかったら、元の家族に戻れただろうか。俺はそれを否定せざるおえない。だって俺が指名手配されていなかったら、女房からの電話もなかった。この事件を起こさなければ、その事実を知らないままだったはずだ。俺から連絡しようなんて発想もない。諦めていたからだ。俺は、見捨てられていなかった真実だけ知れたことで満足していた。
だから、みずきも勝手に思い込んでるだけなのかもしれない。義父が虐待していることは思い込みではないだろうが、母親までみずきのことを見捨てているわけではないかもしれない。義父には逆らえないだとか、母親にも事情があるのだと信じたい。みずきも母親から、家族から逃げていたのだ。
もう俺たちは逃げてはいけない。まずは逃げない大人の姿勢を、みずきに見せなければならない。
「みずきちゃんは、お母さんに言ったことあるの?」
「何を?」
みずきはまとめた荷物を床に置き、ベットの淵に座った。
「そのお義父さんの、虐待のこと」
「言ってないけど、ママも見てるから」
「見てる時、お母さんはどういう顔してた?」
べつに、みずきを困らそうって質問じゃない。この子は賢い子だ。そして冷静に周りを判断している。だから、わかっているはずだ。母親が、本当はどんな気持ちなのか。
「ママも、みずきがいなくなった方がいいと思ってる」
「本当に、そんな顔してた?」
みずきは俯き、ベットのシーツをモジモジと掴んでいた。困らそうと思ってるんじゃない。ただ本当のみずきを炙り出そうとしているのだ。柄にもない、良識ある大人を演じて、こんな小さい子を問い詰めている。俺は世の中の大人たちと比べたら、良識なんてある方じゃない。なのに、俺ごときが偉そうに良識人ぶっている。自分ができなかったのに、女房が俺に別れを切り出した時にどんな顔をしてたかなんて見てなかったくせに。そんな俺が、どんな面して問い詰めているのだ。
会社での新人教育の研修を思い出した。相手にものを教える時、自分ができるできないに関係なくやるべきことはやるべきこととして教えなければいけない、そんなようなことを研修で教わった気がする。偉そうに教えても、アンタだってできてないじゃないかと思われそうで、新人の顔色を伺って、まあそういう俺もできないんだけどね、なんて言ってしまう。それではダメだというのだ。
なぜ、言えないのか。それは相手がどういう自分になりたいのかを把握していないからだという。本人の理想と合っていなければ、いくら言っても響かない。研修の時の講師が、まずは本人の意思を確認して意志を決定させること、と言っていた。講師はホワイトボードに意気揚々と2つの文字を書いて、
なぜか今の俺は強気だ。女房に初めて意見できたからかもしれない。たとえ戸籍上は他人になったとしても、家族を感じられた。気づかされた。俺には意思もあるし意志も決まった。この子をどうにかしなければならないし、やっぱり家族の元、母親に返さなければならない。だから、みずきの意思を確認する。
「みずきちゃんは、どうしたいの?」
「だから、みずきがいなくなればいいんだよ」
少し投げやりに、少し声を荒げた。投げ出した足の踵を床にコツコツとぶつけている。今俺が言い返しても反発するだけだろう。みずきが落ち着くのを待った。
「みずきが我儘言ったら、ママ困るもん」
少し本音が出た。我慢してシャットアウトしていた自分の扉を少し開けた、とイメージした。
「何が困るのかなぁ?」
「みずき、邪魔だもん」
「じゃあ、みずきちゃんがお母さんのこと、嫌いなんだ」
少し意地悪な質問だった。みずきの考えていることは俺にはわかる。俺も同じようなことを思っていたからだ。でも、俺が代弁してしまっては意味がない。自分の口から言わせなければダメだ。少しずつ、彼女の殻を破る。
みずきは伏せていた顔を上げて、首を振った。
「みずきはママのこと好きだよ」
「じゃあ、お母さんはみずきちゃんのこと、どう思っているかな?」
しばらくの沈黙の後、わからない、と首を振った。好きとも断言できない、けれど嫌いと言わなかった。嫌われてるかもしれないし、嫌ってないかもしれない。嫌われてるとも思いたくない、色んな感情が交差する。彼女は今まで何度も考えてきたことだと思う。嫌いだったら何で一緒にいるんだろう、嫌ってないなら何で助けてくれないんだろう。そして考えることを諦めるために、自分がいなくなることに決めた。逃げたのだ。俺と一緒。それが1番の解決策だと本気で思った。
「じゃあ、お母さんが困ることって何?」
「みずきだけ本当の家族じゃないから。ママとリキトくんとひかりは本当の家族だから、本当の家族じゃないみずきは邪魔なんだよ」
「邪魔って言われたの?」
「言われてないけど、普通に考えたら邪魔じゃん」
「普通に考えたら、リキトくんの方が、本当の家族じゃないんじゃないの」
みずきが普通はと言うから、同じ言葉で返した。
リキトくんは、とみずきは口を開き、次の言葉を探していた。口をパクパクと動かしているが、言葉が声となって出てこない。頑張れ、負けるな、もう少しだ。自分が彼女にそうさせているのに、そんな応援をするのは矛盾している。こんな意地悪な質問をしている自分のことが嫌いになりそうだ。
「リ、リキトくんは、ママにとって大切な人だから、それにひかりのパパだから、いなくちゃダメだよ」
みずきの口から、やっと出た言葉は嘘でもなく真意でもなかった。みずきの言う普通の言葉で、自身の気持ちに蓋をした。でもその蓋は、自分の器とサイズが合わない。
「だって、リキトくんのこと嫌いだけど、ママにとっては大事な人だから、ひかりのパパだから。みずきだけ仲間外れだから!」
早口で吐き出すように言い放った。サイズの合わない蓋で塞ごうとしても、気持ちが漏れる。聞いていて胸が痛い。本人はもっと痛いだろう。
あともう少し。
ついさっきまで部屋を朝日が射していたが、陽の位置が高くなり、部屋が少し陰った。
もう少しだ。
外のセミの声が耳に入る余裕はない。みずきの次の言葉を聞くために、耳に神経を集中する。
この子の心にも陽を射してあげなければならない。
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