第94話 立て籠り劇

 中は石畳を挟み両側に建物が並んでいて、まるでスペインかどこかの外国の街並みのように演出されている。両側の建物が宿泊施設になっているようだ。少し先へ進むと緑の芝生の広場を囲うように半円に立ち並ぶ建物がコテージになっているようだ。その1室に常田祐司が立て籠もっている。

 円形の広場はゆったりとした寛ぎのスペースなのだろうが、その芝生には大勢の警察官で埋まり、その趣に浸る余裕はない。機動隊員がライオットシールドを構え取り囲んでいるのは右側の1番手前の建物だ。建物の窓は全てカーテンが閉じられ、中の様子が見えない。

 スーツ姿の太った男が拡声器を構えた。山梨県警の刑事だろう。


「常田祐司。直ちに人質を解放しなさい!」


 威圧的な態度だった。いつも思うのだが、そんな一言で素直に人質を解放するわけがない。それにそんな威圧的な物言いで犯人を刺激して、みずきちゃんにもしものことがあったら、あの刑事は責任を取れるのだろうか。篠山さんがその太った刑事に近寄り、声をかけた。


「パイセン、ねえ、パイセン」


 馴れ馴れしい声で田所が話しかけてくる。周りを気にして小声だった。


「あの井口って男、西川が捕まえの怒ってます?」


 本当は怒っいたが、僕の気持ちは既に常田に向けられているので、そんなこと忘れていた。


「怒ってないよ。だけど大変だったらしいね。井口が殺したの、奥さんじゃないんでしょ」


 態々それを訊くこいつの神経に嫌気がさした。嫌味の1つくらい言ってもバチは当たらないだろう。


「あー、それならもう解決済み。井口が殺したのは愛人の方だったらしいっすよ」


 この敬語とタメ語が混じる喋り方が妙に癇に障る。


「でもね、そっちだって実家の方に手塚由衣が帰ってきてる情報くれなかったじゃん。だからお互い様じゃないっすか」


 神妙な顔付きを装ってはいるが、心の中でヘラヘラしているのだろう。


、なに無駄口叩いてる!」


 大島さんはと言ったが、叱責の言葉は田所に向けられていた。


「無駄口ではありません。話の内容は井口の件です。大島さんにも報告が遅れました。申し訳ありません。新井さんには、経緯を報告していました。現在、長谷警部補と西川が井口を静岡中央署に移送中です」


 チッ、大島さんの舌打ちが聞こえた。大概の人たちは、田口のこの優等生ぶった態度に騙されるが、大島さんには通じない。


「来たぞ」


 大島さんが顎をしゃくった方向を見ると、静岡県警の捜査員の人垣が崩れて、野々村さんの姿が見えた。静岡の捜査員の態度を見て、山梨県警の刑事たちも、野々村さんの役職が上の人間だと分かったのだろう、道を開け会釈をする。山梨県警の1人が、拡声器を持った太った刑事の隣にいる白髪頭の背の高い男に声をかけた。向こうの管理官はあの人なのだろう。


「管理官を務めております、静岡県警の野々村です」


「ご苦労様です。私は山梨県警の鴨志田です。で、こっちが現場を取り仕切っているアキヤマです」


 アキヤマと呼ばれた太った方の男は、太々しい態度で頭を下げた。


「彼は井口雅紀の件でも担当致しました。現在井口の身柄は、そちらに移送しています」


「ありがとうございます。連日山梨県警そちらのご協力感謝します。現状は?常田はこの建物ですか?」


 野々村さんは機動隊員が囲む建物を示し、鴨志田がそうです、と答え2人はそのコテージに目を向けた。篠山さんも野々村さんに気づき、ご苦労様です、と片手を軽く挙げた。


「管理官、こちらに常田が立て籠もっていると考えられますが、先ほどから姿を見せません。山梨県警の捜査員が、2時間ほど前に中でカーテンを閉める姿を視認しております。その後、周囲を捜索していますが見当たりません。駐車場には常田が借りたレンタカーを確認しました。子供を連れて徒歩で逃走したとは考え難いです」


 篠山さんが親子ほど歳の離れた年下の野々村さんに、部下の立場で報告をした。野々村さんも上官の立場で、ご苦労、とだけ言った。

 篠山さんは、野々村さんの側に立つ山梨県警の2人の方に目を向けて、太った刑事に軽く手を挙げると、アキヤマの方も軽く手を挙げて返答した。


「知ってるんですか?」


 大島さんが篠山さんに訊いた。


「ああ。むかしは県対抗の柔道の試合があっただろ。アイツとは試合したことがある」


「そう言えばシノさん、柔道強かったんですよね」


「むかしはあんなに太ってなかったがな。アイツには梃子摺てこずった。アイツ、組むとやたら強いんだよ。それに顔を異様に近づけてくる。ちょっとネチッこくて気持ち悪いんだよ」


 そんな話をしていると、無駄口を叩くな、と野々村さんが視線を向けてくる。篠山さんたちは姿勢を正し、その場を誤魔化した。

 アキヤマは、常田が立て籠るコテージを見つめ、苛ついた態度で立ったまま貧乏揺すりをしている。そしてまた拡声器を使った。


「今から出頭すればまだ間に合う。みずきちゃんを解放してくれ」


 アキヤマの交渉は一方的だ。映画とかなら、こういう場合ネゴシエーターみたいな専門の人が出てくるのだろうが、現実と映画は違う。お袋さんも呼ばなければ、泣き落としもしない。周囲の人間はアキヤマの交渉を見て、それではまずいんじゃないか、と思いつつも、正しい交渉術がわからないので見ているしかできない。


「みずきちゃんは無事なのか?無事なら、みずきちゃんの姿を見せてくれ!」


 暫く沈黙が続いた。捜査員はみんなコテージを眺めながら、息を飲んでいる。みんな微動だにしない。セミの声だけが周りに響いている。

 コテージは2階建てで、上下階ともカーテンが閉まっている。そのカーテンが動かない。どの部屋にいるのかも確認できないため突入もできない。ガラスを割って突入するのも、みずきちゃんの安全を考えると、闇雲に突入許可は出せないようだ。


 野々村さんの側にいた捜査員の無線がピッと鳴った。捜査員が無線に出ると、すぐ野々村さんに代わった。


「こちら野々村」


 ガサガサと雑音が鳴り、無線から声がする。


『只今、みずきちゃんの両親が到着しました。通してよろしいでしょうか』


「安全圏内まで許可します」


 野々村さんは、そう返事をすると無線を切り、側の捜査員は無線機を受け取ると一歩下がった。まるで戦国時代の大名とその側近のようだ。そして僕たちは足軽みたいなもんだ。この状況下で、なにをしたらいいのかわからない。大名が号令をかければ、突進するしかない。それまでは余計な動きをすることは許されない状況だ。唾を飲み込むことさえはばかれる。

 張り詰めた空気の中で、誰もが固唾を飲んで見守っている。セミの声を耳に届かなくなった。神経は全て、コテージの窓に向けられている。

 視覚と聴覚のバランスが合わない。ずっと同じ場所を見ていると、眼球の裏側が痛くなってくる。ガチャガチャと装備品の音が近くで聞こえるが、周囲には動いている人はいない。その後がどこから聞こえるのかがわからない。脈打つ音が耳の裏で聞こえ、自分の鼻息が他人の息遣いのように遠くで聞こえる。チュワッと汗が吹き出る音が聞こえる気がする。汗でシャツが体に張り付いて気持ちが悪い。日差しで額が焼けそうに暑い。汗が瞼に入り、目を開けているのがキツイ。体中汗が吹き出ているのに、喉はカラカラに渇いている。


 みずき....。


 か細い声がすぐ側で聞こえた。コテージから目が離せないが、チラッと一瞬だけ振り向いた。みずきちゃんの母親と義父の姿があった。僕はすぐに視線をコテージに戻した。その瞬間、常田が立て籠もるコテージの向かい側の建物、この広場を半円状に囲む反対側のコテージの2階にライフルを構えている2人の狙撃手の姿も視界に入った。まだ僕たちには発砲の許可は出ていないが、狙撃犯の方はいつでも狙撃できるよう狙いを定めている。銃口の一方は1階、もう一方は2階の窓に向けられていると思われる。

 物々しい空気に、みずきちゃんの母親は義父に支えられて立っていた。


 なにを今更、母親面して悲しそうにしてるんだ。自分が男にうつつをぬかし、本当に大切なものを見失っていたんだろう。今更気づいたって遅いんだよ。被害者みたいな顔をして。お前は加害者だろ。みずきちゃんは愛されたくて、でも母親のお前はそれに気づかず、いや気づいているくせに、その隣にいる優男に嫌われたくなくて、自分可愛さのあまり、お前は母親であることを放棄したんだ。それでもみずきちゃんは、そんなお前を愛していて、それなら自分が消えればいいって、だからチャミュエルなんかに殺して欲しいなんて頼むんだよ。お前のせいだ。

 みずきちゃんの母親の顔が、椎名恵の母親の顔とダブった。今、振り向いて拳銃を撃ちたくなった。でも、そうしない。そんな母親は一生苦しめばいいのだ。それが罰だ。罰を受ければいい。風の噂では椎名恵の母親は、恵の自殺後、マスコミや周囲の目に耐えられず精神を病んだと聞いた。然るべき罰を受けたのだ。それは終わらない罰だ。


 僕は視界を阻む汗を掌で拭った。その一瞬の隙に、誰が走り出した。田所だった。

 捜査員全員が、田所に視線を向ける。止めようとする手を避け、田所は走っていった。

 また抜け駆けしようとしているのか。

 止めろ!野々村さんが叫んだ。ライオットシールドを構えた機動隊員が数名振り向き、シールドごと田所に突進していった。広場の捜査員たちが乱れた。

 少し目を離した隙だ。2階のカーテンから黒い細長い物が見えて、チラッと顔が覗いた。


「拳銃を確認!拳銃を確認!」


 捜査員の誰が叫んだ。


「全捜査員、拳銃を構えろ!発砲許可を待て!」


 野々村さんが叫んだ。


 みずきー!母親の金切り声と、捜査員たちの撃鉄を起こす音が同時に響いた。









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