第92話 召集

 篠山さんが来るまで、事務処理をして待っていた。いつもは篠山さんがのチェックをして、その中でも緊急を要するものをピックアップするが、僕にはその区別がつけられない。他の捜査員は捜査に出ているか会議で捕まっているので聞く人もいない。殆どの刑事が連続幼女誘拐殺人事件と井口の件にかかりきりで、を処理する暇なんてないし、興味もないだろう。やっぱり篠山さんの指示がないと何もできない自分に萎える。

 それでも自分1人でできることはというと、溜まった捜査報告書を作ることだけだ。昔気質の篠山さんは書類が苦手だ。そんなものはいい、大事なのは一刻でも早く事件を解決することだ、と後回しにすることが多い。途中まで書いた報告書を、あとはやっておけ、これも勉強だ、と僕に投げる。そんな調子だから作りかけの捜査報告書が溜まりに溜まっている。この言い方をすると篠山さんに注意されるが、あまり大きい時間でない限り、捜査報告書はそれほど見返されることはない。僕でも書けるし、これまでも僕が書いてきた。

 携帯のメモアプリを開き、捜査報告書を埋めていった。書類を埋める際、出会った人のことを思い出す。小鹿2丁目の窃盗犯は、リストラされて金に困って近所の家に侵入し通報され検挙された。初犯で何も取っていなく、被害は壊された窓の鍵だけだった。瀬名の老夫婦は子供がいなくなったと捜索届を出しにきたが、聴取したところ飼っている猫だった。ペットに対しては捜索届ではなく遺失物届だと説明すると、うちの子は物じゃないと憤怒していた。

 ストーカー事件もあった。20代の女性が毎日つけてくる人がいる、誕生日に宛名のないプレゼントが届く、知らないうちに車が洗車されて綺麗になっている。大きな被害があるわけではなく、僕たちもどう対処すればいいのかわからなかったが被害届を出され、仕方なく捜査を始めたところ、車を洗車されている目撃情報から、容疑者がすぐに判明した。女性が務める会社の同僚だった。この手の場合会社側が大事にするのを避け、被害者本人を説得し被害届を取り下げ示談に持ち込むケースが多い。だが、この被害者は自ら被害届を取り下げ、示談もしなかった。自分が想いを寄せていた同僚だったからだ。なんじゃそりゃ、と書類を作成しながら独り言で突っ込んだ。

 示談しなかったケースと言えば、小鹿2丁目の件も同じだった。始めは被害者家族は窓の鍵の弁償では済まされないと、不安な日々を送った代償として告訴すると言い出したが、加害者の話を聞くうちに同情して、被害届を取り下げたうえに、新しい就職先として自分の親戚の会社に入社できるよう取り持った。今では月1回バーベキューを一緒にするほどの仲だそうだ。こちらも突っ込みたくなる。

 瀬名の老夫婦の件は心を痛めた。ペットの事案はまず保健所の確認から行う。案の定、車に轢かれた状態で見つかった。死骸発見の通報の中から何件があるうちの、老夫婦が飼っていた猫の特徴から国道の死骸と一致した。老夫婦への引き渡しは、南署のあまり使うことの少ない第2会議室で行われた。これが人間なら遺体安置所になるのだが、ペットの場合だと普通の部屋でやるしかない。タオルは敷いてあるが、入れ物はダンボール箱だった。

 老夫婦は泣きながら笑顔で迎えた。痛かったねぇ、ごめんねぇ、と血が固まって暗くなっている頭らしき部分を撫でている。老夫婦は長いこと、そうやって触れ合っていた。そっと抱き抱えて、老夫婦が持ってきた猫用の籠に移し替えると、最後に僕たちに礼を言った。


「見つけてくれて、ありがとうございます」


 そう言って去っていったのは2週間も前の話だ。こういうケースでは轢いた車を見つけたいと被害届を出す人たちもいる。老夫婦はそうしなかった。道路で跳ねられた場合、飼い主が側にいなかった場合で想定すると、加害車両の特定は難しい。交通量の多い国道では飛び出してきた猫を避けることは、かえって危険な行為だ。轢いた車からしてみれば、加害者の方が被害者とも言える。猫とはいえ、寂しい老後を共に生きてきた家族が死んだ悲しみは計り知れない。訴えたい気持ちもあるだろうが、自分たちが目を離したことも罪と感じ、複雑な心境だったと思う。ぶつけどころのない怒りを被害届という形にして訴える人も多いのだ。だが、この老夫婦はわかっていた。そんなことをしても長年可愛がっていた愛猫は、もう生きて帰ってこないのだ。死骸とはいえ手元に帰ってきた愛猫を供養してやることが、自分たちにできることだと理解していたのだ。この2週間、あの去っていく後ろ姿を思い出すと、この遺失物届を書き上げる気になれなかったのだ。

 この件からしばらくして、篠山さんと老夫婦の家に訪れたことがある。老夫婦の家には犬がいた。息子夫婦が転勤で海外に住むことになり、犬を連れて行くことができないので、帰国するまで預かっているのだそうだ。僕たちが通されたのは畳の客室だった。壁にはたくさんの猫の写真が飾られていた。2年は帰って来れないというから長生きしなきゃならないね、そう言って犬を撫でる婦人は死んだ猫の写真を見ながらそう答えた。ミミちゃんも可愛かったけど、この子も可愛いよ。どっちが可愛いって言われても比べられないね。自分の息子が2人いるけど、どっちが大事って訊かれても答えられないじゃない。ペアくんはミミちゃんの代わりではないもの、ねえ。ペアくんと呼ばれた犬は婦人の膝の上におとなしく座っていた。

 僕は兄と比べられていた。拗ねてるわけでもなく、父親は間違いなく兄の方が大事だと思っている。むしろ僕のことは、なんとも思っていないのだ。子供染みたように聞こえるかもしれないが、本当に冷静に判断して、そうなのだ。恨む気持ちもない。僕も家族のことを家族と思っていないのだから。生まれた家を間違えただけなのだ。ペアくんも、この老夫婦に預けられて幸せだと思うし、ミミちゃんも幸せだったと思う。人間は生まれる家を選べない。犬や猫だって飼われる家を選べるわけじゃない。それは運だけの話なのだろうか。僕はあの家に生まれていなければ、こんなになってなかったのかもしれない。だけど、僕は篠山さんに出会えた。それは、とても運のいいことなのだと思う。

 篠山さんが関わった人たち、それは被害者も加害者もだが、むしろ書類上では事件にすらなっていない事件で関わってきた人たちは、みんな幸せそうだった。そして篠山さんに感謝している。小鹿2丁目の窃盗未遂犯も、ストーカー騒ぎの女性も、この老夫婦も。これは事件になっていないのだから、篠山さんの手柄でもなければ、成績にいっさい関係がない。警察からすれば評価に値しない仕事だ。なにも仕事してないくらいに思われてるのだろう。でも篠山さんは笑顔を生んでいる。自分の手柄や出世なんかは二の次で、目の前の人たち困っている市民を救っているのだ。僕はそんな警察官になりたかった。

 矛盾はするが、そんな篠山さんだからこそ、最後に手柄を立たせてやりたい。地道に市民を守ってきた刑事が、定年前に最後の大手柄を立てる、家族を犠牲にしてまで尽くした警察官人生の最後を華々しく迎えてほしい。僕は決めたんだ、篠山さんに手柄を立たせると。


「刑事課にいる捜査2課、南署の方、会議室に集まってください。野々村主任から召集です」


 亀井が刑事課まで呼びに来た。僕は大島さんと目を見合わせた。大島さんは頷き、すくっと立ち上がった。みんな小走りで会議室に向かう。丁度、通路には手塚さんのところから帰ってきた篠山さんがいた。


「どうした?慌ただしいが」


「野々村さんからの召集です。井口の殺した相手が判明したんでしょうか」


 会議室に入ると、田所がこちらに向かって手招きをしている。田所は前から5列目、かなり前の方の席だ。面倒臭えな、と言いたげな顔をして大島さんは前の席へ向かった。今まで忘れていたが、大島さんは田所のバディだった。アイツは策士だ、野心が強すぎて可愛げがない、大島さんは飲みの席で田所のことをそう評していた。


「先程、常田祐司の潜伏先が判明しました。山梨のリゾート施設です。従業員からのタレコミです。宿泊客しか停められない駐車場、レンタカーのナンバープレートも照合し、常田の借りた車に間違いありません。関みずきの姿も確認済み、従業員が接触したところ、本人もみずきと名乗っていたということです。山梨県警の捜査員が現地に向かっています。我々も山梨に向かいます。捜査1課、2課の第1班、第2班の計16名、そして2課の第2班の捜査員とバディを組んでいる南署の4名は直ちに山梨へ向かってください。山梨県警の許可は得ています。常田は拳銃、もしくは改造銃を所持しているという情報もあります。拳銃の携帯を許可します。至急、山梨に向かってください。あとの南署の人間は」


 野々村さんは一気にそこまで喋ると話を止め、篠山さんを凝視した。しばらくの沈黙。


「南署の人間は、各自判断して行動してください」


 行けとも、行くなとも言えない、どっちともとれない指示。今度は篠山さんが僕を凝視した。


「お前、山梨の道、詳しいって言ってたな」


「詳しいほどでもないですが、今行った宿泊施設なら知ってます」


「行きたいのか?」


 篠山さんは僕を睨むような顔で訊いてきた。


「行きたいです」


 少しの間目を閉じ、安全運転な、と言って僕に車のキーをよこした。チャンスは向こうから転がってきた。







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