第91話 定年の花道
結局、小暮は昨日あのまま起きなかった。グデグデの小暮を大島さんと担いでタクシーに乗せて、小暮の住所を知らないので、家に泊める羽目になってしまった。タクシーが家に着いた時叩き起こしたが、小暮の足取りはフラフラしていて、肩を貸して歩くのが大変だった。客人だからベッドで寝かせてやろうと思ったが、玄関に入ると倒れ込んだ彼を起こすことが可能性だったので、玄関でそのまま寝かせておいた。彼が昨日どのくらいの量を飲んだかというと、グラス1杯。200ml程度だ。かなり弱い。普段は全く飲まないやつなのだろう。
僕も普段はそんなに飲まないが、ああいう酒の席ではそれなりにみんなのペースに合わせて飲むくらいはできる。女将さんは瓶ビールは2本までと言っていたが、関係なく出してきた。僕にしては結構飲んだ。結局1人3、4本ずつくらいは飲んだと思う。ビールだけだったら大丈夫だったのだが、冷酒が入ったので二日酔いというほどではないが、少し体が重い。
篠山さんの息子の話から僕の秘密の暴露の後、酔いも回って色んな話を聞いた。酒の席のくだらない話で、大島さんの武勇伝や三輪さんの失敗談など、内容はあまり覚えていない。その間に篠山さんから電話があったことに気づかなかった。朝のアラームで携帯を確認した時に着信があったことにようやく気がついた。留守電には、『手塚由衣の件だが、やはり生きていたらしい。さっき自宅に帰ってきたと百合子さんから電話があった。このことは長谷にも連絡する。聞いたら連絡くれ。一応、お前に伝えておくが』時間が切れてピーという警告音が鳴って伝言は途中で切れていた。留守電の時刻は23:02だった。折り返し電話するには、もう日が変わってしまっているし、あとで出勤してこら謝ることにした。
篠山さんはLINEを使ってくれない。アプリは入れたのだが、使い方を何度説明しても理解してくれず、今時留守電に入れてくる。朝会って謝るのもいいが、こういう時念のため先にLINEで謝りのメッセージを入れたいのだが、どうせ送ったところで見てはくれないだろう。それよりも少し早めに家を出て、篠山さんよりも先に出勤していることが礼儀だ。
急いでシャワーを浴びて、その音で起きてくれないかなと思っていたが、小暮は玄関で鼾をかいていた。肩を叩いて起こすと、彼は昨日のことを全く覚えていなく、なぜ自分が僕の家にいるのかわかっていなかった。小暮にもシャワーを浴びさせ、篠山さんが出勤する前に着いていたいので、朝食も食べずに家を出た。
中央署には、いつもより30分前に着いた。小暮は、もう少し寝れたのに、とボヤいていた。小暮が気持ちが悪いと言うのでトイレに寄ると、大島さんが歯を磨いていた。僕が挨拶をすると、大島さんは歯を磨いたまま、おう、と返事をした。小暮は、その大島さんを素通りし、『大』の個室に駆け込んだ。
「アイツ《はひふ》、二日酔いかふふはひょいは?」
泡だらけの口で、篭った声で言った。
「1杯しか飲んでないんですけどね」
そう返事したと同時に、個室から戻す音が聞こえてくる。大島さんは顰め面をして口の泡を吐いた。特にそれに触れず、うがいをしてからトイレを出たので、僕も小暮を置いて大島さんについていった。
早いですね、と言おうとしたが、多分大島さんはあのあとそのまま刑事課に泊まったのだろう。
「聞いたか?シノさんに」
「手塚さんの件ですか?」
「やっぱり生きてたみてえだな。長谷にも連絡入れたって言ってたから、井口はどうなるんだろうな」
「結局、井口は誰を殺したんでしょうか?」
「長谷からも連絡あったんだが、井口自体は殺したのは嫁さんだと思い込んでるらしい。頭おかしくなってんじゃねえのか」
犯行を犯した人間が誰を殺したかわからなくなってしまうことは、よくあることではないが、そう珍しいことではない。一時的に記憶が飛んでしまうことがあるそうだ。思い出したくないことを自分自身の記憶の中に封印してしまったり、自分に都合よく記憶を
井口に声をかけた時も、操作の目を晒そうと聞いてもいないのに常田のことをベラベラ喋り始めたところを思い返すと、あの時点で精神状態は平常ではなかったのかもしれない。
刑事課事務室の電話から南署に、今日も中央署に直接出勤していることを伝え、暫く事務仕事をした。
出勤してからかなりの時間が経っているが、小暮が現れる様子がない。そのまま生活安全課の方へ行ったのかと思っていたら、三輪さんが刑事課にやってきた。
「小暮くん、まだ来てないんだけど、知ってる?」
「あ、小暮さんならトイレで吐いてますよ」
僕が答えると、真っ蒼い顔をした小暮がフラフラとした足取りで刑事課に来た。
「すみません。トイレで吐いてました」
「昨日、そんなに飲んだっけ?」
「僕、お酒ダメなんです」
「だったら飲まなきゃよかったのに。医務室で休んできなよ」
「だ、大丈夫です、だと思います」
言動もフラフラだ。大島さんは小暮を蔑む目で見てから、バンッと背中を叩く。そんなに強くは叩いていないだろうが、足取りが覚束ない小暮はその場でへたり込んだ。
「情けねえな。男はな、飲んで吐いて、また飲んで、酒に強くなるんだよ!」
「大島さん、それパワハラです」
三輪さんが間髪入れずに突っ込む。
「最近の奴らは、パワハラだセクハラだって煩えんだよ。なんだ、そのハラスメントって。なんでもハラつけりゃあ逃げられると思っていやがる」
「それも、パワハラですねー」
また突っ込む三輪さんは少々面白がっているようにも見える。刑事課職員も含めてまわりの人たちで笑っていると、小暮だけ真っ蒼い顔をして、すみませんトイレ行ってきます、と口を押さえて小走りで廊下に出ていった。
刑事課の外が騒がしかった。慌てて会議室に走っている者もいる。中央署の刑事たちにも井口が連れていた死体が由衣さんでないことが伝わっているのだろう。大勢の刑事が濁流のように会議室に向かっている。その中には馬場課長の姿もあった。小暮は俯きながら早歩きしているので、その中に紛れたところ、運悪く馬場課長にぶつかった。
「どこ見て歩いてる!こっちは生安課と違って忙しんだぞ!」
馬場課長は小暮に怒鳴った。
「あっちにも、最強のパワハラ上司がいますね」
「あんなのと一緒にするな」
三輪さんの軽口に、大島さんが抗弁する。
「そう言えば、篠山さん、遅いですね」
僕はさっきから気になっていたことを口にした。
「手塚さんの家に行ってから来るみたいなこと言ってたぞ」
僕には連絡はなかった。僕が篠山さんの下についてバディを組むようになり、初めてのことかもしれない。僕ではなく、大島さんに連絡したのは留守電に気づかず、折り返しがないことを怒っているのだろうか。あとで会った時にしっかり謝ろう。
「それよりも、昨日の件。あれ、篠山さんに内緒な」
「昨日の件って?」
「あの、俺がお前のこと聞いたって、喋っちゃったこと。あの人、あんまり怒らねえけど、怒ると怖えから」
大島さんは、僕の秘密のことを言っているのだ。僕も篠山さんに怒られたという記憶はないが、きっと怒らせたら本当に怖い人なんだろうということはわかる。顰め面で昔気質で愛想のない人だから、上からの印象は良くないのだろうが、僕も大島さんも三輪さんも、そういう篠山さんを慕っている。篠山さんの人の良さは、この中央署の刑事課職員にも伝わっているはずだ。長谷さんや、きっと野々村さんも今の立場に関係なく篠山さんのことを慕っていると感じる。この人は絶対に裏切ってはいけない人なんだ。
でも、出来損ないの僕は、篠山さんにはたくさん迷惑かけてきた。これからも迷惑をかける。僕はそんな篠山さんのために、何か役に立ちたい。大島さんたちが言うように、もし僕のことを息子の代わりだと思ってくれているのなら、親孝行をしなければならない。僕も実の父親なんかより、篠山さんの方がずっと親みたいな存在だと感じてきた。2年という短い時間だったが、僕は篠山さんのことを父親以上の存在だと思っている。
篠山さんは、そんなものはいらない、と言うが刑事生活最後に、やっぱり大きな手柄を立てさせてあげたい。それは、どんな手段をとったとしても、大きな手柄という花を持たせて、無事に定年の花道を歩かせてあげたい。
それが、どんな手段でも。
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