新井 規之

第87話 収穫なし

 常田のアパートのインターホンを押したが、やはり出てくる様子はない。たまたま通りかかった小豆色のシャツを着た70代くらいの眼鏡をかけたお婆さんに声をかけた。


「すみません。南署の者ですけど、こちらの常田さんってご存知ですか?」


 お婆さんは、初めキョトンとした目を向けたが、警察の人?と眼鏡を直して答えた。


「そんなに知らないけど、挨拶くらいはするよ。ってアンタたち、本当に警察の人?」


 これは失礼しました、と篠山さんは警察手帳を出して見せた。お婆さんは差し出した警察手帳を受け取ろうと手を出したので、それはちょっと、とやんわり断っていた。お婆さんは警察手帳に顔を近づけたり、顎を引いて遠ざけたりしたが、老眼で焦点が合わないので諦めたらしい。


「初めて見るモンだからね、そんなもん見たって本物かどうかわかんないよ」


 お婆さんは低い声で、まだ疑うような目を向けている。


「ありがとうございます。で、どんな印象の人ですか?」


「ん、普通の人だよ。会えば挨拶してくれるし。あんまり喋ったことはないけど」


 言葉を選んで、あまり多くを語らない。余分なことは言わないようにしているようだ。


「最近見たのって、いつくらいが最後ですかね」


 態とらしく視線を空に向け、そう言えば最近見ないわね、と手を仰ぐ仕草をした。


「ねえ、ねえ、あの指名手配になってる常田さんって、ここの常田さんなの?」


 お婆さんは興味を示したようで、声のトーンが上がった。人は自分とは無関係なことの方が、面白半分で首を突っ込みたがるのだ。だからスキャンダルを載せる週刊誌や芸能ニュースは無くならないし、SNSでの誹謗中傷も拡大していく。SNSでの誹謗中傷は被害者と関係のあるコメントは極僅か。会ったこともない人間が好き放題書きまくる。本当に関係のある者は、自分に火の粉がかからないように触れないでいることの方が多い。

 関係者は身を潜め、無関係な者が自ら飛び込んで撹乱させられる。事件解決が遅れる原因は、よく初動捜査の遅れを指摘されるが、こちらから言わせてもらえば、この雑多な情報の正誤の判断に時間がかかるのだ。

 お婆さんの質問に篠山さんは肯定も否定もせず、話を続けた。


「奥様と娘さんがいるみたいなんですが、今どうしているかわかりますか?」


 ここへ来る車中で常田祐司の妻の実家、大石宅へ電話した。大抵の場合、妻は娘を連れて実家へ潜んでいるだろうと考えたが、呼出音も鳴らなかった。婿が指名手配されたことを知り、電話線を抜いているのだろう。妻の玲香、玲香の両親の携帯にも電話したが、いずれも通話に鳴らなかった。妻の玲香の携帯は1度呼出音が鳴ったがすぐに切れた。知らない電話番号は明らかに拒否している。


「奥さん?あれ、常田さんって離婚してるんじゃないの。ご家族なんて随分の間、見てないわよ」


 戸籍上は妻と娘1人扶養していることになっている。長らく別居しているのか。僕と篠山さんは目を見合わせた。


「あれかねえ。奥さんが子供連れて出てっちゃって、寂しくなっておんなじくらいの子供誘拐しちゃったのかね」


 それは大いにあり得る。だが、彼にかかっている容疑は連続誘拐及び殺人。寂しいだけで人を殺すのは動機としては薄い。


「でも、あの人、殺人なんてするような人には見えないけどね」


 このセリフはよく聞くが、じゃあ殺人するような人というのはどういう人なのか。目つきが悪いとか、行動がおかしい、見た目で凶暴だと判断できる人間は、大抵そんなことはしない。僕が知っている殺人犯というのは、そんな風に見えないと言われる人間の方が圧倒的に多い。


「あの人はゴミをちゃんと分別してるからねぇ。ゴミ収集日の前の晩から出すようなこともしないし」


 どこの町内にもこういう人はいる。頼みもしないのに、清掃やゴミの分別チェックをしたりして、持て余している時間を潰しているのだ。またこういう人が近隣トラブルを起こす。所謂『ゴミ奉行』だ。ゴミ袋の中身を勝手に見られた、夜帰宅すると家の前で待ち伏せしていてルールを守れととやかく言われるなど、『コマ』の黒ファイルにはその類の揉め事が多い。

 他人のゴミ袋を勝手に開けるのは、プライバシー侵害に当たるとして違法になることがあるのだが、こういう人は善意でやっていると心から信じているので、刑事の僕たちを前にして平気で喋る。現に、302の佐藤さんはサランラップの箱に付いている歯を外していないだことの、103の大学生が雑誌を一緒に捨ててあった、それも如何わしい雑誌だったとつらつらと並べ立てた。

 それを注意するのも憚られたのか、篠山さんは適当に頷いてお婆さんの話が止むのを待っていた。


「だいたいゴミの分別もできない人間は、ロクな奴がいないよ」


 それを聞いて、井口の顔が浮かんだ。


「まったく、同じアパートでそういう非常識な人がいるなんて思われたくないじゃない。そういうのを罰するような法律はないの?」


 お婆さんは自分で喋っている最中に盛り上がってしまって、憤怒の表情で仁王立ちで腕を組んだ。家具などの粗大ゴミや家電などの不法投棄なら罰則はあるが、家庭用のゴミの分別くらいだとなかなか罪に問えない。むしろあなたの方が法律に違反していますよ、とは言えない。


「この辺で、犬や猫など小動物の死骸を見たことってありますか?」


 お婆さんが一通り喋り終え一息ついた絶妙なタイミングで、篠山さんが質問を変えた。お婆さんは不思議そうな顔をした。


「なんでぇ?そんなもん見てないよ。最近じゃ野良犬、野良猫なんて見ないからねぇ。なんでそんなこと訊くの?」


「まあ別件で通報がありまして」


「知らないねぇ。なんだか物騒だねぇ」


「他になにか不審な点とか、お気づきのことはありますか?」


「もう、とにかく302の佐藤さんと、103の越野さんに警察の方から言ってちょうだい」


 僕は曖昧に頷いてから、礼を言って立ち去ろうとした。篠山さんもお婆さんに礼を言い踵を返したが、もう1度振り返り、忠告ですけどね、と喋り始めた。


「アパート敷地内のゴミ袋を開けると、住居侵入罪に該当する場合があります。ですので、分別してないゴミ袋を見つけたらゴミの回収員に伝えるくらいにしておいた方がいいですよ。それじゃあ」


 お婆さんはそれを聞いて急におとなしくなった。


 車に乗ると篠山さんは、シートベルトをしながら溜息を吐いた。


「あんまり収穫なかったですね」


「んー、そうだな。でも常田は長いこと別居してたって言ってたなぁ」


「1人になって寂しくての犯行、ってあり得ますかねぇ。というか篠山さん、お婆さんにあんなこと言わなくても」


 ブーブーとポケットで鳴っている携帯を取り出しながら、篠山さんは苦笑いを見せた。


「あれなあ。うちの女房もゴミの分別がどうのこうなって煩い奴が近所にいて悩んでたんだよ。ペットボトルや食器トレーはリサイクル出せとか。だもんで、ちょっと頭きたんだよな」


 篠山さんもそういうところがあるんだ、と感心してしまった。篠山さんもそんなところを僕に見せてしまったことを恥ずかしいと思ったらしく、照れたような誤魔化す顔をしている。もぞもぞと携帯を取り出し、電話に出た。


「ああ、三輪か。どうした?」


 僕はジェスチャーで、運転代わりましょうか、と自分に指を差し、ハンドルを持つ仕草をした。少し訝しげな顔をしたが渋々頷き、篠山さんはシートベルトを外した。僕は助手席側から降り、運転席の方に回ると、篠山さんは電話しながら降りて助手席川に回る。

 また運転のことで注意されるんだろうなぁ、とシートベルトを嵌めると、助手席に回ってきた篠山さんの顔に緊張が張り付いていた。


「とにかく署に戻ろう」


「どうしたんですか?」


 僕はゆっくりと車を出した。


「井口が山梨で捕まった」





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