第86話 SNS

「ちっ!使えねえババアだな」


 利喜人くんは電話を切ったあと、スマホに向かってそう吐き捨てた。柊木さん?相手はわかっていたが、私は声をかけた。こちらの予想に反して利喜人くんは首を振った。


「橋口さんだった。なんかババアはで電話出れないって」


 なんだよお取り込み中って、と投げ捨てるように言うと、私の膝の上の光の姿を見て顔がほころび、甘ったるい声を出した。


「おなかいっぱいになったら、おねむでしゅねぇ〜」


 ひかりはミルクを飲み干して、哺乳瓶を咥えたまま寝てしまった。哺乳瓶を引き抜くと、寝ながらまだ尖らせた口を動かしている。それを見ると私もホッコリしてしまう。このままベビーベッドに寝かせてしまいたいのだが、ちゃんと熟睡するまで抱っこしていないと、すぐに起きてしまう。この時、抱くのを利喜人くんに替わろうとすると、敏感なひかりはすぐ泣いてしまう。利喜人くんもそれがわかっているので、私の膝の上のひかりに手を出したいのをグッと我慢して、上から覗き込んでいるだけしかできない。利喜人くんは、もどかしそうに手を開いたり閉じたり、前に出したりと落ち着かない。そして私に悔しそうな目を向ける。唯一、私が勝てること、私じゃなければならないことだ。ひかりは、まだ母親としての私の温もりを必要としてくれている。

 私はひかりの体をそっと起こし、縦に抱いて背中を摩ってゲップをさせた。寝てしまうとハッキリ聞こえるようなゲップが出ないので、聞き耳を立てる。何度か背中を優しく叩くと、みずきのお腹がグルグルっと震えて、口からプスッと音が漏れた。私はこの瞬間が、とても好きだ。

 だから、やっぱりこの3人の家庭を守らなければならないのだ。みずきもひかりも両方なんて無理だ。


 暫く体を揺らしていると、ひかりは寝息を立て始めた。小さい鼻がピーピー鳴っている。待ちきれなかった利喜人くんは堪らず手を出してきた。私の膝からひかりを抱き上げ、ベビーベッドに連れて行った。1秒でも多くひかりに触れていたいのだ。私はこの生活を、利喜人くんから奪うことはできない。


 赤ちゃんの背中は熱い。特に寝入り時は急に体温が上昇する。さっきまでひかりが乗っていた腕、お腹と太腿の辺りが寒く感じた。利喜人くんは、まだベビーベッドに寝かさないでひかりを抱いていた。


 朝掃除機もかけたし、洗濯物も干した。とりあえずくつろぎの一時ひととき。利喜人くんの収入が安定しているので、たまにガソリンスタンドのバイトを手伝う程度で仕事面は楽になったが、専業主婦というのは決して楽ではない。家事と育児であっという間に1日が終えてしまう。自分の時間などほんの少しだ。だからやっと作れたほんの少し時間を有効に使わなければならないのに、これといって趣味のない私は、ちょっとの間にスマホを開いてしまう。見なければいいのにとわかっているが、つい見てしまったネットの画面には、想像以上の誹謗中傷が並べられていた。

 警察の野々村という人に言われて、電話線は外してあるし、携帯は知らない番号からのものは着信拒否を設定している。それでもネットというものは怖いもので、匿名をいいことに好き放題書かれている。悪戯電話をしてくる人間の方が、電話代と自分の声を使っているので、よっぽどフェアだ。

 ネットの検索ページのトピックスの見出しは、ほとんどが私たちの事件。1つだけ有名芸能人が大麻で逮捕されたニュースが載っていたが、明らかに私たちの事件の方が目立っている。虐待している子供を誘拐された夫婦の事件なんて、マスコミや世間の格好のネタだ。1つ1つのニュースのコメント欄に色んなツイートがなされている。


『こういう毒親は、虐待して早く見つけてほしいって、無事帰ってきて暫くしたら、また虐待するような気がします』


『本当に帰ってきてほしいのかな?あの義父の男、明らかに犯人挑発してた』


『フツー誘拐事件っていったら、犯人が警察に知らせるなとか言わない?これじゃ殺されちゃうよ。想像力なさ過ぎ』


『虐待してて、本当は殺しちゃったんじゃないの。警察使って、私たちの血税削って、ホント迷惑』


『っていうか犯人は親で、もう殺しちゃってるんじゃね』


『チャミュエル、ネ申。毒親に罰を与える』


 こういうことは、ある程度は想像していた。これは知らない人が書いたものだし、面と向かって言えないような気の小さい人たちばかりの意見だし、まともには受け止めていないから怒りや悲しみなどあまり感じない。でも小さな傷を何度も何度も切りつけられているようで、私の心を蝕んでいく。見なければ見ないで、今日は何を書かれているのかと気になってしまい、結局見てしまう。

 それに情報はいつだってSNSの方が早い。若い人たちみたいに巧みにSNSを活用しているわけじゃないが、天気予報や在来線の運休なんかホームページで確認するよりも、今現在の状況がリアルタイムで発信されているSNSは、ガセネタもあるが迅速だ。ライブの中止や延期なんかファンのツイートを見ればすぐ分かる。テレビなんかより早い。

 それよりも遅いのが人からの情報だ。信憑性の高い情報があったら連絡をくれると野々村は言っていたが、あれから一向に連絡はない。こちらから連絡したとしても、情報の精査をしていると言われるに決まっている。私たちに心労をかけないためと言っていた。でも情報がないと不安が大きくなるばかりだ。だから、みずきの情報はSNSやテレビからの情報に頼るしかない。


 中学生の頃のあの3人を思い出す。みんながみんな、私を仲間外れにすることで、調和をとっている。私の陰口を叩くことで、自らの罪から逃れている。世間の人たちは、そうやって悪者を作って、自分のことは棚に上げて、自らの正義感を作り出すのだ。そうやって折り合いをつける。私はみずきを自らの手で捨てることができないから、誘拐した犯人のせいにして、自らの罪に目を瞑る。私の罪は、誘拐される前から、既にみずきのことを捨てていることだ。それに気がついているだけ、世の中の人よりは自分のことをまともに思えた。

 まともじゃない人たちの、まともじゃないコメントが増えていく。


『南無阿弥陀仏』


 さすがにお経はゾッとする。どういう神経してたら、こういうコメントを入れられるのだろうか。

 でも私は発見した。私は私で、こういうまともじゃない人たちのコメントを見て、私の方がまともなのかもしれないと安心できることに気づいた。さて、次はどんなコメントだろう。


『なんか今、笹原脩三が捕まったらしい』


『↑誰それ?』


『テニスの?』


『↑それ松岡だし』


『次期 大臣の人』


『しょーしか問題の人だぁ』


『もんぶかがくしょーの人?』


『っていうか、たしか柊木奈津子の男だよねー』


『で、何しちゃったの?』


『ワイロだよ、ワイロ系のダメなやつだ』


『↑なんとか学園みたいなやつ?』


『世の中、金ですよ。いーこと言っても金。裏金』


『柊木奈津子の若いツバメ、古っw』


『それじゃあ、今誘拐された子の親、柊木奈津子と関係があるんじゃなかったっけ?』


『あいつらも金貰ってんじゃね』


『ややこしー』


 本当だ。なんだか、ややこしいことになってきた。さっき利喜人くんが柊木奈津子に電話して、と言われたのは、このことじゃないか。私は携帯電話から顔を上げて、利喜人くんに見せようとすると、丁度ひかりをベッドに下ろしているところだった。腰を屈めて、ひかりをそっとベッドに移し、顔を上げたところテレビの画面に釘付けになっていた。


『たった今入ったニュースです。文部科学省の若手官僚、笹原脩三氏が逮捕されました。笹原氏は少子化問題に取り組み、打開策として小中高一貫の教育施設の建設に携わり、関係者から多額の献金を受け取っていた疑いが持たれています。詳しいことがわかり次第お伝えしたいと思います』


 あー、利喜人くんは呆けた声を漏らしていた。


『また、笹原氏と交流のある教育ジャーナリストの柊木奈津子氏も関与しているとみて調べを急いでいます。現在、柊木奈津子氏の事務所には多くの報道関係者が詰めかけております』


 テレビの画面ではシャッターの光がたくさん瞬き、事務所前の通路で報道陣にもみくちゃにされている柊木奈津子と橋口さんの姿が映っていた。どう見てもだ。当初は私たちが彼女らを利用しようとしていたが、頭のいい彼女らに敵うはずがない。結局は私たちが利用されようとしていたことはわかっていた。彼女らが介入してきたから面倒なことになってしまったのだ。そして、また更に面倒なことになりそうだ。

 いつも綺麗にしている柊木奈津子の髪は乱れ顔にへばりつき、怪談話に出てくる幽霊のような顔をしていた。事務所が入っているビルの通路はあんなに暗かっただろうか。フラッシュとフラッシュの合間、暗くなると顔の陰影が、いつもは若く見える彼女の年齢を浮き上がらせている。橋口さんは体を張って必死に彼女を守ろうとしているが、橋口さんの小さい体ではなんの役にも立っていない。突き飛ばされて時折画面からいなくなる。

 ボコボコと鈍い音が聞こえる。マイクが彼女たちの顔や頭にぶつかっている音だ。橋口さんも必死だが、報道陣も必死だ。我先にと体を捻り込ませ、誰よりも前に出ようとしている。大人気おとなげない人たちの群れ。みんな汗でびしょびしょで、何かお祭りのようだ。なんでこんなことを必死にしているのだろう。みんなつまらない日常に、お祭りみたいな催し事がほしいのだろう。きっとこのは私たちの元にもやってくる。


「七海さん、どうしよう。絶対、俺らのところにも来るよね」


 目の前に狼狽えている情けない姿の利喜人くん。私は、ホテルかどこかで身を潜めていた方がいいと思ったが、言わない。私が決めたことはいつも間違いで、またどうにかなってしまった時に責任をとれない。だから自分の意見は言わない。それに私たちマンションの前には交代で刑事の見張りが立っている。報道陣が押し寄せたところで守ってもらえるだろう。

 柊木奈津子たちに関わらなければ、こんな利喜人くんを見ないでも済んだのに。でも私たちは関わってしまった。


 インターホンが鳴り、モニターを覗くと見張りの刑事だった。


「開けてください。野々村から連絡がありました。ここを出ましょう」


 見張りの刑事は無表情で言う。


「こちらにも報道陣が来てるんですか?」


「いいえ。みずきさんが見つかりました。今から山梨に移動します」



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