関 七海

第85話 観葉植物

 2日前の記者会見からテレビの情報番組では、連日みずきのことが取り上げられていた。公開捜査で多くの情報が集まった。柊木奈津子から伝えられた、連続して行方不明の子供達が共通して連絡を取っていた『チャミュエル』のことも公開された。以前、その人物の正体は明らかになってはいない。だが、数多くの目撃情報で、常田祐司という男に容疑がかかり、現在はその男の行方を追っている。指名手配され、顔写真まで公開されていた。警察はこの男が『チャミュエル』だとほぼ断定して捜査を進めているらしい。

 常田祐司という男がみずきと一緒にいたという目撃情報、逃走中の着替えなどを買ったと見られる店舗ではクレジットカードを使いサインが本人のものだったこと。2人で寄った飲食店やホテルの名前も公表された。清水区のビジネスホテルでも目撃情報、そしてクレジットカードのサインが確認され、その経路を辿ると東、もしくは北東方面へ移動中と考えられるが、その後の足取りは掴めていないという。


 みずきがここまで注目されて、言わばと化してしまった。私たちのせいだ。私たちが柊木奈津子に話を持ちかけ、大事おおごとになってしまった。本来、娘を誘拐された親なら、娘の安否を気にして、夜も眠れなく、食事も喉を通らずやつれてしまったりするのだろう。

 私も夜眠れなくて、食事も喉を通らない。だけど理由は違う。このままだと。みずきが無事に保護されれば、私たちの元でまた4人の生活が始まる。またみずきに辛い思いをさせてしまうのだ。戻ってきたみずきに対して、利喜人くんがどんな仕打ちをするのかと思うと、私は食事をしていても砂利を食べているようで箸が進まない。ご飯なんか食べたくないが、何もわからないひかりは、お腹が空いたら泣く。時間が来れば離乳食を与えなければならない。

 利喜人くんは、みずきが誘拐されたことで会社を休んでいる。だから私たちの食事も用意しなければならない。私はひかりに食事を与えるのが精一杯で、とても自分が食べる気になれない。目の前の自分の作った料理が、御供物のように冷めていく。


「マズいな」


 最初、料理の味のことを言われたと思ったが、利喜人くんはテレビを見ながら、私が作った豚のソテーをバクバク食べていた。、利喜人くんも同じことを考えて、マズいと言ったのだろう。離乳食を掻き混ぜ、一口大をスプーンに乗せひかりの口に運び、利喜人くんの方を見ていると、ひかりはそのスプーンを小さな手で払った。スプーンの上の白身魚のすり身とニンジンとジャガイモを小さく切って煮込んだ離乳食がテーブルの上に落ちた。今までは口に運ばれてきたものは何でも食べていたのに、最近は物の好き嫌いが出てきた。ニンジンが入っていると嫌がることが多い。ちゃんとニンジンも食べなきゃダメよ、と言ってまた食べさせようとすると、ヤッ、と言って小さい手で口を塞ぐ。ニンジンを避けてもう1度口に運んでも、もうそのオレンジのものが見えている時点で受け付けなくなっている。ニンジンが苦手なのは利喜人くんと一緒だ。

 テーブルの上の溢した離乳食をティッシュで拭き取り、キッチンに行き、粉ミルクでミルクを作る。もうそろそろミルクはやめたいのに、もう離乳食を食べてくれないので仕方なくミルクを与える。


「また、食べないんだ」


「そうなの。ちゃんとニンジンも食べさせたいんだけどね」


「だったらニンジン入れなきゃいいのに」


「そうしたら、利喜人くんみたいに大人になっても食べれなくなったら困るでしょ」


 会社を休んで家にいるだけの利喜人くんに少し腹が立ち、角が立つような言い方になってしまった。利喜人くんに出す皿にはニンジンは乗せていない。


「べつにニンジン食べれなくても、困ったことないよ」


 利喜人くんは食べ終わった皿をシンクに運び、皿を水に浸けた。水に浸けてくれないと、後で食器洗いをする時に大変なので、それだけはお願いしてある。ごく稀に食器洗いを手伝ってくれるが、基本は苦手なようだ。利喜人くんは油が残ってぬるぬるしていても平気なので、もう1度洗い直さなければならなくなるし、せっかく洗ってくれたものを目の前で洗い直すのも嫌味に取られるので、やらなくていいよ、と言ってある。両親に甘やかされて育っていたんだなあ、と思わざるを得ない。

 ただ、その温く育ってきた環境で私たちに優しくできる人なんだな、と無理やり納得している。私に対して怒鳴ることはないが、我儘なところは多い。食べ物の好き嫌いは、特にそう感じる。まだ赤ちゃんのひかりにも同じようなところがあるので、私はムキになって、どうにかニンジンを食べさせようとしてしまう。なにを食べ物の好き嫌いくらいで、と思われるかもしれないが、あの我儘さは日頃の優しさの中で一際目立ってしまうのだ。


 ある日のこと、私はホームセンターで買ってきた観葉植物に水をあげていた。所々が枯れてしまっているのに気づき、枯れた部分をハサミで切って処分していた。


「枯れちゃったの?」


「そう。最近ひかりにも手がかかるし、水あげるの忘れちゃうのよね」


 それは言い訳だった。家のものを買いにホームセンターに寄ると、家に緑があった方がいいかなと、つい買ってしまうが、元々無精な私が植物を育てるなんて向いてない人間なのだ。やるのは最初だけで、ホームセンターで買った安いものだしと、すぐに面倒になってしまう。はっ、と気づいた時は枯れている時だ。


「どうせ枯れちゃうなら、買わなきゃよかったのに」


 無表情でそう言う利喜人くんに、責められてる感じがした。多分利喜人くんは、そんなに大変なら買わない方がいいんじゃないか、と私を庇うつもりで言ったのだろうが、その一言がもの凄く冷たく感じた。優しい人間というのは動物や植物にも優しいという私の勝手な思い込みなのだが、こういうところを見てしまうと、本質は冷たい人なんじゃないか、優しくしてくれるのは無理してるんじゃないかと思ってしまう。

 それに、みずきのことをと言われている気がした。私が枯れ葉を処分しているところ、利喜人くんは家庭用ゴミ袋を広げて、「もう処分しちゃいなよ」と笑顔で言われた。利喜人くんは、もしかしたらこの時からみずきのことを考えていたのかもしれない。


 テレビでは司会者が、みずきちゃんの無事を願います、と何度も同じことを言っている。まだ情報を募っていること、そして注意喚起として捜査の混乱を招く悪戯はやめてほしいと訴えていた。


「あ、柊木さん?」


 利喜人くんはスマホで柊木奈津子に電話をかけていた。


「なんか、このまま見つかっちゃいそうなんですけど。また煽るために記者会見やりません?」


 ゾッとした。また記者会見をやって、犯人を煽ろうとしているのだ。それを柊木奈津子に話している。そんな話を受ける柊木奈津子にもゾッとした。だって、この人は教育ジャーナリストという肩書がある。その人がこの世の中から虐待を根絶させるために、私たちの虐待をコマーシャルに教育制度を変えようというのだ。みずきの命を犠牲にして、なにが教育ジャーナリストだ、なにが教育制度の改革だ。


「やんないっすか?でも、このまま無事帰ってきたら、俺たちに同情の目が向いて、教育改革どころじゃないんじゃないですか。ちゃんとインパクトのある悲劇で終わらないと」


 恐ろしい。人の命をなんとも思わない人間が、少なくとも私の前に2人いる。枯れた観葉植物を簡単に捨てるように。それに対して、何もできない私自身も恐ろしい。1人の子供の命を見て見ぬふりをしていながら、もう1人の子供にミルクを与えている。お腹が満たされて、背中が汗ばんできているのを左腕で感じる。私はこの子を抱いている資格などあるのだろうか。

 だが、もしみずきが戻ってきたら、私はこの子と同じように愛せるのだろうか。みずきとひかりを同時に愛することは、私1人では無理だ。体が2つないと無理。ひかりが可愛い、利喜人くんとひかりをあやしている時間が幸せを私に与えてくれる。その何処か片隅に、みずきの存在が引っかかっている。丁度良い温度の温泉に浸かりながら、アキレス腱をゆっくり切られていくような感覚。私はみずきの不幸を感じながら、幸せを噛み締めていかなければならない。それが私には、もう耐えられない。


 指名手配中の常田という男の写真が画面を映された。ここ3年間で静岡と神奈川、山梨と3県に渡る連続幼女誘拐事件の容疑がかかっている男だ。既に静岡では山本伊織ちゃんという小学生が遺体となって発見されている。山本伊織ちゃん殺害の容疑と、他8件も殺害容疑がかかっているのだそうだ。また改造銃を所持し銃刀法違反の疑いもあるらしい。テレビの出演者は、この男がどんなに恐ろしい人間なのか、神妙な顔で話し、知ったようなことを偉そうに言っているが、私の耳には入ってこない。

 私にはこの男が優しい人間に見えた。運転免許証更新時に撮られた写真だろうが、無表情な顔だったが優しい目をしている。そして寂しそうに見えた。

 ショッピングモールの洋服屋では、みずきの着替えと思われるワンピースや靴も買ってくれているではないか。ここ数年、私はみずきに服なんて買ってあげていない。サイズが合っていなかったが、気づかないフリをしていた。この常田という男は、自分の逃走するための服だけでなく、みずきの分も買ってくれている。もしかしたら彼がみずきを助けてくれるのではないか、もしかしたら自分の子供として育ててくれるのではないかとさえ思ってしまう。

 無事に逃げてほしい、私はテレビに映る常田という男の写真に向かって祈ることしかできなかった。


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