第84話 記憶の中の記憶

 由衣が乗った男の車が去った後、その女はそこから生えてきたように佇んでいた。その女は視線を上げ、オレと目が合うと足早に立ち去ろうとした。名前を呼ぼうかと思ったが、非常識なすせに近所迷惑を気にして、オレは携帯電話をかけた。

 女は足を止め、バックを弄り、携帯電話を取り出した。


「なんだよ。久しぶりじゃん」


 相手は無言だった。


「家、上がってけよ」


 オレが言うと、電話はブツッと切れ、無視されるかと思ったが、女は踵を返しマンションのエントランスへ入っていった。

 インターホンが鳴り、オレは急いで部屋に戻り、エントランスのロックを解除した。

 暫くして、部屋のインターホンが鳴り、ドアを開けると女が立っていた。


「まあ、入れよ」


 女は少し考えるように首を傾げたが、オレは有無も言わさず肩を掴んで部屋に引き入れようとした。女がそれを拒んだ。


「ちょっと、やめてよ」


 やっと口を開いた。


「なんだよ。うちに来ておいて。オレに用があったんだろ」


 この雰囲気だと会いたくて来たわけではないことくらい、獣の脳味噌と言われているオレでもわかる。彼女は渋々といった態度で玄関に入り、オレの部屋の状態を見て目を丸くした。


「なに?これ」


「ああ、ちょっと今、散らかってる。掃除してた途中なんだよ」


 バレバレの嘘を吐いてしまった。少し怪訝な視線を向けたが、ゆっくり靴を脱が始めた。彼女は黒いハイソックスに子供みたいに小さいローファーを履いていた。髪はツインテール、白いTシャツにサスペンダーの付いた黒いショートパンツ姿。背は小さいが肉付きがよく、弾力のある胸元の形がハッキリと浮き上がっていた。靴を脱いで、部屋に上がる後ろ姿を暫く眺めた。


「やっぱり、帰る」


 リビングの入り口まで歩いて、ゴミ袋の山を見て踵を返した。オレは壁に手をつけて通路を塞いだ。


「なんか話があったんだろ」


「べつに」


 彼女は帰ろうとするのを諦めて、汚いリビングに入っていった。彼女はリビングをぐるりと見渡した。足の踏み場のないゴミ袋だらけの部屋の中で、空いているスペースといえば、さっきオレが座って離婚届を書いた椅子くらいだ。彼女は、そこにちょこんと座った。元々小さい体を更に小さくして椅子の上に乗っていた。それて、また部屋を見回す。


「さっきの、今の奥さん?」


「まあ、だね」


「じゃあ、別れちゃったの?」


「ああ。やっと別れられた」


 彼女はその返事に興味がないのか、ふーん、の一言で片付けた。

 このパターンだと態々訊かなくで、わかる。どうせ別れ話だ。電話をしてもなかなか出ない、暫く音信不通、突然会いに来る、そして別れ話のパターン。みんな割と別れる時は直接話したいとか律儀なことを言ってきやがる。それに女房と別れろ、と言ってくるくせに、本当に別れると引いたりする。前の女房の時に由衣と浮気をしていて、バレて離婚したのだが、結婚したって長続きなんてしやしない。それでも由衣とは長く続いた方だ。


「どうしちゃったの?これ。片付けてあげようか」


 そう言って席を立ち、ゴミ袋を纏め始めた。


「これ一応、車に積んで、ゴミ処理場に直接持ってったら」


 ゴミを集める彼女の腕を取って、体を引き寄せた。さっき靴を脱ぐ姿を後ろから眺めていて、オレはムラムラは極限まで達していた。彼女はオレの腕を振り解こうともがいていた。こんな小さな女のか弱い力じゃ、オレの力には敵わない。それでも必死に抵抗してきた。彼女の後頭部に手を回し、唇を近づけたが、彼女は自分とオレの顔の間に腕を捻じ込み、顔はそっぽを向いてそれを阻止した。


「ちょっと待って」


 オレは必死で唇を尖らせて、口をつけようとした。多分、すごいアホみたいな顔になっていたと思うが、そんなこと気にしない。これが最後になるかもしれない。もしかしたら抱いてしまえば、まだこの関係を引き延ばせるかもしれない。


「もうやめて。ちゃんと別れようと思って来たの!」


「そんなのわかってるよ、いいだろ」


 由衣といい、この女といい、金が無いことを知ると、どんどんオレから離れていこうとする。いつもなら、こんな離れていく女を追うような真似はしないのに、さっきの離婚届の件もあってオレはムキになっていた。それにこのところ金の工面に追われて女遊びをしてなかった。もうムラムラの絶頂だ。どんな手段を使ってもりたい。別れ話なんか、後でちゃんと聞いてやる。これが最後でいいから、つべこべ言わずに犯らせろ!オレのこと好きとか、もう嫌いになったとか、そんなんどうでもいいから、とにかく犯らせろ!頼む!頼むから!!

 オレは心の中でそう叫んでいるのか、もしかしたら実際に口から出ていたのかわからないが、この状況なのに、やたらと興奮していた。アホみたいに勃起っていた。

 オレは周りが見えなくなっていて、ゴミ袋を踏んでしまい足を取られて、右足が滑った拍子に彼女は体をくるりと半回転させ、オレから逃れた。これから寝技に持ち込もうとしているのに、なんという身のこなし。相手にとって不足はない。なんとしてでも捻じ伏せてやる。

 彼女は泣きそうになりながら、自分の身を守るために、さっきまで座っていた椅子を持ち上げ、自分の前に構えた。


 椅子?


「そういう自分勝手なところが嫌なの!お願いだから、わかって」


 彼女は椅子を持って後退りしていた。彼女の小さな体では、胸の高さまで持ち上げるのが精一杯のようだ。足なんか内股になって、生まれたてのヒヨコみたいに震えていた。


「どこが自分勝手なんだよ」


「いつも自分の都合でしょ。会いたい時間とかに会えないし。それに、奥さんいる人じゃ、やっぱり続けられないよ」


「だから、別れたんだから、もう大丈夫じゃん」


「そうやって勝手に決めるでしょ。それに年も離れ過ぎてるし。この間、上司に言われたの。取引先の人と怪しまれるような深い付き合いは控えるようにって。食事しただけって言い訳したけど、そういうのでこじれて会社の取引に影響が出ると困るって。会社にだって井口さんと付き合ってるの、もうバレてるよ」


「いいじゃん、バレれば。もう離婚したんだし、バレたって平気だろ。な、結婚しよう」


 彼女の顔色が変わった。震えてはいるが、目付きが鋭くなった。どうやら怒っているようだ。


「よく、平気でそんなこと言えるね。もう無理よ」


「なんだよ。新しい男でもできたか?」


 あれ?このセリフ、さっきも同じようなこと言ったなぁ。これで彼女な、ふふふ、なんて笑ったらデジャヴだ。彼女の鋭かった目が、ふっと緩んだ。


「そうだったら、なんなの?」


 その一言で萎えた。さっきまでいきり立っていたのに子供の奴みたいに、急に萎えた。その股間に集中していた血が頭まで昇ってくるのを感じた。どいつもこいつも。1日で同じパターンで振られるのは堪える。由衣との離婚届にサインをして、ポッカリ開いてしまった胸の穴を埋めるのは怒りしかなかった。

 怒りは、オレから離れていく由衣に対してか、その男に対してか、それともそうなってしまう原因を作ったオレに対してなのか。どこへもぶつけられなかった怒りが、今この目の前の女に向けられる。

 オレは彼女が構えていた椅子を片手で振り払い、右手で彼女のサスペンダーを掴み、左手で彼女の右太腿をすくいあげ、そのまま後ろに倒した。オレ自身も足が絡れ、彼女の顎の辺りにオレの肩が乗った。ベコンッと鈍い音がした。ゴミ袋の上だったが、彼女の下にあったゴミ袋になにか硬いものが入っていたのか、彼女の首は少し変な向きに傾いた。既に意識を失っていたのだろうが、オレは彼女の頭を持ち上げ、何度もそのゴミ袋の中にある硬い何かに、何度も何度も彼女の頭を打ち付けた。我を忘れていた。彼女の口から透明の液体が流れていた。だらんと力を失った小さい体をゴミ袋の山に放り投げ、オレはチー鱈を食いながらビールを飲んだ。

 暫くしてゴミ袋の上を見ると、頭が血塗れで顔が変色した女は、それが由衣なのか、取引先の斎藤遥香さいとうはるかかなのか、どっちかわからなくなった。ビールの味も感じなかった。オレはキッチンのシンクに残ったビールを捨てた。




「斎藤遥香さんです」


 オレはハッキリ答えたつもりだったが、声が裏返ってしまい、かすれてしまい、最初のと最後のしか発音できなかった。


「なんだって?!」


 アキヤマが訊き返してきたので、もう1度答えた。


「オレが殺したのは斎藤遥香さんです。取引先のサンヨーカンパニーの社員の、斎藤遥香さんです」


 取調室にいるオレ以外の3人が息を飲むのがわかった。


「ちょっと待て。もう1回、いいか」


 アキヤマの催促に素直に答えた。若い刑事はまたパソコンを打ち出し、長谷は携帯を出し、サンヨーカンパニーの斎藤遥香さんを調べて、と電話口の相手に指図していた。アキヤマは席を立ち、取調室の扉を開けて、外にいる誰かにオレの供述を伝えていた。

 目の前の3人がなぜか遠くに見えた。輪郭がぼやけて、ハッキリしない。オレはその3人の動きをぼうっと眺めていた。

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