第83話 死体の女
静まりかえった取調室。
目の前のアキヤマも、横に立っている長谷も、動かない。長谷はオレを静かに見下ろし、アキヤマも真顔で、もうヘラヘラしていない。オレも口を開いたまま動けなくなった。動いているのはパソコンの前の若い刑事だけだ。
暫くして、若い刑事のキーボードを打つカタカタという音も止んだ。パンッと最後のエンターキーを打って腕を下ろした。偶然、そのパンッという音のタイミングで1匹のセミがジワジワと鳴き出すと、他のセミまで釣られてシャンシャンと鳴き出した。誰が1番長く鳴けるか競うようにジワジワと増えていく。窓が閉まっているので、最初は小さかった泣き声は、大量のセミの泣き声で、窓が開いているのかと錯覚するほど大きくなっていった。鳴き方の違う色んな種類の鳴き声が混ざり合い、1匹のデカいセミの鳴き声となって、最後に耳鳴りのように聞こえた。
それを想像すると寒気がした。巨大なセミがオレに罰を与えようとしているのか。取調室の中もアキヤマが室温を下げさせたせいで冷え切っている。寒い。寒いのに汗が頬を伝う。
どういうことだ。由衣が生きてるって。たしかにあの日、うちに来た。そして口論になった。投げ飛ばした記憶がある。記憶力が悪くたって、この腕が
女房の浮気に気が動転している自分がいた。散々自分が浮気してきて、そのくらいは男の甲斐性たがら仕方ないじゃないか、と軽く考えていたのに、女房の浮気を聞かされた途端、オレとしたことが嫉妬していることに気づかされた。なにを今更、と言われるかもしれないが
4日前のことを思い返してみた。由衣は離婚届にサインしろと言ってきた。オレは口論の末にサインした。部屋が汚いだことの、自分勝手だことの言って、面倒だからサインした。そこまではハッキリと覚えている。アイツがハンコが無けりゃ血判押せなんて言いやがるから、オレはキレて殴りかかろうとした。そしたらアイツ、それをサラッと避けて、テーブルの上にあったオレの鞄から財布を抜き出した。財布の中を覗いて、由衣はハァッと溜息を吐いた。
「これで全部?どうせ、前の奥さんたちにも養育費払えてないんでしょ。アタシ、養育費とか言わないから心配しないで」
銀行から下ろしたばかりの1万と数千円を由衣に抜き取られた。
「じゃあこれは、慰謝料ってことで」
由衣は笑顔で札をヒラヒラとさせながら、玄関で靴を履いていた。あまりの
「お前、そんな靴、持ってたか?」
そんなの関係ないでしょ、と怒鳴られるかと思ったが、こちらをチラッと見ただけで、突っ掛かってこなかった。よく見ると服装の趣向が変わっている気がする。ファッションブランドのことはよく知らないが、生地がいかにも高級そうで、全身黒で統一している。以前はもっとカジュアルだったはずだ。体のラインが出るようなワンピースで、こんな格好をする由衣を見たことがない。
「なんだ。彼氏でもできたのか」
由衣は意味あり気に、ふふふ、と笑った。
「アナタも部屋くらい掃除しないと、新しいパートナーできないよ」
何がスイッチだったかわからないが、由衣は機嫌を良くして出ていった。バタンと閉まるドアを呆然と眺めた。
由衣は帰った。ちゃんと自分の足で出ていった。そうだ、オレは殺してない。由衣を殺してない。
「じゃあ、オレは釈放されるんですね」
オレは顔を上げて、アキヤマに言った。アキヤマは無言だった。横に立っている長谷を見上げた。長谷も黙って見つめ返してくるだけ。
「だって、オレ、由衣を殺してないないんだろ」
アキヤマは歯の間から、シーッ、と息を吸って、居心地が悪そうに姿勢を変え、尻の位置を直して言った。
「まだ惚ける気か?」
「殺してないんだよ。アイツはちゃんと帰った」
思い出した。アイツが出ていったドアを暫く眺めた後、ドアを開けマンションの共有通路に出た。5階から階下を見下ろすと、丁度エントランスから由衣が出てきたところだった。車道にハザードを焚いて停まっている車、運転席から男が出てきて助手席に回りドアを開いた。由衣は男と一言二言言葉を交わし、助手席に吸い込まれていった。由衣は男と一緒に帰っていった。
「そうだよ。アイツは男の車で帰ってった。オレ、ちゃんと見たよ。アイツ、あのまま亜里沙を実家に置いて、男と旅行に行ってたのか。そうだよ、なあ、オレ、やっぱ殺してねえよ。なあ、釈放だろ」
オレは長谷を見上げ、訴えた。だって、オレは何もしてねえんだろ、いつまでこんなところにいさせるつもりだ。
「釈放なわけねえだろ」
穏やかだったアキヤマの口調が少しキツくなってきた。何か喋ろうとしたところ、長谷が先に喋り出して、アキヤマは口を噤んだ。
「井口さん。由衣さんは実際、ご実家に帰宅しています。静岡県警で事情聴取をしていますが、由衣さんに間違いないです。
由衣は帰っている。生きてるのに司法解剖?由衣はAB型じゃない。老けては見えないが25歳は言い過ぎだろ。ダメだ、頭が混乱してきた。
「ちなみに由衣さんはO型ですよね。じゃあ、誰なんです?」
「誰がですか?」
「こっちが訊いてんだよ!」
アキヤマは大声を出して、平手でテーブルを叩いた。テーブルはスチール製で、やたらと大きい音が鳴った。驚いて、オレの肩は痙攣したように跳ね上がった。
「いい加減にしろ!いつまで、
あの女?由衣は生きてんだろ。あの女って、何言ってんだ?
「ちなみに死亡推定時刻は4日前の夜6時から12時の間です。その時、由衣さん以外に誰と会ってたんですか?」
由衣、以外?
「女房が帰った後、もしくはその前、誰と会ったんだ!思い出せ!」
アキヤマは、リズムを取るように言葉の数だけテーブルを叩いた。スチール製のテーブルの音が、混乱しているオレの頭に響く。静かな中で、答えのわからないものの答えを求められ、気だけが焦る。気に障る音だ。耳の奥の方で脈の音が聞こえる。
アキヤマは更に嫌がらせのようにテーブルを爪で叩く。カチカチと不快な音の連続で、混乱さているオレの頭は更に混乱するだけだ。
「だけど、由衣が帰ったって言うなら、死体はないんでしょ」
「死体があるから言ってんだよ!」
「誰っすか?」
もうオレには何がなんだかわからなくて、怒られるのはわかっていても、そう答えるしかなかった。案の定アキヤマは怒り出し、立ち上がった拍子にガタンッと椅子が倒れた。勢いよくオレに詰め寄ろうとするアキヤマを長谷と若い刑事が止めた。
「だから、私たちはそれを聞いてるんです。死体が家にあったと課程するなら、由衣さんが帰った後の出来事じゃないでしょうか。思い出してください。由衣さんが帰った後、誰と会いましたか?」
長谷は興奮するアキヤマの体を押さえながら、オレを見つめる。
由衣が帰った後、共有通路から由衣が男と一緒に車に乗るのを眺めていた。その後、オレは誰と会ったというんだ?あの夜、オレは残っているチー鱈をつまみに缶ビールを飲んだ。味がしないと思った記憶がある。だから、ビールの残りをキッチンで溢して捨てた。その後どうした?そうだ、リモコンを探してテレビを点けようとした。リモコンはどこにあった?ダイニングテーブルの上だ。オレはテレビを点けたのか?いや、点けていない。点けようとしたら死体が目に入ったのだ。たしかにテレビの前のゴミ袋の山の上に女の死体があった。それは由衣ではないのか。じゃあ、誰だ。それか、それは夢でも見ていたのか。いや、もっと記憶を遡らないと。
オレは女房の由衣と口論になった。それでオレは女を投げ飛ばした。朽木倒だ。でもその投げ飛ばしたのは由衣じゃない。オレはいったい、そのシーンを何回目思い浮かべればいいのだ。
なぜ投げ飛ばしたのか。女がオレに向かって椅子を投げようとしたからだ。でもその女は由衣じゃない。誰なんだ?
由衣と口論になってからを、もう1度思い返してみる。由衣はそのまま玄関に向かった。ハイヒールを履いている後ろ姿が記憶にある。間違いない。でもオレは誰かを投げ飛ばした。由衣と口論になった直後からチー鱈を食っているまでの間、記憶がすっ飛んでいる。ヘタクソなディレクターの編集のようにブッツリと間が途切れている。オレの中で何かが記憶を呼び起こすことを拒んでいる。でも、由衣が男の車で帰ったところの記憶までは蘇った。まだ、何かが思い起こせないのだ。それはなんだ。
もう1度記憶を呼び起こす。由衣が出ていったところを、だ。由衣が出ていった。オレは玄関を出た。共有通路から下を見下ろした。男が由衣を待っていた。駐車場入り口の街路灯の薄明かりでは、顔はハッキリ見えない。が、服装からして男だった。キレたオレが、そいつを捕まえて部屋に連れてきて殺したとは考えにくい。その車が発進するところまで見ている。車のタイヤの音が滑る音を聞いて、虚しくなった。外の歩道には人通りがなく、街路灯のオレンジ色の明かりが地面を照らしている。そこには.........。
あっ!
街路灯の薄明かりの下に、1人の女の姿を思い出した。
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