第82話 取調室の余談

 元々はクリーム色だったであろう薄汚れた壁に、スチールのテーブルと対面に椅子が2脚、部屋の角に小さなテーブルと椅子の他、何も無い殺風景な狭い部屋。壁の上の方に小さな窓しかないのは留置所と同じだ。幸いクーラーが効いている。室温はキンキンに冷えてるわけではないが留置所よりは断然居心地がいい。

 オレは出入口ドアとは反対側の椅子に触らされている。テーブルを挟んで手前にいるのは、オレを連行した若い方の刑事だ。さっきからムスッとした顔のまま何も話そうとしない。


「いやー、こっちの方が涼しくていいね」


 沈黙に耐えきれなく若い刑事に話しかけたが、黙って待ってろ、と言ったきり、また沈黙。この若僧、オレの半分くらいしか生きてねえくせに、口の利き方がなってねえな。歳上の人間に対して、命令口調はおかしいだろ。たとえ相手が犯罪者だったとしてもだ。親はどういうしつけしてんだ。

 お前もお前で、この沈黙耐えられないだろ。さっきから調書のファイルを捲ってばかりで、時折チラチラとこっちを見てるだけじゃねえか。多分あの太った中年刑事が来るのを待ってるんだろうが、それまで世間話くらいしたっていいじゃねえか。


 取調室は閉鎖された環境で、あの天井近くの小窓しかない。その方向からうっすらセミの鳴き声が聞こえる。やっぱりセミは気持ち悪い。留置所にセミを放たれたら、オレはなんでも白状しちゃうね。だいたい、セミがいる意味がわからない。あんな1週間しか地上で生きてられないのに、何のために生まれてきたんだ。夏の雰囲気を醸し出すため、人間様のためにあんなに鳴いてんのか。そんなことを考えても、オレだって何のために生まれてきたのかもわからねえ。借金抱えるためでも、女房を殺してしまって捕まるためでもない。オレはセミと一緒なのか。いや、オレはあんな空っぽの奴と一緒なんかじゃねえ。


「いやー、待たせたねえ」


 アキヤマという中年刑事と、長谷という静岡の女刑事が入ってきた。冴えない中間管理職と年増の愛人に見えて笑えた。


「余裕だねえ。なに、もう開き直っちゃった感じ?」


 相変わらず中年刑事はニヤニヤしていて、年増は気難しそうな顔付きだった。


「今日も、長谷さん同席するけど、いいかい?」


 言葉は質問だが、否定する理由もなければ、断る隙もない。アキヤマという中年刑事は扇子を仰ぎながら長谷と目を合わせ、手前の椅子を指差す。長谷は促されるままオレの目の前に座った。


「おい!冷房あんまり効いてねえな。もっと温度下げろ。なあ、井口。暑いよな」


 アキヤマは命令したが、若い刑事はまごついていた。


「いや、でも容疑者に、そんなに優遇しなくてもいいんじゃないでしょうか」


ちげえよ。俺が暑いんだよ!」


 若い刑事は不服そうな顔で空調の温度を下げて、部屋の角の小さなテーブルでパソコンを開いて座った。ブーンと古いエアコンが音を立てて、時間差が少しあり、段々と部屋の中の温度が冷たくなっていく。長谷がオレの目の前に座り、アキヤマはその横で立ったまま、今日の聴取が始まった。


「まず、昨日の調書の確認をします。4日前の夜、前妻の由衣さんがあなたのマンションに訪ねて来た。そこで口論となり、揉み合いになり殺害してしまった。間違いないですか?」


「間違いないです」


「先に由衣さんが手を挙げてきた。間違いないですか?」


「ああ。間違いないです」


 オレが長谷の質問に答えていると、はあー、とアキヤマが態とらしい溜息を吐いた。長谷はチラッと横目でアキヤマを見てから、調書の確認を進めた。


「あなたはそれを避けるために、突き飛ばしてしまい、由衣さんは食器棚の角に頭をぶつけて意識を失った。間違いないですか?」


「はい。間違いないです」


 オレは半ば投げやりに答えていた。パソコンのキーボードの音がカタカタと響く。若い刑事はオレの一字一句漏らさないようにパソコンに打ち込んでいる。


「その時まだ息はありましたか?」


「もう白目剥いてたから、もうヤベエなって思ったんですよ」


「もしかしたら、すぐ救急車を呼べば助かるとは思いませんでしたか?」


「覚えてません」


「質問を変えます。由衣さんが殴りかかってきたのを避けるために突き飛ばしたと言っていましたが、本当に突き飛ばしただけですか」


「とにかくウザいから、やめて欲しいから、こう、押したというか、突き放したというか」


 長谷の横に立っていたアキヤマがテーブルを回り、オレの隣に立った。そして、ポンッと軽くオレの肩を叩いた。


「頭きて、投げ飛ばしたんだろ」


 オレはアキヤマを見上げた。嘘が通じない目だ。


「なあ、わかるよ。俺も柔道やってたから。咄嗟の時に技が出ちゃうんだよ、技が、なあ。俺もワッパかける前に容疑者が抵抗してくると、ポンって投げちゃうんだよな、うん、わかるわかる」


 そう言いながら、オレの肩を撫で回す。


「だけどよぉ。素人の女の人投げたら危ねえってことくらいわかるよなぁ。殺すつもりだったんだろぉ。食器棚の角に頭ぶつけるつもりだったんだろ」


「そんなんじゃないですよ。態とじゃないです。たしかに投げたのは認めます。でも、あれは事故です」


「どうだろうねえ」


 アキヤマはいやらしい目付きでオレを誘導しようとしている。肩を撫で回す手の力が段々と強くなっていった。長谷が、アキヤマさん!と咎めた。アキヤマは、長谷にピシャリと言われてオレから離れて、また長谷の横に戻った。楽しそうにニヤニヤとしている。


「故意なのか事故なのかは、あなたのその後どう対処したかによります。あなたはその後、3日間も由衣さんを放置した。そして昨日、あなたは由衣さんの遺体を車で運び、青木ヶ原のの山中に遺棄しようとした。ここまで、なにか間違いはないですか?」


「もうわかってるでしょ。だから捕まってるんでしょ。態とったんじゃないけど、死体は捨てようとしました。オレがやりました。それでいいでしょ」


 昨日から同じことを何度も繰り返す長谷に苛々してきた。長谷は無表情で淡々と喋る。けっして上から偉そうに喋っているわけではないのに、偉そうに感じる。だから素直に答える気持ちになれない。こちらの気を逆撫でするのだ。まるで風紀を乱すものは許さないという、隙もない学級委員長みたいな女だ。

 それにオレの家から尾行しやがって。途中のサービスエリアで遭遇した時は、若い刑事とカップルの振りして、まったく腹が立つ。変な紫のジャージを履いていて、なんか貧相だなぁと思ったのだが、何故あの時気がつかなかったんだろう。今日の長谷の服装はパンツスーツにインナーが白いブラウス。今時の若いカップルに変装していたつもりなのだろうが、上が白いブラウスで可笑しな感じだったのは、ジャージだけ履き替えていたからだった。靴が革靴だと気づくべきだった。

 まあ、それに気がついたところで、じゃあどう対処したんだと言われると、全く思いつかない。もう家から尾行されていた時点で、こうなることは決まっていたのかもしれない。だが、その中途半端な変装に腹が立った。「マジ臭いんだけど、何かの臭い?」なんて下手な芝居しやがって。そんな下手な芝居に気づかなかったオレ自身にも腹が立った。

 ブラウスの胸のボタンがはだけているが、なんの色気も感じない。オレが絶対口説かないタイプの女だ。頭が良くて、仕事のことしか考えていない堅物で、多分独身。ヘタすると処女かもしれない。こういう女は同僚にも部下にも嫌われている可能性が高い。また野心家で上司にも疎まれているかもしれない。こういう女は周りに味方がいなく、どんどん孤立して、また仕方なく堅物になるしかない。となると、やっぱり処女だ。

 可哀想に、あの若い刑事はこんな年増とカップル役なんかやらされて。他人の心配をしている場合ではないが、芝居とはいえ「黙ってろ、聞こえるぞ」なんて上司の長谷に言っていたが、あの後説教でもされたんじゃないだろうか。


「井口さん。故意でなくとも、あなたはその遺体を捨てようとしたんですよ。わかってます?」


 しつこいよ、面倒臭え。もう罪を認めてんだから、さっさと裁判でもやって刑務所に送ってくれ。逮捕からは逃れられないわけだから、借金地獄から逃れられるだけでラッキーだったかもしれない。


「あのさあ、それよりも、あの常田ってどうなった?指名手配の」


「井口さん!」長谷は金切り声をあげオレを咎めたが、アキヤマは笑いながら、まあいいじゃねえか、と扇子を仰いで、ちょっと席変わっておくれ、と言って長谷を退かしオレの前に座った。


「常田って、アンタの友達の常田かい。俺もその話、お前から聞きたかったんだよ」


「アキヤマさん。その件は、別件です。安易に容疑者の前で他の事件の話はつつしんでください」


 横に立った長谷が、アキヤマに忠告した。


「まあまあ、いいじゃねえか。。謹めばいいんでしょ、謹めば。こいつも缶詰で疲れてるから、ちょっとくらい世間話したっていいじゃないの」


 まだ長谷がなにやら忠告していたが、アキヤマはそれを無視して続けた。どうやらつもりはないらしい。


「アンタ、その常田ってのは高校の時の友達かね」


「そうだよ。同じ高校の同級生。別の大学に進学したから、卒業してからはあんまり会わなかったな」


「ほおー。そんなに親しいわけじゃねえのか」


「高校の頃は仲良かったけど、社会人になって連絡取るような間柄じゃなかった。それが久々街中でばったり会ったんだよ。それからちょくちょく呑みに行くようになって」


「へえー。聞いた話だと、アンタが刑事に常田が怪しいなんて証言したって言うじゃねえか」


「そうなんだよ。アイツ、呑みに行った時、小さいサイズの子供用のサンダル片方持ってて、拾ったなんて言ってたけど、普通サンダル拾う?アイツ、あの時から誘拐してたんだよ、きっと。ロリコンの変態だから、戦利品としてサンダル持ち歩いてたんじゃねえかなって、オレは思うんだよね」


「ほほぅ。でも、そんな証拠、そんなに親しくもないアンタに、なんで見せたんだい?」


「知らねえよ。鞄から財布か何か出そうとして、オレに見られたと思って、言い訳したんじゃねえの」


 アキヤマは長谷の方をチラッと見てニヤニヤしている。感じの悪い2人だ。


「アンタ面白いねえ。自分のことだとムッツリしてるくせに、他人のことだとベラベラ喋って」


 嫌味のように聞こえたが、オレの話から逸れただけでも有り難い。それにオレから色々聞きてえんじゃねえのか。いくらでも喋ってやる。


「余談なんだけどよう。アンタの元女房は、エライ美人さんだなあ」


 突然、話がまた自分の話に戻って、不意を突かれた。オレの元女房が美人って、今の話と関係ねえだろ。この中年刑事は、女房の生前の写真かなんか見て言っているのだろうか。あんな顔が青紫に変色して、頭の形が変形してしまった死体の顔を見て言っていたら、このオッサンこそ変態だ。


「そりゃあ美人だったよ。むかしは、な」


 何故その話に戻されたのかわからないが、褒め言葉として受け止めておこう。オレは美人としか付き合わないし、ましてや結婚なんてしない。オレはその辺については妥協しない男なのだ。間違っても、長谷みたいな貧相な年増となんか口説いたりしない。


「もう1回聞くけど、アンタが殺しちまったのは、本当に由衣さんかね?」


「しつけえなぁ。もう殺人でも何でもいいから逮捕して終わりにしてくれよ」


「いや、ちゃんと言ってくれ。アンタが殺したのは誰だい?」


 なんで、こう同じ質問ばかりするのか。刑事っていうのは余程暇なんだな。


「オレは前妻の手塚由衣を殺してしまいました。これで、いいですか」


 オレは不貞腐れて、テーブルに両手をついて椅子に座ったまま土下座のように頭を下げて見せた。もう勘弁してくれ、これが警察のやり方なのか。これじゃあ罪もない人間も、嫌になって罪を認めてしまう。

 アキヤマと長谷は顔を見合わせる。長谷が頷く。そのアイコンタクトをやめてくれ。態とらしくて苛々する。


「アンタの元女房、美人さんだからよぅ。男がいたらしいよ。そいつと旅行行ってたんだってさ。子供を実家に置いてな。昨日、帰って来たんだとよ」


 はあ?なに言ってんだ、このオッサン。


「しつこいようだけど、もう1回聞くぞ」


「ちょ、ちょっと待って。今、由衣が家に帰ったって言ったのか?」


「そう言ったけど」


 アキヤマは可笑しそうにニヤニヤと答えた。


「じゃあ、質問。アンタ、誰の死体を運んでたんだ?」


 頭が真っ白になった。外のセミの鳴き声がシャンシャンと鳴っていたが、アホみたいにピタッと止まった。

 誰の死体って、それはこっちが聞きたい。

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