第81話 中年刑事

 山梨県警と静岡県警の若い方の刑事が2人、オレに詰め寄ってきた。無駄な抵抗はするな、ということだろう。後退ると背中が車についた。こんな弱そうな奴らなら投げ飛ばすくらい簡単だが、相手は警察官だ。おとなしくしているしかない。

 長谷と名乗った女刑事が、承諾してないのにオレの車の後部ドアを開けた。最近の車のスマートキーというのは、キーを持っていれば、キーを出さなくても開けられる。その便利な機能を開発した人は、こういうことまで想定していない。初めてこの女を見た時貧相だと感じたのは姿勢ではなかった。今時の服装と顔が合っていないのだ。よく見るとそんなに若くない。暑さのせいか、肌のせいか、化粧が取れかかっている。

 女刑事は躊躇することなく、ゴミ袋を退かしていく。ゴミ袋には用がないのだ。明らかに、そこに何があるのか知っている。蒼ざめた女房の顔を見ても、驚いた様子も見せなかった。


「ありゃりゃあ、これは完全に死んでますねぇ」


 太った中年刑事が呑気な声を出した。いつの間に取り出したのか扇子を仰いでいた。


「こちらは、どなたですか?」


 女刑事は訪ねるが、この女はこの死体が誰なのかをわかって訊いているのだろう。オレは黙った。額に汗がへばりついている。ナメクジのよくにゆっくり汗が流れる。汗を手で拭おうとすると、両側に立っていた若い刑事の片方がオレの腕を後ろ手に掴んだ。


「暴れねえよ」


 オレは太々しく応えた。そう応えたが若い刑事は腕を離そうとしなかった。弱々しい力だった。こんなの一捻りで攻守交代できる。だが、もう観念した。言い逃れを考えるのも、この死体の処理も、汗を拭うのも全てが面倒になった。


手塚由衣てづかゆいさんですね」


 オレは応えなかった。


「あなたの前妻の由衣さんですね」


 ほうら、わかってんじゃねえか。だったら一々訊くなよ。


「調べはついています。由衣さんの母親の百合子さんから捜索願が出ていました。何度かあなたの自宅に刑事が伺ったと思います。1人の刑事があなたの自宅の異臭に気づきました」


 クソッ、あの刑事か。あの部屋の臭いを嗅ごうとしていた失礼な若僧だ。


「あなたの家のリビングから血痕が見つかりました。血液型は由衣さんと一致しました。彼女のご遺体からDNAを調べさせてもらえばわかりますが、彼女のものと考えて間違いないでしょう」


 もう少し早く動くべきだった。もうどんな言い訳をしたところで、刑事に女房の死体を見られてしまった今、攻守交代できない。昨日の夜のうちに出ておけば良かったのか。それともあの刑事が初めて来た日のうちに処理するべきだったのか。それとも、もっと前に。そう辿ると、女房を殺してしまう前まで遡ってしまう。殺さなければ、こんなことにはならなかったのだ。でも、なんで殺してしまうことになったのか。それを辿るともっと前のことまで、と考えて途中で嫌になった。


 山梨県警の若い方の刑事が携帯電話で連絡を入れた。太った中年刑事がノソノソとオレに近づいてくる。


「悪いけど、手錠嵌めさせてもらうよ」


 そう言うと腰から手錠を出してきた。そして長谷という女刑事に、いいの?うちで手錠しちゃって、と訊いた。女刑事は頷く。


「後ろだと痛いからね。前でするけど、暴れないでね」


 静岡県警の若い方の刑事は、オレの腕を掴んでいた手を離した。中年刑事はオレの腕をそっと取り、手首に手錠をかける。


「井口雅紀さんだね。16時37分、死体遺棄の容疑で現行犯逮捕する」


 ドラマで見るような勢いよくガシャン、とかけるのではなく、片方ずつゆっくりと手錠をかけるのが生々しく感じた。痛くねえか?と訊きながら、少しゆとりを持たせた付け方にしてくれた。手錠は冷たく、重かった。


「じゃあ、後ろに乗ってくれる?」


 オレは山梨県警の刑事たちが乗ってきた車に乗ることを指示された。オレは助手席側の後部座席から乗せられ、バックシートに座ると中年刑事も隣に乗り込んできた。反対側のドアが開き、女刑事も乗り込んできた。オレは山梨県警の中年刑事と、静岡県警の女刑事に挟まれて座らされている。

 もしここで脱走するなら、まず中年刑事を肘打ちで気絶させて、女刑事の上に乗り、そちら側のドアから逃げればいいか、と頭の中で想像だけしてみた。か細い体の女刑事じゃあ、オレの脱走を止めることなんかできないだろう。まだ若い男の刑事の方が役に立つのではないか、と思っていると、


「アンタで大丈夫か?」


 と、中年刑事も同じ疑問を感じたようだ。まあ、これが若い男の刑事だったとしても、同じ方法で脱走はできるが、もう面倒で、そんな気は起きない。


「私じゃないと、乗れないじゃないですか」


 オレと中年刑事は顔を見合わせて、自分の体とお互いの体を確認し、不謹慎にもちょっと笑ってしまった。デカい図体のオレと、太った中年刑事で、後部座席の5分の4をほぼ占めている。空いた隙間に女刑事が嵌まり込んでいる状態だ。


「ありゃりゃ、本当だな。アンタ、デカい体してっけど、なんか運動とかやってたのかね」


「柔道やってたんだけど」


「へえ。強かったのかね」


「まあまあですかね。大学入って怪我で辞めたんですよ」


「もったいねえな。オリンピックとかにも出れたかもしんねえのにな。真っ当に生きてりゃ、それこそ怪我したって警察官とか目指しゃあ良かったのに」


 女と金にだらしなかったが、今回のを除けば、真っ当に生きてこなかったわけではない。中年刑事からして見れば、殺人を犯す奴なんか真っ当に生きてこなかったんだろうという偏見があるのかもしれない。


「暑いな、エアコン付けてくんねえか」


 中年刑事は後部座席の窓を開けて、若い刑事に声をかけた。若い刑事は慌てて運転席に回り、エンジンをかけてカーエアコンをつけようとした。すると、女刑事がそれを遮る。


「暑さは我慢できます。逃走の恐れがあるのでエンジンはかけないでください」


 若い刑事はどうすればいいのか困惑した顔で、中年刑事の指示を仰いだ。


「まあまあ、そんな堅いこと言わないで。なあ、アンタは逃げないよなあ」


 そう言って中年刑事はオレの膝をポンポンと叩いた。それはオレを信用してではなく、やめておけよ、という警告だと受け止めた。手の厚み、重さ、オレの膝を叩く強さ、それらでこの中年刑事のだいたいの力量はわかる。この男も柔道経験者だ。終始、虫も殺さぬ七福神のような笑顔を浮かべているが、只者ではない圧が強い。べつにここで抵抗するつもりはないし、中年刑事もそれがわかっている。これは、ただの警告だ。


 そんな話をしている間に、山梨県警と書かれた白黒のワンボックスとセダンが駐車場に着いた。ぞろぞろ刑事と鑑識官の制服を着た男たちが降りてきて、オレの車を取り巻いている。手際良く担架とプールシートが敷かれ、駐車場一帯を規制線の黄色いテープで囲まれた。蕎麦屋の主人は、何事が起きたのかと外へ出てきた。1人の刑事が蕎麦屋の主人に近寄り、事情を話しているようだ。サイレンを鳴らしたパトカーも近づいてきた。規制線の前には制服を来た警官が立っている。あっという間の出来事だった。


「女房殺しなんて訊いてないですよ」


 中年刑事の手は、まだオレの膝の上にある。オレの膝を摩りながら喋った。もしかしたら、と思うと別の恐怖が湧き上がる。頼む、オレは女が好きなんだ。

 隣を見ると、女刑事が窮屈そうに体を縮こめている体を伸ばし、中年刑事を咎めるような目を向けている。オレの前でそういう話をするな、とでも言いたいのだろう。中年刑事はその視線に気づかない。


から捜査協力って言うから、てっきり連続幼女誘拐の方だと思いましたよ」


 アキヤマさん。女刑事が中年刑事に向かって言ったが、彼は気にしてないようだ。


「指名手配の常田って男の行方は掴めたんですか」


「アキヤマさん。容疑者の前で、そのような話は」


 摩っていた手を上げて、パンッ、と軽くオレの膝を叩くと、中年刑事は笑い出した。


「堅いねえ。そんなのいいじゃないの、世間話だよ。コイツはもう観念してんだから、なあ」


 そう言いながらオレの膝をパシパシ叩く。


「アンタだって、他の犯罪者の話、聞いてみたいよな。悪いことしてんの、自分ばっかりなんて思ってたら、遣る瀬無いよなぁ」


 オレはこの中年刑事の話を聞いて、自分の中で何かがモゾモゾと動くのを感じた。足の裏から膝、膝から腰、腰から鳩尾のところまで、なにかユラユラしたものが登ってきた。


「今、なんて言いました?」


 オレはアキヤマという中年刑事に尋ねた。声に力が入らず、震えているのがわかった。


「あ?指名手配の男の行方ってところか?」


「違う。名前、名前」


「常田か?」


「アキヤマさん!」女刑事が大きな声を出した。


 鳩尾の辺りから笑いが込み上げてきた、堪えられずに大声で笑った。あの常田が指名手配?まさかマジで子供を誘拐する変態だったとは。これはオレの電話に出なかった罰だ。ざまあみろ。オレの腹は引き攣ったように捩れて、体から痙攣したように震えた。もう可笑しくて可笑しくて仕方がない。笑いがオレの体を揺さぶる。車まで揺れ始めて、女刑事に咎められた。


「井口!静かにしなさい!」


「アイツが、つ、常田が。マジかよ。笑える、マジで笑える」


「お前さん、知り合いかね?」


 中年刑事は真顔を近づけて言った。


「ああ。友達つれだよ。アイツ、小さい女の子のサンダル持ってたから、まさかと思ってたけど、マジでアイツが誘拐犯なんだ。それに指名手配って。マジで笑える」


 ほほう。中年刑事は思案に暮れた顔を更に近づけてくる。う、キモい。それに頭皮の臭いなのか、油臭い臭いも一緒に近づいてくる。


 運転席のドアが開き、山梨県警の若い刑事が顔を覗かせた。


「アキヤマさん。静岡の西川さんが現場に残ってくれるそうなので、署に戻りましょうか。長谷さんは一緒に署に来ていただいていいですか」


 長谷は頷いた。若い刑事は姿勢を正し、軽く会釈すると運転席に乗り込み車を発進させた。


 中年刑事はオレの肩に手を回し、グッと顔を寄せる。重い腕と柔らかく当たる腹の肉が気持ち悪い。


「じゃあ、そのお友達の常田くんの話も、署でゆっくり聞かせてもらおうか」








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