井口 雅紀

第80話 蕎麦屋の駐車場

「井口、出ろ」


 畳の上で胡座あぐらをかいて寛いでいると、オレは看守に呼ばれた。看守はやたらに鍵の付いた輪っかから、鍵の1つ見つけ出し鉄格子の錠を開けた。この部屋は扇風機しかなく、暑い。しかもその扇風機は看守のテーブルに向けていて、閉じ込められているオレの方には微かな風しか届かない。ワイシャツは汗で背中にべったりと貼り付き、スラックスはシワだらけになっていた。

 この暑さから解放されるだけでホッとした。昨日の取調室の方がエアコンが効いていて涼しかった。看守に手錠をかけられ、山梨県警の刑事に連れられて、留置所を後にした。



 オレが留置所に入れられた経緯は昨日に遡る。

 若いカップルに見られて、サービスエリアを出たオレは、ひたすら車を富士山に向けて走らせていた。東名高速道路を御殿場インターで降り、国道138号線を進む。東富士五湖道路須走インターから乗り、富士吉田インターで降りると遊園地が見えた。所要時間2時間ほど。

 富士の樹海に女房を捨てるなどと安易に考えていたが、そもそも富士の樹海という住所がない。ただの呼称だ。富士の樹海というのは、「富士山原始林及び青木ヶ原樹海」という名称らしく、やたらと広い森だ。カーナビでも、どうやって設定したらいいのかわからない。とにかくこの遊園地よりもっと奥だということしかわからない。とにかく奥へ進んだ。遊園地近辺はホテルなどがあり栄えていて、車の通行量も多い。こんなところに死体遺棄したり、自殺したりしに来ると想像しづらい。

 少し先へ進むとガイドツアーの看板が目に入り、パーキングエリアがあった。後続車がなかったので車のスピードを緩め、様子を伺った。奥に見えるガイドツアーの小屋の周りに人集ひとだかりが見えた。例の「富士河口湖町公認ガイドツアー」だろう。あんな人集りの中、女房の遺体を担いで行くわけにいかない。「ツアーにご参加ですか」なんてガイドに訊かれて、「いえいえ、僕は妻の死体を捨てに来ただけです」なんて笑い話にもならない。

 パーキングエリアの警備員が赤い棒を振って駐車場に入るよう指示してくるので、オレは手を振って車を走らせた。


 もう少し先へ進むと、1軒ポツンと蕎麦屋があった。駐車場に車は1台も停まっていない。気づくともう午後4時だった。昼に生姜焼きを食ったばかりなのに、もう腹が減っている。これから自体を捨てようというのに、緊張感のない胃だ。食欲が減るどころか、いつもより腹が減るのが早い。これから重い荷物を担いで山道を歩かなければならないので、腹を満たしておく方がいい。それに死体を捨てに行くには、まだ明るい。夏は陽が沈む時間が遅いので、暗くなるのにはまだ時間を潰さなければならない。オレは蕎麦屋の駐車場に車を入れた。


 駐車場は、あまり整備されていなくて車を乗り入れるとタイヤが何かを踏んでプツプツと音がした。こんなところでパンクしたら、JAFを呼ぶわけにはいかないので困る。死体を乗せた車なんて修理だからじゃない。なるべくゆっくりと走り、駐車する。駐車スペースの枠から少しずれたが、切り返してパンクすると嫌なので、ずれたままエンジンを切った。どうせこの時間だし、他の客もそうそう来ないだろう。

 車から降りると、ここだけ陽が陰っていて涼しい。こちらに覆い被さるように林の木が伸びている。店の裏が、もう樹海だ。舗装されてはいないが、脇に道ができて、そこからでも樹海に入れそうだ。林の入り口には看板が建てられている。『命は親からもらった大切なもの もう一度静かに両親 兄弟

 子供のことを考えよう』と書かれている。ここを管理するところが建てたのか。樹海、樹海と言っているが、輪郭がなく漠然としていて、どこからが樹海というものではなく、どこからでも入れる林の向こうが、もう樹海なのだ。こんな看板を1つや2つ増やしたところで意味がない。ここら一帯がどこでも入り口なのだ。

 蕎麦屋を覗くと、店主らしき中年の男は、客の先で腕を組んだままをしている。辺りを見回し誰もいないことを確認した。蕎麦を食べる前に捨てていこうか。早く肩の荷を下ろしたい。

 後部ドアを開き、バックシートのゴミ袋を退かした。顔の青い女房の顔が見えた。鼻が臭いに慣れてきたと思っていたが、近づくとやはり腐敗臭が酷い。頬を軽く叩いてみた。上から眺めると、不貞腐れて寝ているように見える。その太々ふてぶてしい顔に腹が立ち、頬をつねって引っ張った。すると口がパクンと開いて、強烈な腐敗臭がした。クソッ!死んでまでもオレに嫌がらせしてきやがる。

 何かを包む物を探したが、膝掛けくらいしか車には乗っていない。そんなものじゃあ人間の体なんか収まらない。人通りもないし、マンションから駐車場に運んだ時みたいに、肩を組んで連れて行けばいい。もし樹海の中で誰かと会ってしまっても、そいつは自殺志願者か、オレと同じような奴で、死体を担いでいたところで何も言ってこないだろう。「オタクも、アレですか?」「いやー、そうなんですよ。どっか捨てるいいところありました?」なんてお勧めスポットでも聞いてやればいい。

 ゴミ袋の山の中の女房の脇に手を回し、引き摺り出そうと腰に力を入れると、背後の方でタイヤが小石を踏むプツプツという音が聞こえた。車のサイドミラーに、駐車場に乗り入れてくる1台のセダンが見えた。オレは慌てて女房の上にゴミ袋を乗せて隠した。ゴミ袋の山が崩れないよう、運転席のシートを後ろに下げた。こんな廃れた蕎麦屋に寄るんじゃねえよ、と心の中で悪態を吐いた。やっぱり先に蕎麦を食べよう。他の客がいるところ、こんな青い顔の女房は見せられない。死体と思わなくても、印象に残ってしまう。

 オレは素知らぬ顔をして車のロックをして、蕎麦屋に向かおうとした。セダンからは、このクソ暑い日にスーツを着た男が2人降りてきた。そして、その男たちはオレに声をかけてきた。


「ちょっと、いいですか」


 始めは知らんぷりしようと思ったが、他に誰もいないところ、2人はじっとこちらを見ているので無視できなかった。


「オレですか?」


 紺色のスーツを着た若い方の男が頷いた。ベージュのスーツを着た太った中年男の方がゆっくり近づいてくる。今時ベージュのスーツってダセえな、と思った。カジュアルなセットアップではなく、むかしの紳士服洋品店で売っているようなヨレヨレの薄い

 スーツだ。相当古いのか裾の方が縒れていた。喋りかけたのは、ベージュのスーツの方だった。


「急にごめんなさいね。私たち山梨県警の者です」


 少し訛った喋り方だった。オレの体をねぶらように上から下まで見てくる。胸ポケットから警察手帳を出してきた。心臓がひっくり返りそうになった。よりにもよって、なんで刑事が話しかけてくるんだよ。


「なんですか」


 動揺を悟られないように、できるだけ普通の声を意識した。声が裏返ってしまったり、喧嘩腰な威圧的な態度をとってしまえば、きっと怪しまれる。オレに最も足りないものは、だ。


「これ、あなたの車ですよね」


 太っているからなのか、作り笑いなのか、中年刑事の目は細い。オレが降りてくるところを見てた筈なのに、その白々しさに腹が立った。


「そうですけど」


 そんなのはオレが降りてきたところを見たでしょ、それなのになぜ訊くの?というような顔をしなければならないので、頭の中で復唱し、できる範囲で最高級の「そうですけど、何か?」という顔を作った。


「随分と後ろに、ゴミを乗せてるようですが」


 太った中年刑事は、ぬるっと手を伸ばし、オレの車を指差す。縒れているスーツの裾が捲れ上がった。ったく、安物のスーツ着るやがって、とっとと帰れ、という気持ちを悟られないように、慎重に「ああ、それですか」と応えた。


「家の大掃除をして、ゴミの日に出すのを忘れたんで、一時車に乗せてるだけですよ」


 嘘でも本当でもない。大掃除をして、ゴミの日に出せないので一時的に車に乗せてるだけなのだから。

 この刑事たちもオレが死体を運んでいると怪しんでいるとは限らない。山盛りのゴミ袋を積んだ車を見つけ、樹海に不法投棄しにきた輩ではないかと職質をかけてきただけなのかもしれない。ここは無事に乗り切らなければ。


 太った中年刑事は人差し指で顳顬こめかみを掻いて、困ったような呆れるような視線を若い刑事に送る。そうしているうちに、また駐車場に1台の軽自動車が入ってきた。マジか。こんなところで刑事に職質されているところにギャラリーがいるのは体裁悪い。軽自動車からは若いカップルが降りてきた。ゴミの山を積んで職質されているオレを若いカップルが見れば、住所不定無職の可哀想な大人に映るだろう。


「すみません。正直ちょっと、ここへ捨てれないかなって思いました。捨てにきたんじゃないですよ。ちょっと捨てれないかなって」


 オレは、少し魔が差してゴミの不法投棄をしようと考えてしまった人間を装った。本当は死体遺棄しようとしてたけど、警察というものには歯向かわない方がいい。魔が差して捨てようかと思いましたが捨てませんでしたよ、という態を装っていた方がいい。健全な一般市民をアピールしなければならない。


 それにしても、なぜのこ刑事たちはオレに目をつけたのだろう。女房を隠すためにゴミ袋を乗せたが、外から見てわかるほどゴミ袋を積んでいるわけではない。バックシートになるべく平らに乗せているだけだ。運転していても、ちゃんとバックミラーも見えた。たまに運転席以外に、ゴミやガラクタをパンパンに乗せている車を見るが、あれほど乗っていたら、運転するのに危険だと注意されることもあるだろう。異臭だって近づかなきゃわからない。通りすがりで怪しいと目をつけられる理由がない。


 その理由はすぐにわかった。車から降りてきた若いカップルに見覚えがあった。上が白い半袖のブラウスで、下が紫のジャージといった貧相なファッションの女。東名高速のサービスエリアでオレの車を覗き込んでいた奴らだ。女は太った中年刑事と目が合うと、この人で間違いないです、と言うように軽く頷いた。クソッ、こいつらが警察に通報したのだ。余分なことしやがって。


 しかし、女はオレの予想に反した動きをとる。

 女はズカズカとこちらに向かって歩いてきて、オレの前に出た。さっきは猫背で貧相だと感じたが、今は背筋が伸び、動きもだ。

 女はジャージのポケットをまさぐっていた。そして徐に山梨県警の刑事が見せてきたものと同じものを出して、オレに見せつけてきた。


「静岡県警の者です。あなたのご自宅から尾行してきました。後ろの座席を見せてください」


 警察手帳には『長谷徹子』と表示されていた。




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