第79話 声
着信は4度と通知されていた。名前は『
元女房が娘と出て行って数ヶ月は、復縁を試みようと何度か電話したが、元女房は電話には出てくれなかった。こちらも言われるがまま離婚届にサインしてしまったが、俺だって本当は別れたくなかった。でも、ここまで着信を拒否されていれば、連絡する気も萎える。元女房の電話帳は、消すことも名前を変えることもしないで、忘れたままになっていた。
なんの用だというのだ。やっぱりお金がかかるから、今まで貯めていた娘のための貯金を寄越せ、と言うのだろうか。今回の逃避行で調子に乗って
それか娘に何かあったのだろうか。離婚してから1度も会っていないとはいえ、血の繋がった父親なわけだし、娘にもしものことがあったら連絡してくるだろう。なんだ、もしものことってなんだ。重い病気で、血縁関係のある人間の臓器が必要な病気なのか。どこだ、胃か、腎臓か。それとも心臓か?移植が必要な病気というものに詳しくないからわからないが、娘が助かるなら、それで許されるなら、胃でも腎臓でも心臓でも
携帯の画面を眺め、かけ直そうかと思うが指が震える。
「大丈夫?チャミュエル、すごい顔してるよ」
すごい顔とは、どんな顔をしていたのだろう。俺の顔を覗いたみずきは、不安な目をしていた。どうしたらいいのかわからず、とりあえず左上のツマミを上げて、消音モードをオフにした。
とにかく落ち着け、自分に言い聞かせる。まずはシミュレーションだ。まずは普通に、久しぶり、くらいの挨拶でいいだろうか。いきなり、何があったんだ!?なんて言ったら、玲香は気を悪くするに違いない。普通を装おう。この7.8年、何も変わらず過ごしていたよ、となるべく冷静に話そう。それから娘は元気なのか訊けばいい。
電話をかけたら、あいつは初めに何と言うのだろう。電話が繋がったら、こちらが先になにか言葉を発した方がいいのだろうか。向こうがなんらかの用があって電話しているのだから、あいつの言葉を待てばいいのだろうか。元女房との電話のやり取りを想像していると、俺は声すら忘れていることに気付いた。あいつの声って、どんなだっけ。甘ったるい声じゃないことは確かだ。あいつはサバサバした性格だから、シャキシャキした喋り方だった。でも、どんな声だったか。
そもそもサバサバした性格のあいつが、今更なんの用事で電話してくるのか。「元気?」なんてこっちの近況を電話で訊いてくるような奴じゃない。もしかしたら、新しいパートナーができて、そいつが玲香の携帯から電話してきているのかもしれない。新しいパートナーが金の要求をしてきているんじゃないか。自分の中であいつの新しいパートナーを想像して、胸にチクッと何か刺さった気がした。やっぱりまだ好きなのか。いいオッサンが、まだ好きとか気色悪い。好きとかそういう問題ではなく、俺と結婚していたのだから離婚したとしても、まだどこかで家族のような繋がりがあると過信していたのに、完全に他人になってしまうと思うと寂しい。勝手に想像したパートナーに対し、激しく嫉妬している自分に気づく。単なる想像した実在しないかもしれない人物に対して、なんと女々しいことだろう。
くだらない嫉妬心に苛まれていると、手元の携帯がまた鳴った。玲香からだ。
「チャミュエル。電話鳴ってるよ」
携帯の画面が黒くなり、右下に緑の丸、左下に赤の丸が表示され、能天気なメロディを奏でて震えている。暫く携帯を眺めていたが、またどうしていいのかわからず、左上のツマミを下げて、消音モードにした。着信音は無くなったが、バイブは止まらない。赤い丸の『拒否』を押せばいいのだが、それもできない。そのままポケットに仕舞おうとしたが、みずきはそっと俺の腕に触れ、首を振った。
「電話、出た方がいいよ。どんな人でも、話せる時に話した方がいいよ」
今度は俺が素直に頷く番だった。
俺は意を決して、緑の丸の部分に触れた。
携帯を耳に当てる。
「やあ。久しぶり」
恥ずかしくなるほど掠れた声が出てしまった。それに、久しぶりの相手に「やあ」は無いだろう。他人に挨拶するのに「やあ」なんて言ったことがない。
『やあ、じゃないわよ。あなた今、どこにいるの?』
少し怒気が篭っている声。ああ、玲香の声だ。そうだった、こういう声だった。少し低くて、芯が強いはっきりした声。
「どこって?なんで?」
『あなた自分が何してるか、わかってるの?』
玲香の電話は、金の要求でも、近況を伺うでもなさそうだ。それにしても、なんで怒ってるのだろう。俺がみずきを連れ出して誘拐紛いのことをしているなんて、知るすべもないだろう。俺が返事に困っていると、電話の向こうで玲香の溜息が聞こえた。
『あなたね。今、指名手配されてるわよ。なにしてんの!』
指名手配?俺が。
どうしてって、みずきを
『みずきちゃんって子と一緒にいるの?ねえ、今、どこにいるの、教えて』
みずきと一緒にいることまで知られている。
『ねえ、なんとか言って!』
「いや、指名手配って、どういうこと」
何から訊けばいいのかわからない。それにしても指名手配っていうのは大袈裟過ぎないか。
『どういう状況かわかってるの?今、テレビ側にある?テレビ点けてよ』
俺は言われるままテレビを点けた。点いた画面はNHKの教育番組だったのでリモコンでチャンネルを変えた。情報番組のチャンネルで、俺の写真がデカデカと映っていた。やる気のない無表情な顔写真。多分免許証の写真だ。
フラップボードに、連続幼女誘拐事件、容疑者常田祐司と表記されていた。そのタイトルの下に、レンタカーを借りたこと、ショッピングモールのフードコートで目撃されていたこと、ショッピングモールで着替えを買ったこと、清水区のホテルに泊まったこと、それらが時系列で並べられていた。
井口と冗談で言っていたが、本当に連続幼女誘拐犯にされてしまった。
情報番組のアシスタントの女性が続ける。
『今回の公開捜査では、多くの情報が集まりました。この静岡県静岡市清水区のホテルに宿泊した後の足取りはまだわかっておりません』
公開捜査ってなんだ。それで俺は指名手配されていたのか。さっき、ブュッフェで金持ち老人の家族たちが俺を避けた理由がわかった。
『関みずきちゃんの安否が心配です。ですが、どの目撃情報でも、本当の親子としか見えなかったといいます。容疑者はどのような手段でみずきちゃんを連れ出したのでしょうか。この時点ではみずきちゃんの安否は確認とれていますが、容疑者の常田祐司は改造銃の類を所持していることもあり、安心できない状況です』
改造銃?なんだ、そりゃ。みずきもテレビを見ながら呆然と立ち尽くしている。改造銃とアシスタントが口にしたところで、みずきは俺の方を見た。俺は手を横に振って否定した。
『改造銃って、あなた壊れた家電すら直せないのに、笑っちゃうわね』
携帯から玲香の声。
「あのさあ、違うんだ、これは。改造銃なんか持ってないし、誘拐って、そうじゃないって言ってもこの子連れてきちゃったから誘拐なんだろうけど、連続幼女誘拐って、俺、前の子たち知らないし、誘拐してない!」
『なんで、連れてきちゃうの』
「この子、親に虐待されてたんだ」
そのタイミングで、テレビ画面は泣いている男の映像に切り替わった。リキトくん、みずきがそう言ってテレビを指した。リキトくんとは、みずきの母親の再婚相手だ。
「いや、虐待されてたからって誘拐していいわけじゃないけど、なんか、その、捨て猫みたいで」
捨て猫という単語を出してしまい、ハッとしてみずきの方を見た。みずきは、テレビに気を取られて聞いていなかったようだ。泣いている男は、みずきを返せ、と何度も訴えている。テレビの司会者は、昨日の映像です、と記者会見らしき映像の途中に割って入った。
『この連続幼女誘拐事件の容疑者と思われる常田祐司は、チャミュエルと名乗り、多くの子供たちを誘拐、そして山本伊織ちゃんを殺害、他の子供たちも殺害されている可能性があります。そして現在、関みずきさんを誘拐しています。常田祐司さん、お願いします。みずきちゃんを返してあげてください。今画面に映っていた義父の利喜人さんは、虐待を認めています。多分、この涙はみずきさんに虐待してしまった後悔の念もあるのでしょう』
ここでもチャミュエルが出てきた。みずきが俺のことをチャミュエルと呼ぶ理由がわかった。だけど山本伊織ちゃん殺害って、それも俺のせいになっている。こんなのごめんだ。画面は司会者の顔を徐々にアップにしていく。
『あなたは虐待されている子供を救いたい、自殺の手助けをしたい、そう正義感を振るうでしょう。しかし、違います。殺害はダメです。このお父さんは、虐待はもうしないと言っています。やり直すチャンスを与えてくれませんか。あなたの正義のやり方は間違ってます。常田さん、テレビを見てたら、どうか、どうかみずきちゃんを無事に返してください』
司会者は芝居がかった表情で、気持ちよく訴えていた。俺にか?これは俺に対して言っているのか。みずきを誘拐したのは俺だが、あんたが訴えなきゃいけない相手は俺じゃない。俺はチャミュエルでもなければ、山本伊織ちゃんという子を殺してないし、みずきを殺さない。もう勘弁してほしい、こんなことするんじゃなかった、と今更ながら後悔してももう遅い。
『あなた、この事件と関係ないんでしょ』
「みずきちゃんって子は一緒にいるけど、テレビで言ってるチャミュエルなんかじゃないし、山本伊織ちゃんって子は知らないし、殺してなんかないよ」
『そんなこと、わかってるわよ。でも、なんでその子連れてきちゃったの』
「なんか、俺みたいだったから」
『捨て猫って言った後にそれ?まるで、あたしが捨てたみたいじゃないの』
「いや、そういうつもりじゃなかったんだけど」
溜息の後、暫くの沈黙。
向こうから喋ろうとしないので、堪らず俺から口火を切った。
「1人で育児とか大変だよな。ごめん。優香は元気か?」
久しぶりに娘の名前を口にした。名前を出しただけで涙が出そうになった。玲香はその質問には答えなかった。別の質問で返してきた。
『どうして、迎えに来なかったの』
玲香には似合わない弱々しい声だった。
「どうしてって、お前が電話に出ないし。迎えに行くって言っても、どこに住んでるかも知らないし」
『本当、呆れるよね。あたしの経済力で優香育てられると思う?』
ああ、やっぱりそうか。新しい相手がいるんだ。改めて玲香の口から聞くと、本当に泣きそうになる。
『実家しか行くところないでしょ。電話に出なくたって、そんなことくらいわかるでしょ』
実家?実家か、盲点だった。でもよく考えたら一番最初に思い付く行先ではないか。なぜ俺はそんなことも気づかなかったのか。玲香に怒られても仕方ない。
『ずっと、待ってたのに』
待ってた?俺を?これは社交辞令か。でも、そんなことを言ってくれるのは嘘でも嬉しい。俺は鼻を啜った。
「社交辞令でも嬉しいよ。今からでも間に合うならって思っちゃうよ。まあ、もう他人だし。別れておいて正解だよな。俺、指名手配犯だもんな」
『離婚届、出してないよ』
「え?」
『全然迎えに来ないから、本当に何度か出そうと思ったよ。でも、まだ出してない』
今まではなんだったんだろう。俺は1人残され、自暴自棄になり、こんな過ちを犯した。正義感ぶっていたが、後先考えずにこんなことをしたのは、俺が1人ぼっちだとばかり思っていたからだ。なんにも人の気持ちを考えていない、それが俺の1番の過ち。ダメだ、涙が止まらない。待っていてくれた嬉しさと、そんなこともわからない悲しさと、これからどうなってしまうかわからない怖さで、いったいなんで自分が泣いているのかわからなくなった。
「なにやってるんだ。早く、離婚届出せ!」
玲香を指名手配犯の妻にしてはいけない。優香を指名手配犯の娘にしてはいけない。でももう遅い。そんなのわかってる。でも何年も会っていないから、戸籍だけでも離れれば、なんとかなるんじゃないか。もう、どうしたらいいのかわからない。
『あなた、みずきちゃんって子以外はやってないんでしょ。だったら自首して。あたしたち待ってるから』
「いいから離婚届を出しに行け!」
俺は電話を切った。
みずきと目が合う。
「チャミュエル、じゃないの?」
みずきの目はウルウルとし、今にも涙が零れ落ちそうだった。泣きそうな子供を前にして、涙をボロボロ流してるオッサンの姿は、みずきにどう映っているのだろう。
「ごめんなぁ。俺、違うよ」
「じゃあ、オジサン、誰?」
「誰なんだろうなぁ」
その質問には何と答えたらいいのか。俺も自分で誰なのかわからなくなってきてしまった。
「オジサン、逃げよう」
みずきは、俺がチャミュエルではないことがわかっても、なお俺と一緒にいることを選んだようだ。
俺は彼女に素直に従い、身支度を始めた。
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