第78話 電話

 首が痛くて起きた。

 目を開くと天井がいつもと違うので、一瞬ここがどこかわからなかった。壁掛け時計を見ると7時を過ぎていて、ヤバい、遅刻する、と頭が混乱していた。風呂に入っているみずきを待っている間、そのまま寝てしまったんだと理解するまで少し時間がかかった。泥酔とまではいかないが、昨夜はまったりと飲み過ぎたようだ。後半はみずきの話で、どこか胸の隅に重いものが酒と一緒に残っている。

 混乱している頭を整理する。4日前から仕事をサボっている。公園で出会ったみずきを連れ出してきてしまった。ここは山梨県。山梨の宿泊施設。昨日着いた。この部屋には2泊の予定で、明日部屋を替り、この宿泊施設には3泊する。昨日は昼アウトレットモールで食事をし、夕飯はこのコテージで自炊した。みずきと2人でバルコニーで食事し、その後リビングに移り食事を続けた。ビールを飲んだ。そして、そのままソファで寝てしまった。


 あ、そのまま寝てしまったから片付けしてない。そう思ってソファの前のリビングテーブルを見ると綺麗に片付けられていた。膝丈くらいの高さのガラステーブルの上にはテレビのリモコン以外何も無く、綺麗に拭かれていた。キッチンへ移動すると、皿は洗われ、水切りラックに綺麗に並べてある。あの後、みずきが片付けてくれたのだ。

 片付けもしないで酔っ払って寝ている恥ずかしい大人の姿を見せてしまった。


 口に掌を当て、はあー、と息を出した。掌から跳ね返った息は、酒臭かった。歯も磨かないで寝てしまった。歯を磨くため風呂場の洗面台へ向かった。

 鏡に映る俺の顔は浮腫むくんでいて、整髪料を付けた髪はボサボサのまま固まっていた。備え付けの歯ブラシで磨く。髪も放っておかないので、歯を磨いた後、シャワーを浴びた。昨夜みずきが設定した温度のままだろう、子供が浴びる温度は冷たくて、温度を上げた。少しでも酔いが覚めるよう、出来るだけ熱くした。あまり理科が得意ではなかった俺は、人間の細胞がどんなものか知らないが、熱い湯が体に当たる度に、閉じた細胞が開いていく感覚がする。よろよろする足で、体の隅々まで洗い、最後にシャワーの勢いを強くし、目を閉じて顔面に浴びた。瞼の裏側がチリチリする。

 暫くその体制でいると、だいぶ酔いが覚めてきた。俺は適当なところであがって、脱衣所に出たところ、着替えを忘れたことに気づいた。腰にタオルを巻き、リビングに買った服を取りに行く。風呂場から出た壁から、顔だけリビングに出して、みずきがいないことを確認した。


 さささっと早足で移動し、リビングに置いたままのショップ袋から、まずはボクサーパンツを取り出す。3枚セットになって束ねてある糸を無理やり引っ張って切り、Mサイズのシールを剥がした。

 周りをもう1度確認し、さっとタオルを外して、急いで足を入れる。

 きゃっ、と後ろから声が聞こえたので、急いでボクサーパンツを腰まで上げた。遅かった。振り返ると両手で顔を隠したみずきが立っていた。丁度のタイミングで起きてきたようだ。オッサンの汚いケツを見せてしまった。耳の後ろが異様に熱くなった。


「ごめんなさい」


「いや、謝るのはこっちだよ。汚いものをお見せしまして、大変失礼しました」


 暫くの沈黙の後みずきは、ぷっ、と吹き出した。腹を押さえ、腰を曲げて笑ってくれている。よかった。未遂とはいえ、義父からの性的虐待みたいなことをされて、大人の男の裸にトラウマ的なことが残っているんじゃないかと焦ったが、それよりも早く着てよ、と陽気な顔でパンツ一丁を咎められた。俺は慌てて、カーゴパンツとTシャツの値札を外して、急いで着た。

 ここで着替えるんじゃなく、着替えを持って脱衣所に向かうべきだった。相変わらず、そういうところの配慮が足りない。離婚して娘と離れて暮らすことになったのは、必然だったのかもしれない。神様に、お前みたいな奴は女の子の親には不向きだ、と言われかねない。


「ごめん、寝ちゃったよ。片付けてくれたんだね」


 ケツまで見られて、ついでにまで見られてるかもしれないのに、今更体裁を繕っても遅い。


「昨日の料理、美味しかった」


「あんなの、酒のつまみだったよね。今日の夜はもっと美味しい物を食べに行こう」


 昨日飯を作ったらフランス料理の店を予約しようとしていたが、気分良く飲んですっかり忘れていた。今からでも間に合うか、と思い携帯を取ると、昨日チェックした後にも実家の方から電話があったようで着信が残っていた。アンタいい歳して会社なんかサボってんじゃないよ、なんて説教されるのだろうか。いい大人が親に電話で説教されてるところなんか、子供に見られたくはない。それに電話で聞かれて、この状況をどう説明すればいいのかわからない。昨夜、母親に対するみずきの想いを聞いておいて、気が咎めたが携帯をそのままカーゴパンツのポケットにしまった。


「朝食券があるから、着替えてブュッフェ行こう」


 みずきの姿を見ると既にショートパンツにTシャツ姿だった。パジャマなんか買っていなかったから、買った服をそのまま着て寝たのだろう。


「そのまま出れるね」


「今日は食べ過ぎないようにする」


 そう言えば、みずきは静岡のホテルで食い過ぎで吐いてたな。室内用のスリッパからお気に入りのサンダルに履き替えて、口ではそうは言っているが、今日も食べる気満々な目で嬉しそうな顔をして待っている。行こうか、俺はみずきの頭をポンッと撫でた。


 ブュッフェの店は朝から混雑していた。みんな早く朝食を済ませて遊びに行きたいのだろう。5組程列をなしていた。テーブル席が開くと通される。小さな子供がいる家族連れは、さっさと食事を済ませるので回転が早く、前の4組はすぐに呼ばれて入店していた。

 スタッフが「チケットを確認します」と列の前の家族に言った。家族はチケットを渡し、「カワシマ様ですね。確認のため部屋番号をお願いします」と言われ、部屋番号を答えていた。部屋番号は部屋鍵のカードに印字されている。俺のカードには、「A-3」と書かれていた。前の家族は部屋番号を数字だけで答えていた。アルファベットはコテージの部屋番号のようで、ホテルの方は数字だけのようだ。多分アルファベットはAから順に高額なのだろう。俺のは「3」だから、まだ高い部屋があるのだ。


 背後で人の気配がした。誰か後ろに並んだのだろう。その人間が、おやおや、と素っ頓狂な声を上げた。


「あ、昨日のおじいちゃん」


 みずきが嬉しそうな声を上げた。振り返ると老人が、カードを持った手を挙げて声をかけてきた。昨日アウトレットで会った、あの老人の家族だ。カードに印字されている「A-1」という数字が見えた。やっぱり金持ちだったんだ。


「なんだ。アンタたちも、ここに泊まってんのか」


 老人は家族5人で来ていたが、さすがに飲食店にはペットは連れて来れないので、リリーもフランキーも連れていなかった。コテージに置いてきたのだろう。


「ブュッフェってーのは、自分で取りに行かなきゃなんねーんだろ。面倒臭えなぁ」


 老人は相変わらず声がデカい。隣にいる奥さんが袖を引っ張る。ちょっと静かにしてください、ヘラヘラしながらみずきに話しかける老人に、奥さんは耳打ちをした。何言ってるんだ、お前は、違うだろ。奥さんが周りを気にしながら、小さな声で老人を注意するが、老人は聞こうとしない。本当にすみません、奥さんは必要以上に謝ってくるので、全然いいですよ、と言っているのに何度もペコペコと頭を下げた。


「ね、お父さん。迷惑だから、私たちの食事、後にしましょう」


「なにを言ってるんだ、お前は」


 夫婦で揉め始めてしまった。息子は自分の妻に何か言うと、妻は息子を連れて離れていった。


「いや、全然気にしてないですよ。それにお孫さんもお腹空いてるでしょ」


 そう言っているのに、家族は老人を引き連れて列から離れていった。俺とみずきは呆気に取られて、べつにいいのにね、と俺が口を開くと、みずきは心配そうな顔をして男の子の方を眺めていた。

 そうこうしているうちにスタッフに呼ばれ、席に案内された。

 いっぱい食材が並んでいるというのに、食欲が沸かない。まだ酒が残っているのと、昨夜はグダグダと食べてばかりいたので、胃の中が消化しきれていないようだ。みずきも同じく、あまり箸が進んでいない。ソーセージやカリカリベーコン、ハムエッグなどパンチの効いたものばかりで、さすがのみずきも飽きてしまっているようだ。和食の方がいいのだろうが、俺は魚の食い方が汚いので、焼き魚は外で食わないようにしている。


「残してもいいんだよ」


 みずきが欲張って皿に盛ってきた料理を無理に頬張ろうとしているので、またオエッしちゃうよ、と言うと、ごめんなさい、と俯いてヨーグルトだけ食べて終わりにした。俺は盛ってきた料理をほとんど残してしまい、アイスコーヒーを飲むくらいしかできなかった。みずきはアイスティーをおかわりしてきた。今日は外へ出かけてみようか、と今日のプランを話していた。その最中、何度も携帯のバイブが震えていたが、無視し続けた。

 アイスコーヒーだって何杯も飲めないし、みずきもつまらなそうにパンをつついているので、30分もしないうちに店を出ることにした。気を遣ったあの家族が、俺たちが出るのを外で待っているかもしれないので、食べる気がないのに長居はできない。

 外に出ても、あの家族は見当たらなかった。


「電話鳴ってたでしょ。かけなくて大丈夫?」


 パンツのポケットで鳴る携帯を気にしているのを、みずきは見ていたらしい。みずきの母への想いを聞いていて、大人の俺が母親の電話を無視できない。そうだね、と返事をし、携帯をポケットから出し、待ち受け画面を見ると携帯を落としそうになった。


 表示された名前は、実家の母親のものじゃない。みずきが心配そうに俺の顔を覗き込むのが視界に入った。

 それは、別れた元女房の名前だった。







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