第76話 女心
みずきはゆっくりと絵本に目を通して、何冊も続けて読んだ。翻訳されているものも多いが、中には英文のままの絵本もあり、英語解るの?と訊くと、絵が綺麗だから、と食いつくように絵を眺めている。
その間もチラチラと店員がこちらの様子を伺うような視線を感じ、みずきはそれに気づいていないのか読んでいた本をラックに返して、また3冊持ってきた。
「その3冊、買っていこうか」
店員の視線に堪らず、みずきに提案してみたが、彼女は本の裏側のバーコードの横に貼ってある値札のシールを見て、目を丸くした。
「これ、高いよ」
僅か10ページくらいの絵本なのに1冊3000円以上もする。たしかに高い。他人の子供に買ってやるには高いが、店員の視線が、汚すなよー、そんなに読むなら1冊くらい買ってやれよー、と言われているようで、気が小さい俺は耐えられなくなっていた。
「さっき、石鹸買ってもらったからいいよ、どうせ死んじゃったら読めないし」
「どうしたの?さっきから。そんな、死ぬ死ぬ言っちゃダメだよ」
みずきは、さっきからやたらに死ぬことを仄めかすようなことを言う。もしかしたら、この逃避行を最後の思い出に死のうとか思ってるんじゃないだろうか。それは、困る。ちゃんと親元へ帰さないといけない。大好きな母親が、後から出てきた男のせいで変わってしまったことに絶望してるのだろうが、自分の娘と同じくらいの子供が、そんな選択肢を思いついてしまう彼女が痛々しい。
俺の娘は、父親がいないことで虐められていないだろうか。女房は娘を1人で育てることになって、気持ちの余裕がなく虐待なんかしてないだろうか。もしかして再婚して、その新しい父親に同じようなことをされていないだろうか。勝手に想像して、苛々してきた。
母親の元に帰す時、思いっきり説教してやりたい。みずきの母親の顔を知らないから、その説教している光景を思い浮かべると、元女房の顔になってしまう。お前が別れることを決めて、なんだこのザマは!自分の娘だろ、ちゃんと守ってやれ!そんなことを想像して、自分を省みるとそんな偉そうなことはできないだろうと萎えた。
「オジサンが、なんとかするから」
思わず出た言葉。なんとかする、って何をするんだろう。自分の方から出た無責任な言葉。正確には、なんとかしてやりたい、だ。
「そうだね。チャミュエルに任せるよ」
みずきは何か悟ったような顔をしていた。10歳で考えも行動も少し大人びてくるが、まだまだ子供。その子供のツルンとした顔は、お釈迦様でも見ているようだ。大人のこちらが、汚い部分、ずるい部分、諦めている部分、裏の裏まで見られているような気分になり、みずきの目を真っ直ぐに見れなくなった。
「まあ、いいや。それよりもプールの方に行かないか?絵本ばかり読んでたら、プールの時間なくなっちゃうよ」
「プールは、やめておく」
「ここのプール、波が来るようになってて、面白いらしいよ。それに水着も
絵本を買わないなら早くこの店から出たいのと、プールだったら、ずっと一緒にいなくても俺はプールサイドで時間を潰せばいいかと思い、説得にかかった。半分駄々をこねてるようなもんだ。
「プールは、嫌い」
少々しつこかった。もしかしたら、みずきは泳げないからプールは嫌いなのか、と思ったが、ハッと気づいた。多分水着になったら、体に虐待の痕があるのかもしれない。それを見せるのが嫌なのだ。物事をもっと繊細に、そしてもっと想像力を働かせれば分かることなのに、俺という人間はどうも配慮が足りない。
特に用もなかったが、手持ち無沙汰で携帯を探した。だがどのポケットに手を入れても携帯がない。部屋に忘れてきたようだ。
「どうしたの?」
「どうやら携帯を部屋に忘れてきちゃったみたい」
「じゃあ、取りに行く?」
みずきにそう訊かれ、別に携帯が無くてもいいのだが、他にすることもないし、店を出る口実になるかと思い、それに従った。電話をかける相手もいないし、着信も会社か井口からのくらいしかないだろう。みずきを1人残していく理由もないので、一緒に部屋に戻ることにした。
急ぐ理由もなく、とぼとぼと歩いて部屋に戻った。計画性も提案力もないこの旅行に、みずきに対して申し訳なく思ってしまう。
「つまんなくない?」
男が女に訊くワースト5位くらいに入りそうな質問だ。これは相手に気を遣わせて、絶対否定してくるパターン。そして女が男に幻滅するパターンだ。
「わかってないなぁ」
みずきは横目で見上げて言った。わかってないのは、わかっている。ただ、それを口にされると
「チャミュエルはさぁ、すぐ買うっていうよね。女の子って、こういうの見てるだけでも楽しいんだよ」
同じようなことを元女房にも言われた記憶がある。買い物が長い女房に、そんなに悩むなら両方買えばいい、と言ったところ、買い物は買うまでが楽しい、と答えられ俺には理解できなかった。じゃあ買わないつもりなら見なきゃいい、と言うと、見てるのが楽しいと言われた。買い物なんか面倒だし、見ていると急かせて早く帰りたくなってしまう。車好きの知人がパンフレットを見ながら、選んでる時間が趣味だと、訳のわからないことを言っていた。買ってしまったら乗るだけ、あれこれ悩んで値段の交渉をしたりするのが楽しいのだそうだ。俺は店側の気持ちを考えると、迷惑な客だなとしか思えなかった。
「チャミュエルは女心がわかってないなぁ」
10歳の子供に言われ、胸の奥をチクッと刺される。
他人の気持ちがわからない人間に、女心と言われても理解できるはずがない。10歳と言えど、女性なのだ。その10歳の子の女心がわからなければ、大人の女心なんてもっとわからない。ただただ気落ちする。
げんなりしている俺の背中を軽く叩いて、俺の顔を覗き込み、さっき買った石鹸の紙袋を顔の高さまで上げて、
「でも、ありがとう」
そう歯に噛んだ笑顔を向け、俺を励ますみずきの顔を見て、更に項垂れた。その表情がおかしかったのか、みずきは笑って空を見上げていた。
昼間でもない、夜でもない中途半端な時間。夏の夕方の空はまだ明るい。相変わらず日差しは強く、肌をジリジリと照り付けてはいるが、時折顔を撫でる風が、昼のそれよりも少し涼しく、足元の影は傾いて長くなっている。煩いセミの鳴き声も、昼とは少し違い、疲れているように聞こえる。今日もあとちょっとだな、なんて隣のセミに話しかけているのだろうか。今日の残りはあと3分の1。寂しさと疲れと何かしら意味のない期待が入り混じった変な時間。
太陽はこんな位置にあるのか、空の色はこんなだったのか、そんなことをゆっくり考えたりする時間なんて今までなかった。べつに忙しかったわけではない。毎日をノルマとして、同じように暮らしていただけ。仕事へ行って、同じ時間に同じ仕事をこなし、同じ時間に同じ道で帰るだけ。途中のスーパーで見切り品やお惣菜を買い、同じような物を食べてあとは寝るだけ。休みの日は冷蔵庫にある物を食うだけ。たまにコンビニに行くくらいだ。
女房と別れてから、なんの色もない毎日。時が止まったような感覚だけがあり、悲しいかな歳だけはとってしまった。
だから、こうして外の空気を感じ、空を眺めるなんてことしたことがなかった。素直に新鮮だと感じた。
あの時、井口と再会し、次の日二日酔いで会社をサボって、あの公園でみずきに出会った。それが縁。それから流れに身を任せてしまった。なんの因果か知らないが、こうなってしまったのは、この空を眺めるためだったのかもしれない。ふとみずきに目を向けると、眩しそうに目を細めて彼女も空を眺めていた。お互い黙って、暫くそうしていた。
数十分しか経っていないのに、空の色が濃くなってきたように感じる。女心と空の色は変わりやすいというのは、それは秋の空だったか。そんなのどっちだっていい。その変わる女心というものを少しでも理解していれば、俺の結婚生活は続いていたのだろうか。でも変わる前に気がつかなければ、変わらないように努力しなければ、結果は同じじゃないか。理解したところで変わるものは仕方がないし、空の色だって変わるのを誰も止められない。別れた根本は、きっとそんなことじゃない。
わからないものは、わからないし、ただ変わっていく空の色を眺めているだけ。そんなゆったりした時間を、久しぶりに味わった。
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