第75話 黒ビールとピルスナー
言われた通り、マルシェの通りを突き当たりまでいくと向かって左側にブックカフェと併設してワインバーがあった。
ブックカフェの向かい側には、ガラス細工や陶器を作る体験型の工房があり、子供たちで賑わっていた。受付のところで親子が、どれをやりたいのか、早く決めなさい、と揉めている。体験コースの料金も4000円以上かかり、両方やりたいと言う子供に、1つにしなさい、と苛ついた顔を見せる母親を、なんとも微笑ましい光景だと眺めてしまう。俺には、揉める相手も、子供に説教する妻も、
ブックカフェと体験工房を挟んだ通りには、三輪車でレースするコースがあり、1回500円と安いが、やっている子供たちは、みんな小さい子供たちで、みずきくらいの子供はいないので勧められない。子供と一緒に参加している父親がいるが、ペダルを漕ぐとハンドルに膝が当たってしまい、なかなか前に進まない。
そんな光景を眺めながら、ワインバーに足を踏み入れた。店内にはワインセラーに1本1本丁寧に寝かせられたワインのボトルが並び、カウンターにはワインサーバー、鉄のバケツのような物に氷が入っていて冷やされたボトルが並んでいる。
「テイスティングしませんか?」
黒いベストを着たバーテンダーが声をかけてきたが、俺はビールが飲みたいので、と断った。
「クラフトビールなら、外のテントにご用意があります」
そう言って掌で外を示した。三輪車のレースコースの前にテントが設置されていて、紫の布を張ったテーブルの上にビールサーバーが置かれていた。
「お子様のドリンク、フードなどはあちらのカウンターにございます」
今度は店内の左側を示すと、隣のブックカフェを繋がる扉が開いていた。ワインバー床は黒で、ブックカフェの床の色が白くなっていた。そちらに移動し、みずきはオレンジジュースとチョコブラウニー、俺は酒のあてにタコスチップを注文した。
「じゃあ、オジサン、ビール買ってくるから、注文来たら受け取って」
俺は、ブックカフェの店員に、ビールは店の中で飲んでもいいのか確認し、みずきを残してテントに向かった。
ビールサーバーの周りには、子供を遊ばせている父親たちが群がっていた。この宿泊施設は施設内で子供が自由に遊べるスペースがいくつも用意されており、客室と呼べるコテージや販売施設が施設全体を囲っているため子供の安全が考えられている。店舗や体験施設は、通路側が全てガラスの壁で、中にいる子供も、外にいる親も互い様子が見えるので、安心して寛げるような作りになっている。
料金表を見るとどれも1000円以上と高額だった。安い缶ビールでも充分なのだが、ここまで贅沢しているなら、贅沢に贅沢を重ねればいい。頸から汗が滴り落ちる。こんな暑い日は、ドライで苦味の強いものが飲みたくなる。俺はそんなに舌の肥えているわけではないが、黒い液体が見るからに長そうなスタウトを注文した。
テントの日陰に入っていても暑い。額、
ブックカフェでみずきを待たせていたが、我慢ができずに受け取ってすぐに喉に流し込んだ。クーラーの効いている店内もいいが、こういうビールは暑い中で飲むのが美味い。黒いTシャツだったので、バッチリ脇汗のシミが出ていたが、ジョッキは脇を上げて、一気に流し込むのがいい。汗で水分が出てしまい、体中が水分を欲しているのがわかる。胃まで到達する前に全身に行き渡っているようだ。
それにこのスタウト、黒々しているが苦味が適度でサラサラ飲めてしまう。汗でビショビショな脇を下ろしてジョッキを眺めると、既に半分ほど減っていた。隣でも同じような動作の人と目が合った。さっき三輪車で膝をぶつけていた父親だ。知り合いでもないのに、なぜかシンクロしてしまったことに気恥ずかしく、互いに頬が緩んでしまい、照れながら会釈した。短パンから出ている膝が赤くなっていて痛そうだったが、この父親ももうビールの美味さに、ぶつけた痛みなどは忘れているのだろう。
みずきの方を見ると、通路のガラス壁側のテーブルに腰をかけ絵本を見ていた。テーブルにはジュースのグラスが乗っていて、減った様子がないと見ると、多分俺が戻るまで口をつけてはいけない、と気を遣っているのがわかる。我慢できずにビールを半分も飲んでしまった俺とは大違いだ。どちらが大人かわからない。
隣にいた父親の元に小さな男の子が駆け寄り、またビール飲んでるー、と指を差され、お母さんに内緒な、と残りのビールを飲み干し、ジョッキをテーブルに返却し、男の子と手を繋いで去っていった。
俺もみずきの元に戻ろうと振り返ると、みずきは店員の女の人に声をかけられていた。俺はビールの売り子に、ジョッキを持ったままブックカフェに行ってもいいのか確認すると、ジョッキはブックカフェの店内でも返却できますよ、と答えたのでジョッキを持ったまま、みずきの元に向かった。
みずきは俺が視界に入ると、半分困ったような視線を向けてきた。店員は俺の方を向き、あ、お父さんですか、と訊いてきた。お父さんと呼ばれることも、だんだんと慣れてき始めていた。
「そうですけど、何かありました?」
「あ、いえ。あの、お子さん、1人なのかな、と思いまして。外でビール飲んでらしたんですね」
店員は慌てた様子で俺のジョッキを指した。
「すみません。すぐに戻ってくるつもりだったので」
「いえいえ。あの、ゆっくりしていってください」
そう言って、
「何、話してたの?」
「んー、どこから来たの、とか、誰と来たの、とか訊かれた」
「それで?」
「だから、静岡きら来たって答えて、お父さんと2人で来たって答えた」
みずきは何か腑に落ちない表情を浮かべている。
「あと、何か訊かれた?」
「あとはー、んーと、今何年生とか、お母さんは、とか」
「お母さんは、って言うの、なんて答えたの?」
「妹が小さいから、お母さんは来てないって言った」
みずきが咄嗟に考えた嘘だが、しっかりしてるなぁ、と呑気に考えていた。俺なんかよりもアドリブがしっかりしている。もしかしたら、いつも公園で1人でいる時に、大人に声をかけられると、そうやって答えていたのかもしれない。それに、ここの施設の係員はみんなフレンドリーだ。1人でいる子供を不安にさせないために声をかけてくれただけかもしれない。
「ごめんね。1人にして」
みずきは首を振った。
俺はみずきの隣の椅子に腰掛け、タコスチップを1枚食べた。トレイには小さなカップに入れられたディップが2種類乗っている。緑色のディップを
みずきもストローに口をつけ、チョコブラウニーを食べた。チョコブラウニーがボロボロと崩れるので、みずきは絵本を汚さないように皿を近づけて、食べにくそうに食べていた。
「美味しいねえ」
2人で黙々と食べていたので、それじゃあ親子っぽくないなぁと思い、特にタコスチップが美味いとは思わなかったが、無難な会話をしようとみずきに声をかけた。やはり酒のあては、柿ピーとかチータラとか、キヨスクで売ってるようなものの方が安心して美味いと思える。お洒落な食べ物は苦手だ。
みずきは、その「美味しいねぇ」には頷いていたが、何か上の空で、何かが引っかかっているように時折天井を眺めて考えるような仕草をしている。
「みずきちゃん、どうかしたの?」
そう訊くと、んー、と唸ってから、また考えるような仕草で、気のせいかもしれないけど、と話し始めた。
「気のせいかもしれないけど、さっきのお姉さん、『みずきちゃん』って、わたしの名前を呼んで、声かけられた」
そんなに考え込むことなのか、と思ったが、知らない人に名前で呼ばれるのは、やはり不自然だ。知っている人なら、みずきもわかるだろうし、あと考えられるのは俺が名前で呼んでいたところを聞かれたとか、そんなもんだろう。
「オジサンが名前で呼んでたからじゃないのかなぁ」
俺は一応お父さんなので、周りに聞こえないように小声で言った。他の人にお父さんと呼ばれることには慣れてきたが、みずきを前にして自分のことをお父さんと呼ぶのは、何かが邪魔して言えなかった。それはみずきに対してなのか、みずきの本当のお父さんに対してなのか、それとも自分の娘に対してなのか、ここでママゴトのように気楽にお父さんを名乗れない自分がいる。みずきにとっては、俺はお父さんじゃない。お父さんの代わりにもなれない、親戚でもなければ友達でもない。ただの誘拐犯だ。
「そっか」
まだしっかりはきていないが、みずきも俺が名前で呼んだから、という理由で納得はしたようだ。でも、俺が名前で呼んでいたからと言って、他人がいきなり名前で呼んでくるだろうか。この宿泊施設の社員教育で親しく声をかけると教えているのだろうか。
まあ、そんなことはどうでもよく、今考えていることは、おかわりは同じ黒ビールにするか、それとも定番のピルスナーにするか、残り2センチほどになったジョッキの底を眺めていた。
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