第74話 マルシェで石鹸

 外に出ると、マルシェには人がまばらだった。年配の人たちが多く見える。家族連れやカップルたちは、この時間帯だと波の出るプールの方へ行っているのだろう。自分の子供と孫がプールへ行っている最中、散歩したり買い物したりと、のんびり時間を潰しているのだろう。


 フロントで施設案内があった時に、他の部屋は露天風呂、プールは別料金になっているが、俺たちが泊まるレジデンスなにやらルームの宿泊客は、それが自由に使えるという説明だった。

 プールが使えるのであれば、さっきのアウトレットで水着も買ってくれば良かったと思い、レンタル水着はないか、と訪ねると、水着はレンタルも販売もプール施設の売店で用意されているということだった。この部屋のプランはレンタルの場合は無料だそうだ。プールの中にはバーがあり、お酒や軽食を楽しめる。施設内で購入するときも、専用のブレスレットで読み込むので、部屋の鍵のカードを持っていけば、手ぶらで行けるようだ。便利過ぎて、びびる。みずきが贅沢だと言っていたが、本当にそう思う。金持ちというのは、こうやって悠々と時間を使うのだろう。


 マルシェでは、野菜や果物、カフェ、皿、外国の絵本や写真集、手作りの石鹸など、様々な屋台が出店していた。どれもお洒落な雰囲気で、俺はあまり興味が湧かない。みずきは手作り石鹸の店に興味を持ったようだ。野菜や果物のように木の箱に積まれ、たくさんの種類の石鹸が並ぶ。

 みずきは1つ1つ手に取り、鼻に近づけて匂いを楽しんでいた。みずきが匂いを嗅ぐとその度に、それはレモンの皮で作ったんですよ、と店員が1つ1つ丁寧に説明していった。

 どれか買っていいよ、と言ったのだが、みずきは遠慮して首を振る。

 次に野菜と果物の店。葡萄を試食させてくれた。俺は巨峰とマスカットくらいしか知らなかったが、葡萄だけでもたくさんの種類があった。さすが山梨は葡萄の産地だ。そう言えば、フルーツなんて食ったのは久しぶりだ。男の一人暮らしじゃあ態々フルーツなんて食べない。また、買っていいよ、と言ってるのだが、みずきは首を振る。でも、今度は試食までしてしまったので、断ると今度は店員のお兄さんに悪いな、と気づいたのか気まずい複雑な表情になった。店員のお兄さんは爽やかな笑顔で、みずきに話しかけた。


「今日、来たばかり?」


 店員は、八百屋のおじさんとは違い、物腰の優しい30歳くらいの男だった。ダンガリーの白いワイシャツにジーンズ姿、肌の白い青年は、とても農家の人とは思えない。大手企業に勤めるエリートのようだ。もしかしたら、都会に疲れて、田舎で好きなことをやっていこうと脱サラした人なのかもしれない。


「もしよかったら、帰る日にお土産でまた寄ってね」


 青年は子供が気にしないよう、店を離れる口実を作ってくれたようだ。あまりガツガツ接客してこないので、かえって申し訳なくなり、絶対帰りに買って帰ろう、と思った。はたして、俺になどあるのか。


 その他にも、木で作られた食器や、花屋、外国の絵本が置いてある店の1つ1つを、みずきは丁寧に、そして楽しそうに眺めていった。俺が財布を出そうとすると、みずきは遠慮して店を離れる。なにか買ってあげたいのだが、みずきは見てるだけで楽しいと言う。絵本の店の女の店員が、このマルシェの通りをずっと先に進むと本屋があり、もっとたくさんの絵本が置いてあると教えてくれた。


「そちらではブックカフェになっていますし、ワインバーと隣接していますので、ワインを飲みながらお子様とゆっくりくつろげますよ」


 女の店員も、さっきの果物屋と同じで、売り付けるようなことを言わない。この施設一帯が、ゆったりとした時間が流れている。


「ビールはありますか?」


 せっかくワインがあると教えてくれたのに、俺はワインが苦手だ。悪酔いしてしまう。


「ええ、クラフトビールがございます」


 女の店員は顔をクシャクシャにした満面の笑顔を向ける。


「じゃあ、そっちの本屋さんも行ってみようか」


 べつにビールに釣られたわけではないが、みずきもゆっくり本が見れるなら、それに俺も女の子の後ろをチョロチョロとついて回るのも耐えられなくなってきた。まあ、年頃の女の子を持つ父親なんて、こんなもんだろうと思うが、何も買おうとしないのが体裁悪くて、ビールくらいは金を出さないといけない気分になってくる。みずきにもジュースを買ってあげればいい。

 あの親子、結局何も買わな買ったよね、なんて陰で言われなくてすむ。多分、そんなことを言う従業員はいないのだろうが、気の小さい俺はすぐにそんなことを考えてしまう。

 みずきも、女の店員の案内が気になったらしく、ブックカフェに行きたい、と言った。俺たちは店員に軽く会釈をし、案内のあった方へ歩き出した。


 その本屋から少し離れたところで、やはり俺の気の小ささと、みずきが遠慮しすぎることが気にかかり、やっぱり何か買おうよ、と提案した。


「そんな買ってもらってばかりだから、いいよ」


 みずきはまた遠慮して断る。


「なんか買おうよ。みんな色々してくれるから」


 俺は正直に言った。まあ色々してくれるのも、彼らにとっては仕事なのだから、そういうもんだろうが、俺としてもケチな奴だとも思われたくない。荷物になってしまうので、全部の店で買うわけにはいかないが、ここまでしてもらって何処かの店で1つくらい買うのが礼儀ではないか。向こうは接客するのが仕事だが、客は客で何か買うから見ているというイーブンな関係でないといけない気がする。買わない前提で見てるのは失礼だ。


「じゃあ、チャミュエルが買えばいいよ」


 また、チャミュエルだ。この呼ばれ方も少し慣れてきた。


「オジサンは、こういうところで欲しいものなんてないよ。みずきちゃんは、本当に何か欲しいものなかった?」


 今度はすぐに返事しなかった。やっぱり何か気に入った物があったのだ。


「いいよ。遠慮しないで」


 みずきは食いしん坊だから、きっと葡萄だと踏んでみたが、じゃあ、とみずきは言うと、元の歩いてきた方向へ戻り、果物屋はスルーした。

 みずきの足は石鹸屋の前で止まった。


「あ、いらっしゃい」


 さっき対応してくれた店員の嬉しそうな笑顔で迎えられた。みずきはレモンの皮で作ったという薄い黄色の石鹸を手に取って、また鼻に近づけた。


「これ、ママが好きな匂い」


 返事に困った。店員は微笑ましく俺たちのことを見ている。みずきがと言えば、店員は当然のことだと思っているに違いない。「いやー、今回の旅行は娘と2人で来たんですよ、日頃家事で忙しいから、たまには1人で自由にさせてやろうと思って」聞かれてもいない言い訳をしてしまった。素敵ですね、店員はそう言い、嘘の言い訳をした自分が恥ずかしくなる。べつにそんな言い訳をしなくたって、妻が部屋で待っているだけかもしれないし、余分なことを言ってしまったと後で気づいた。


「じゃあ、ママにお土産に買おう」


 そう言ってレモンの香りのする石鹸を2つ、他にもどれがいい匂いだったかをみずきに聞いて、遠慮しているところ半ば無理やり、紅茶の香りのベージュの石鹸と、ハーブの香りがする緑のものと、ピーチの香りの白桃で作った白い石鹸の計5個買った。1つ600円から1000円するものだったので、4千円くらいになった。それを現金で買った。全て1つ1つ丁寧に茶紙で包んで、お土産だと言ったせいか、小分けの小袋を5袋入れてくれた。

 みずきはそれを受け取ると両腕で包むように抱えた。


「1個でよかったのに.....ありがとう」


 そう言って茶色い手提げ袋を鼻に近づけ、また匂いを嗅ぐ。


「1個っていうのもな。それ、お母さんにあげたら、きっと喜ぶよ」


 みずきはキョトンとした目で、え?と俺を見上げた。それは、そうだ。誘拐犯に買ってもらったお土産なんて聞いたことがない。


「自分で買ったことにしておきな」


 育児放棄で服も買ってもらえない子供がお小遣いなんて貰っているはずがなく、我ながら発言が浅いと反省する。


「それにさ、さっきレモンのやつは2つ買ったでしょ。1個、今日の夜使ってみなよ」


 みずきは首を振る。


「これは、使わない」


 大切な物を持つように、ギュッと胸に包む。


「これ、みずきが死ぬ時、一緒に持っていく」


 おいおい。この子は寿命が、この先どれだけあると思っているのか。そんな長い期間、とっておけないぞ。そんな物、ずっと保管しておいたって、いずれ溶けたり崩れたりしてしまう。そんなに大切にしてもらえるのは有難いし、こそばゆい。


「みずき、レモンのだけでいいから、あとのはチャミュエルが使ってね」


 そんないい香りがする石鹸なんて、一人暮らしのオッサンは使わない。


「さあ、さあ。さっき教えてもらったブックカフェ行こう。オジサン、ビール飲みたい」


 照れ臭くて、俺は歩を早めた。








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