常田 祐司

第73話 バルコニーとジャグジーとシャワールーム

 ホテルに着いて通された部屋は、予想以上に広くて綺麗な部屋だった。俺の家なんかすっぽり入ってしまうほどの広いリビング、リビングには豪華なテーブルと6人は悠々座れる革張りのソファ、寝室は2つあった。1つは1階のリビングから壁を隔てた部屋で、白いシーツに包まれたキングサイズのベットが2つ、もう1つはロフトのようになっていて上に上がるとセミダブルくらいの大きめのベットが2つ、ロフトにはもう1部屋あって、ソファと膝丈くらいの高さのガラステーブル、大きな窓があり開けると外に出られてバルコニーになっている。

 みずきは部屋に入ってからテンション上がりまくりで、部屋から部屋、ベットからベットへピョンピョン跳ねたり、走り回ったりしている。

 この宿泊施設は、フロントがある10階建てのホテルの方と、2階建てで集合住宅のようになっているコテージみたいな作りになっているエリアと2種類あった。俺たちが案内されたのはコテージ風の方。通常の料金の方は2階建てでも上下別の部屋になっていて、玄関が分かれて別々に貸し出されているが、俺たちが案内されたレジデンスなんちゃらかんちゃらは、2階で1つの部屋で値段も少々お高い。半分が2階のようなロフトなので、リビングルームから見上げると吹き抜けの天井が高い。天井にはプロペラのような送風機がゆっくりと回転している。芸能界の大御所のお宅拝見みたいな番組でしか見たことがない。あんなもの要るかと思っていたが、眺めているだけで裕福な気持ちになる。いったいこの広い部屋は、何人で泊まると課程しているのだろう。この部屋に2泊、そして3日目にはもう少し安い部屋へ移動するが、3泊で30万を超える値段だった。娘の養育費にと安月給でコツコツ貯めた金が200万弱あるはずだ。結構使ってしまったが、どうせ受け取ってもらえない金だ。

 判を押した離婚届を渡すと娘を連れて出て行ってしまった女房に、養育費は月々どれくらい払えばいいかと電話すると、あなた本当に分かんない人よね、と言って電話は切れた。それ以来、電話しても着信拒否されていて出ない。


「オジサン、見て見て見て見て見て見て」


 ロフトからみずきの声がした。この子は『見て』を何回言えば気が済むのだろう。興奮して裸足で走り回っている足音が、遠ざかったり近づいてきたりした。バルコニーに出て走り回っているのだろう。

 上に上がりバルコニーに出ると、みずきの姿は見えなくて、声だけが向こうから聞こえる。バルコニーはコの字型に建物を囲うようにできていた。窓を出てすぐが3メートル四方のスペースで宿泊施設の外側、駐車場のある方向が一面と臨める。森林で覆われて、駐車場の車が見えないよう設計されている。そう言えば駐車場からフロントへ行くまでの間、森の中を抜けてきた。森林のスペースにはアスレチックの遊具があり、2メートルくらいの高さの木から木へ移るアスレチックや、ロープの長いブランコなどを見てきた。自然をうまく使った施設だと思った。

 角を曲がり、1メートルくらいの幅のバルコニーを渡ると反対側に出ると、ホテルの施設側が見える同じくらいのスペースのバルコニーになっていた。みずきはそこにいた。


「ねえねえ。こっちは外国みたいだよ」


 バルコニーの柵から下を覗くと石畳が見える。石畳を挟み迎え側にも同じようなコテージが林立して、まるでスペインかどこかヨーロッパの街並みを思わせる。これがこの宿泊施設のコンセプトだった。たしかマルシェといったか、石畳を挟み両脇に露店が並び、日本ではないみたいだ。


「あとで、行ってみようか」


 その言葉に、みずきは首が捥げるかと思うほど元気よく頷いて、ねえねえ、こっちは見た?と、また反対側に駆けていく。

 ドタドタと踵の音がして、俺の足にも振動が伝わる。そんなに走り回ったら下の人に迷惑だよ、と言いかけたが1階も自分が借りていて、下に他人がいないことに気づいた。むかし女房が娘が大きくなることを考えてマンションを買いたいと言ったのを思い出した。不動産回りやローンのことを考えるのが面倒だったので、このままで引越さなかてもいいんじゃないかと返事をしたが、子供部屋も欲しいし走り回っても下の階に響かないような防音のところがいい、と言っていたのを思い出した。まだ娘が小さかった頃、そんなことを考えたことはなかったが、小学4年生のみずきが走り回る音を聞いていると、こんなに音が響くんだなと感じた。夫婦というものは、女はいつでものことを考えているが、男はのことしか気づけない。


 外側向きのバルコニーに向かうと、みずきは柵に腕を乗せ、背伸びをして身を乗り出すように森林を眺めていた。アスレチックでは、みずきと同じくらいの年齢の子供が、ロープを伝い細く安定しない足場を渡る遊具を楽しんでいた。途中で落ちそうになって悲鳴や笑い声が聞こえる。


「明日、あれ、やってみる?」


 フロントで説明があったが、アスレチックは予約制で、今日の時間帯は全て埋まってしまっているとのことだった。


「えー、怖そう」


 みずきは顔をしかめた。


「大丈夫だよ。命綱みたいなの付けてるよ」


 みずきは斜め上の方を見て、考える素振りをしたが、やっぱりやめておく、と言って踵を返すと部屋の中に入って、両足でジャンプし、ベッドの上にダイブした。という言い方が悪かったか。安全ロープとかハーネスと言えばよかったかな、と反省した。

 みずきはベットの上で泳ぐようにバタ足をしていた。その足の裏は黒く汚れていた。裸足でバルコニーを走り回っていたからだ。


「みずきちゃん、足、真っ黒だよ」


 みずきはベットから飛び起き、クルンと半回転してベットの淵に座り、足を抱えて足の裏を見た。


「ホントだ!」


「風呂場で、足、洗ってきな」


 素直に頷いて、階段を駆け下りる。暫くして、風呂場の方から、また感嘆の声が上がった。


「なな、これー!」


 足を洗うだけだから服は脱いでいないだろうと、俺はその声の方に向かった。1階に降りて風呂場の方へ向かう。リビングを隔てカウンターキッチンがあり、その向こうが風呂場のようだ。檜の匂いなのか木の匂いがした。風呂場に足を入れると、まず脱衣所。この脱衣所が俺の家のリビングくらいある。木製の床に、棚がありいくつも籠が載せられている。まるで銭湯だ。すりガラスを隔ててあり、シャワールームは分かれていて、サウナまである。


「凄いね」


 みずきは呆気に取られて、天井やら何やら、グルグルと眺めていた。あまりの豪華さに何をしにきたのか忘れてしまったようだ。


「あっち、見て」


 みずきはジャグジーを指した。


「これ泡が出る奴だよね」


 みずきはジャグジー付きの風呂を見るのが初めてのようだ。でも、それよりも凄いのがジャグジーの向こう側にあった。スライド式のガラス窓を開けると、そこにもバルコニーになっていた。そこにガラステーブルとリクライニング式のビーチチェアまである。うまい具合に木で覆われて外から覗かれないようになっている。開放感がある風呂になっているのだ。

 もうここまでくると、ここへ泊まる人たちというのは金が余るほど唸っている頭のいかれた連中しか想像ができない。


「贅沢過ぎだよね」


 みずきは心配そうに俺の顔を覗く。金の問題よりも、精神衛生上、教育には良くないのではないかと、と心配になる。他人様の子供にこんな贅沢させて、みずきが家族の元に戻った時の落胆が心配だ。育児放棄している母親が、無事に家族が受け入れてくれたとしても、こんな贅沢はさせないだろう。それでみずきが我儘になってしまったりしないだろうか。

 みずきがいなくなったことで、彼女の母親には我が子の有難ありがたみを痛感して欲しい。こんなにも無邪気で素直な子どもと接したことがない俺にとっては、なぜこんな子供を虐待するのか、義父が虐待してたとしてもなぜ止められないのか理解できない。このことがきっかけで、みずきが生意気な子供になってしまわないか、でも生意気になってしまったとしても母親はそれだけの代償を払わなければならないんじゃないか、そうは言ってもみずきは母親と仲良く暮らすことを望んでいるんじゃないか、そんな贅沢したいわけではなく普通の家庭で普通の親子になることを望んでいるのではないか、そうでなければ俺が誘拐した意味がない。ちょっと待て。頭が混乱してきた。

 そんな大層な理由で俺はみずきを連れ出してしまったんじゃない。ただ自分の寂しさを埋めるためなのか、居場所がないみずきに自分を投影してしまったのか、理由があっての誘拐じゃない。結果、というだけの話。


 みずきは丁寧に足を洗っていた。こんな豪華な風呂場の床を汚してはいけない、と思っているのか、シャワーの水を少しずつ出して、床の濡れる範囲を気にしながら足を洗っている。ボディソープも手に少量出してよく泡立ててから、広く伸ばすように使っている。足を洗う間も、ちゃんと見ておかないと勿体ないとでも言うように、風呂場の天井やら壁やら隅々まで眺めていた。


 足を洗い終わると、備え付けてあったタオルで丁寧に足を拭き、そのタオルでシャワールームの床まで拭き出した。


「そこまでしなくていいんじゃない」


 床を拭いている姿があまりにも哀れで、俺は止めた。


「カビとか生えるから」


 そう言って、ワンピースの裾が濡れないように膝は伸ばしたまま、体をクの字に曲げ顔を真っ赤にして床を拭く。育児放棄で風呂にも入れて貰えないのに、家族みんなが風呂に入った後、カビが生えるからと言ってみずきに風呂場の床を拭かせて、腕を組んで見張っている義父の姿を想像してしまった。勝手に想像したことだが、無性に腹が立った。


「こういうところはカビ防止とかしてるから大丈夫だよ。もう止めな」


 自分が発せられる最大級の優しい声を意識して、俺はみずきからそっとタオルを取ると、壁に置いてあるとうの籠に濡れたタオルを入れた。


「外、行こうか」


 俺は玄関に回り、買ってあげたサンダルを持ってきて、みずきに履かせてやった。自分の娘だって長いこと会っていないし、ましてや他人の子供の足なんかまじまじ見たことなかったが、今までサイズの合わないサンダルを履かされていたせいで、足の指の付け根、親指と小指のところが皮が厚く黒ずんでいた。

 履かせている俺の姿を、みずきは上から申し訳なさそうな顔で眺めている。選んで買ったサンダルは、みずきにピッタリのサイズだ。


「ありがとう」


 気持ちを込めて大袈裟に言うわけでもなく、社交辞令のただの挨拶でもない、言われてとでも気持ちの良い感謝の言葉だった。離れて暮らす娘も、どんなに勉強できなくても、こんなお礼が言える子に育ってて欲しい、と親の役目も果たせていないのに父親風のことを考えてしまった自分が恥ずかしい。


「じゃあ、さっきのいっぱいお店並んでたところ、行ってみようか」


 また頷いた。真っ直ぐな笑顔だった。

 この素直な子は素直なままで親元に帰すべきだ。きっかけは成り行きだったが、俺はこの子を誘拐したことに意味を持ちたい。母親が自分の馬鹿さ加減に気づいて、この子のことを大切にし、この真っ直ぐな笑顔を母親の前でも出せるようにして帰したい。

 それが達成できた時、自分はどうなっているのだろう。逃げているのか、逮捕されているのか、それとも。そんな面倒臭いことは考えるのはやめた。





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