第58話 あたま

 ひゃっ、と情けなく短い悲鳴をあげてしまった。見慣れている顔なので、然程恐怖はなかったが、固まった血で髪がへばりついている紫に変色した顔は、あまり気分がいいものではない。

 刑事に見つかった時、女房を自殺したことにすればいいと考えたが、こんな血塗れの頭じゃあ自殺なんて言っても通じないだろう。頭を自分で殴打して死ぬなんて正気の沙汰ではない。切腹並の覚悟と常軌を逸した精神が必要だ。とてもじゃないが離婚を理由にそんな死に方するなんで、リアリティが無さ過ぎる。他の理由でも考えておこう。


 そんなことよりも、この露わになった女房を隠すことが先決だ。ここは高速道路だからと言って、どこで誰が見てるかわからない。オービスや防犯カメラなんかに写されたりしないとも言い切れない。警察がGPSやら何やらで世界中を監視できるのは、ドラマの中だけじゃないかもしれない。壁に耳あり障子に目あり、だ。あれ?壁の方が目だったか?まあいいや、オレは子供の頃、のところがだと思ってて、部屋の中に外国人の女がいるかもしれないから何事にも気を付けろ、という意味だと思っていてクラスの奴らに馬鹿にされた。そんななんか覚えてたって、社会人になってなんの役にも立ちはしねえ。

 それはそうと、高速だから車を路肩に停めるわけにはいかない。オレは片手ハンドルで運転しながら、左腕でバックシートの崩れたゴミ袋を女房の上に乗せようとしたが、これがうまくいかない。頭が起き上がっているので、その上にゴミ袋を載せても崩れてきてしまう。

 さっきの急ブレーキで背中に当たったのは、多分女房の頭で、女房の体は1度運転席のシートに当たりバウンドして元の位置に戻ったのだが、上半身の背中の方に隙間ができて、そこへゴミ袋がうまく入ったのだろう、そのゴミ袋が背中の支えになって、ぬくっと上半身が飛び出た状態になっている。丁度、バックシートで寝ていたところ、自分の上にゴミが乗っているので、片肘で上半身を起こし鬼の形相で睨んでいるようだ。


 怖っ。


 運転しているから前方も注意しなければならない。前を見ながら、チラッと後ろを振り返り、左手で女房の頭をグイグイ押して、背中に入ったゴミ袋を押し潰そうとするが、プラスチック容器の音なのかバキバキいっているが、状態は好転しない。これは女房の体の位置自体を直さないとダメだ。

 あまり後ろばかり見ていると、車が左に寄ってしまう。前を向いて軌道修正するが、あまり蛇行運転していると迷惑運転で覆面パトカーに捕まったらマズい。パーキングに停めて積み直した方がいいが、それまで、女房の顔くらいは隠したい。誰かに見られるのも困るが、バックミラーに映る女房の目付きはあまり気分のいいものではない。

 ずっと後ろに手を出していることにも疲れてきた。オレは鍛え過ぎた筋肉が邪魔をして、体が硬い。投げ出している左腕も痺れてくる。だんだんイライラしてきて、ゴミ袋を乗せる作業も乱暴になってくる。


 とりあえず応急処置でも、体の位置を少しずらそうと、無理やりゴミ袋を押し付けるようにして、女房の胴体の辺りを強く押した。


 ブォゥーワァン。


 ゴミ袋の山から空気を揺らす地響きみたいな低い破裂音がした。


 なんの音だ?と思ったのと同時に、脳まで破壊するような、とてつもない異臭が鼻を刺した。瞬く間に悪臭が車内に充満し、目まで攻撃してくる。


「くっさー!」


 それはドブの臭いと肥料の臭いと公衆便所の臭いを混ぜて100倍にしたところでも敵わないような、今まで嗅いだことのない、物凄い悪臭だった。何か腐った臭いと、クソの臭いまで混じっている。胸の奥から酸っぱいものが込み上げてきた。オレは走行中だが、窓を全開にした。


「ぷはっ」


 外から一気に空気が入り込み、車体が揺れた。顔面にぶつかるように風が吹き込む。

 喉の奥が痛くなって咳き込んだ。情けないやら目に染みるやらで、涙まで出てきた。


 屁なのか?いや、女房は死んでる。その悪臭はけつから出たのか、口から出たのかわからないが、女房から発せられたのは間違いないだろう。内臓とかが腐敗して、腹にガスが溜まっていたのか、無理やり押したから、それが一気に放出されたのか。とにかく臭い。

 故意ではないにせよ殺してしまったオレに対する、最後の当て付けなのか。それにしたって、この仕返しはないだろう。まあ、そのせいで女房の体の向きが変わり、頭が下に向き、そこへ崩れたゴミ袋が被さり、女房の顔くらいは自体は隠れてくれた。その上に適当にゴミ袋を乗せていった。肩が少し出てはいるが、顔が出ているよりはマシだ。


 あとでパーキングに停めてから、ちゃんと直そう。次のサービスエリアまで10キロ程。約10分、オレは死んだ女房からのお仕置きに耐えなければならない。


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