井口 雅紀
第57話 赤い車
どこで嗅ぎつけたのか、あの2人の刑事が来た。
あの鼻がいい若造が、死体の臭いを嗅ぎ取ったのか。そんなはずはない。オレも死体と共に2、3日過ごしたが、あまり臭いと感じていなかった。
昨夜のうちに部屋を片付けておいてよかった。妻の遺体は車のバックシートのゴミ袋の山に埋れている。
いつも使っていて、遅いエレベーターだと感じていたが、今日はことさら遅く感じる。押したところでスピードアップするわけではないのだが、1階のボタンを連打してしまう。
もしもあの若造が勘づいて、階段で降りていらかもしれない。もしそうなったら、車に近づけない。山積みのゴミ袋を見て、中を見せろと言うだろう。徒歩でバス停まで歩き、会社に行くフリをしてやり過ごすしかない。
ようやく1階に着くと、早歩きでエントランスを出た。外から公用通路を見上げると、刑事たちはうちの下の階に回っていた。やはりなにも気付いていないのか。ただの事情聴取するしかないだけなのだろうか。とりあえず刑事たちが降りてこなかったことに安堵すした。
平常心を装い車まで歩く。焦って早歩きになってしまっては変に勘ぐられる。態と怠そうに歩く。気持ちは急かされているが、両手をブラブラさせ
今日は朝から暑い。焦っているせいもあるが、脇と背中と掌の汗が尋常ではない。やっと車に着いた。ドアノブを引く掌が汗で滑る。ドアを開けてすぐにバックシートを確認する。女房はちゃんとゴミ袋の山に隠れている。駐車場は隣のマンションで陽が陰り、この猛暑で死体が腐敗していないか心配していたが、ドアを開けると無臭ではないが、心配していたほどの腐敗臭はなかった。スーパーで買ってきた生の豚肉くらいの臭さだった。
オレは運転席に座りエンジンをかけると、窓を全開にしようとしたが、あの鼻の効く若造刑事に嗅ぎ取られるのを心配して、少し離れてから窓を開けることにした。オレは焦らずにゆっくりと車を発進させた。豚肉臭は、なるべく鼻から息を吸わないように、口で息をして我慢した。
会社に行く途中までの経路を、バックミラーで後続車を気にしながら走る。車内が暑く感じてきたので、クーラーをかけた。暑さで腐敗が進むのを少しでも抑えられるかと思い、クーラーを強めにした。
刑事たちはあの後、下の階に事情聴取するように見せかけ、こちらを油断させて尾行してくるのかもしれない。とはいえ、刑事たちの車種を知らないから、不審な車はないかと見ているだけたが、疑えばどれも不審な車に見える。適当に車線変更したり、迂回したりしてみるが、もう後続車に同じ車が無さそうだったので、クーラーはつけたまま窓を開けた。
オレみたいな素人にわかるように尾行なんてしないだろうが、もし
世の中チョロイもんだ、と思って生きている。
もしも刑事に
嘘は突き通せば真実になる。嘘に証拠なんてないんだから、どんなに刑事に問い詰められても突き通せばいい。そう考えていると、オレが女房を突き飛ばした現実が薄れてきて、本当に自殺したんじゃないかと錯覚さえする。嘘を吐く時は、まず最初に自分自身を騙すことから始めないといけない。それは、むかしからオレの特技だ。
なるべく早く、できるだけ遠くに捨てたい。単純なオレは、無意識のうちに高速に乗っていた。新東名の静岡インターから入った。東名高速道路より、新東名の方が車線が広い気がする。並走して走る車は道路が広いので離れていて、バックシートに見られてはいけないものを乗せているオレにとっては、その方が都合が良い。
空は青く雲一つ無い晴天で、まさにドライブ日和。高速に乗る前に窓は閉めたので、少し豚肉臭を我慢している。こんな清々しい天気の日に、曇った気分でドライブとは皮肉なもんだ。車に乗せているのが若い女だったら、どんなに気分がいいだろう。
取引先の、あの若い
それには金がないとダメだ。そこで思い出したのが常田のことだ。電話に出やしねえから腹が立つ。まあ長年の経験上、オレが金の無心をしようとしているのを勘づいたのに違いない。もう少し時間をかけて、もっと親交を深めてから動けばよかったが、今回は少し焦り過ぎた。もしかしたら
常田のあの落ち着いている雰囲気というか、あまり周りを気にしない、どこか達観したようなあの目付きが気に入らない。
居酒屋で話している時、お前は結婚しているかの質問に肯定も否定もしなかったが、その後オレの娘の話をしていると同調するような反応を見せていたので、アイツにも娘がいることは確実だ。アイツは普通に恋愛して、普通に結婚して、普通の収入で、普通に家族で食卓を囲んでいるような、当たり前の普通という奇跡を手に入れているのだろう。それがどんなに幸せなことなのか考えもしないで、普通に暮らしているのだろう。アイツは、むかしからそういうタイプだ。オレが好きだった子がアイツを好きだったように、オレが手に入らないものをアイツは持っている。それが気に喰わない。
どうせ金をくれないのなら、不幸になってほしい。さっきあの刑事たちに常田のことを
アイツが冤罪で捕まって家庭崩壊して、あの若造刑事が冤罪の不祥事で叩かれれば、一石二鳥だ。あの2人が不幸になることを想像するとニヤけてしまう。
だが、サンダルを持っていたというだけでは、容疑をかけるのに弱いのではないか。もっと尾ビレ背ビレつけて、大袈裟に伝えればよかったか。例えば、高校生の頃小さい子供にちょっかい出して近所で怪しい目で見られてたとか、ミリタリー趣味でモデルガンを改造して公園で小動物を撃っていたとか。
そう言えば思い出したんですけどー、なんて言って刑事に電話してやろうか。
まあ、それは女房を処分してから考えよう。まずは自分に疑いの目がかからないように、身綺麗にしておかなければならない。
ふとバックミラーに目をやると、赤い車が少し嫌な走り方をしていた。4台後ろから追い越し車線からグイグイ抜いて、オレの後ろに入ってきた。オレの右側にはトラックがオレと同じスピードで走っている。赤い車はオレも抜きたいのだろうが、抜けないから諦めてオレの後ろに着いたのだろう。車間距離を詰めて威圧してくる。今、流行りのあおり運転か。
こういう野郎は本当に頭に来る。徒歩でこんなことしてきやがったら、投げ技でも喰らわしてやるのに。車という箱に守られてるから自分は安全地帯にでもいるつもりで気が大きくなっている。この手の野郎は、たいてい車オタクの童貞野郎だ。
オレは態とスピードを緩めてやった。童貞野郎はアホだから、案の定、追い越し車線に入りオレを抜かそうとするが、童貞野郎が左ウインカーを出す前にスピードを上げて、また追い越し車線のトラックのケツに並んでやった。どうだ、抜けねえだろ。赤い車はエンジンを
そんなくだらないことを何度か繰り返していると、走行車線を走るトラックが左ウインカーを出し、車線をこちらに変更しようとしていた。オレの車が死角に入っているのか、ジリジリと車を寄せてくる。瞬時に後ろを確認し、赤い車が後続にいないことを確認すると、ブレーキを強めに踏んだ。体が少し前のめりになった。運転席のシートに重いものが当たった衝撃があった。バックシートでゴミ袋の山が崩れて、ビニールの擦れる音が聞こえた。
赤い車が煽ってくるので、道を譲ったのだろう。トラックが前方にゆったりとそのデカい図体をこちらの車線に移動させると、赤い車はこちらに聞こえるようにエンジンの音を響かせ、あっという間に走り去った。
間一髪だった、と安心したのも束の間、後ろを向くと、崩れたゴミ袋の山から女房がずり落ち、上半身が露わになり、オレと目が合った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます