第56話 リリー(2)

 老人は眉間にシワを寄せて、指で額の皺を示した。


「こうやってな、オデコに力を入れてな、ジッと相手の目を見りゃあ、その為人ひととなりがだいたいわかるんだ。な、アンタはねえ」


 老人はその顔のまま、グッと顔を近づけてくる。この炎天下に汗一つかいてなく、肌がパサパサで、皺は切れ目のように深かった。老人はほとんど白目をいていて、超能力でも捻り出そうとしているのか、うーんうーん、と唸り始め、俺はその皺に吸い込まれるのかと思った。


 リリー、リリーと呼びながら動き回るみずきをリリーは素直に追いかけていたが、みずきの側にもう1匹同じ犬種の小型犬が寄ってきた。その犬はリリーより一回り大きく、こちらは老婆がリードを引いていた。しまいにはリリーに絡みついて、互いにキャンキャン吠えていた。みずきはリリーを守ろうと抱き抱えると、その犬が牙を剥き出してみずきに飛び掛かろうとするので、老婆はリードを引っ張った。


「こら、リリー。待ちなさい。お嬢ちゃんがビックリしてるでしょ!」


 リリー?そっちの犬も同じ名前なのか。

 老婆の後ろから、俺と同世代の夫婦と子供が近寄って来た。どうやら老婆の家族らしい。旦那の方が、吠える犬を撫でて落ち着かせてから抱き上げた。


 老婆は、本当にすみません、と俺に頭を下げて、みずきに、大丈夫?と声をかける。みずきが小さく頷いた。こっちのリリーはキャンキャンと、みずきの腕の中で吠えている。


「わかった!アンタ、片親だろ」


 老人は俺の耳元で大声を上げると、さっきの老婆が、アナタ!と怒鳴った。


「人様に失礼でしょ。今はそんな言い方しませんよ。申し訳ありません、この人、本当に言葉を知らないんです」


 そう言って老婆が頭を下げた。そして老人の袖を引っ張る。


「アナタ、勝手に1人でどこ行っちゃうんですか。探しましたよ」


 どうやらこの老人と老婆は夫婦のようだ。

 それじゃあこの夫婦は、息子夫婦なのだろうか。なんだ、仲いいじゃないか。


「すまん、すまん。トイレまで歩いたら疲れちゃってな。それでここへ座ってたら、リリーちゃんがあの子に懐いて、可愛がってもらってたんだよ」


 そう言う老人の腕を老婆が叩く。


「お父さん。こっちがリリーで、お父さんが連れてる方はフランキーですよ」


 息子が説明した。オスがフランキーで、メスがリリー、何度言ったら覚えるんですか。

 リリーとフランキー。なかなか面白い名前を付けるなあ、と感心していると、そういう細かいところが好かん、と老人は大声を上げた。


「ごめんなぁ、お嬢ちゃん。お爺ちゃん、間違って名前教えちゃったな」


 みずきはずっと間違えて呼んでいた気恥ずかしさで、返答に困って複雑な表情をしていた。


「本当にウチの父がお邪魔して申し訳ございません。何か迷惑おかけしませんでしたか」


 息子は背が高く姿勢が良く、引き締まった体の持ち主で、Tシャツにジーンズといったラフなスタイルだったが、その腕はしっかりと鍛えられたもので、「」と老人が話でイメージした人物像とは正反対の凛々しい男だった。やっぱり老人は、どこかの大きい会社の人間なのだろう、息子の付けている腕時計や靴も高級品ばかりだった。だが、息子は嫌味のないシンプルな物を選んでいるか、それらを上品に着こなしていた。


「リリーちゃん、フランキーなの?」


 みずきは抱き抱えた小型犬に泣きそうな声で訪ねていた。それを見た老人は、心が痛んだのか息子の胸を小突いて、バカモンが!とまた大声を上げた。


「ほれ、お前。名前なんてどっちでもいいんだよ。そんな細かいこと言うから、お前はダメなんだ」


 この老人、本当は優しい人なのかもしれない。他人より、ちょっと不器用なだけなのだ。


「ダメとはなんですか。お父さんより、しっかりやってますよ。それよりもお父さんの方が身勝手で周りを全然見てないじゃないですか。もっと周りに配慮するとかできないんですか」


 なんだか親子喧嘩になってきてしまった。

 息子が言ってることが、ごもっともだ。こんな口煩い父親と一緒に仕事をしていたら、家でも外でも気の休まる場がない。本当は片時でも離れていたいだろうに、こうやって旅行にまで連れてきてもらっておいて、その言い草はないんじゃないかと息子の味方をしたくなる。

 こうやって口論になっているのも自分たちが原因じゃないかと思い、この喧嘩を収めるための言葉を探した。


 息子の後ろにその妻と息子、老人の孫と思われるみずきと同じ年頃の男の子が立っていた。みずきは、そっと男の子に近づき、抱いた小型犬をその男の子に返した。男の子は1回受け取ろうとしたが、もう少しいいよ、と言って顔を赤くして後ろに下がった。ありがとう、とみずきは素直に言ってリリーもとい、フランキーに頬擦りをした。


「息子さん、ちゃんとしたかたじゃないですか。お父様のことが心配なんですよ。それに息子さんも、ね、なかなか素直になれませんが、きっと皆さんとこうして旅行できるのが嬉しくて舞い上がってるんですよ。ね、2人とも。喧嘩はやめましょう。お孫さんが見てますよ」


 今まで揉め事にはなるべく関わらないように生きてきたつもりだ。むかしから喧嘩というのが苦手で、女房から別れを切り出された時も、反論せず素直に受け入れた。自身のことでさえそうなのだから、他人の揉め事なんて避けて通ってきた俺にはうまい言葉が見つからない。月並みな台詞しか出てこなくて恥ずかしい。


 老人の孫は、自分の可愛がっているペットがみずきに懐いていることを嫉妬しているのか、居心地悪そうにモゾモゾと足を動かしたり、腕を掻いたりして誤魔化している。みずきと老人の孫は同じ歳だが、男という生き物は幼い。女の子の前でカッコつけたがる。みずきに懐いていることを半分は嬉しくも感じているのだろう。自分でも説明つかない葛藤があって、それを外に出すまいと、顔が歪んでしまうのを日差しのせいにしようと、手を額に当て日除ひよけにし、顔をしかめていた。


 シュパーン!


 みずきと老人の孫は、驚いて体を硬くしている。芝生の方でなにか破裂音がした。芝生の噴水で遊ぶ子供たちの悲鳴が聞こえた。スプリンクラーの噴射口のノズル破裂したようだ。空に向かって勢いよく水柱が立っている。

 噴射しているスプリンクラーを跨いだりして遊んでいた子供も、それを見守っていた親も、みんなずぶ濡れになっていた。さっきまで子供に注意していた母親も、キャーキャー言っていた子供と一緒にずぶ濡れだ。大人の体裁なんかもうどうでも良くて、みんな開き直って大笑いしていた。大人だって、むかしは子供だったし、こんな暑ければ濡れた方が気持ちがいい。子供も親もみんな童心に帰って、楽しそうだった。みんな引っくるめて、になった。

 水柱は3メートルは優に超えるくらいの高さまで勢いよく噴射している。壊れてしまったスプリンクラーから俺がいるところまでも5メートルほど離れていると思うが、水飛沫みずしぶきが霧となって舞っている。そこへ虹がかかった。


「わあ、きれい」


 みずきは澄んだ目で虹を見上げた。

 老人の孫も同じような目で虹を見ていた。

 それを童心に帰ったコドモたちも同じように見上げていた。時に神様は粋な演出をする。


 老人とその息子も喧嘩を忘れ、それを眺める。

 老人は俺の腕をつつき、満面の笑みを向けてきた。


「ああやって、綺麗なものを綺麗と素直に言える子供に育てたんだな、アンタは」


 わかったような顔で老人は頷いた。

 本当に親子と間違われて悪い気はしなかった。俺もこの虹の下でだけは、素直になることにした。現実問題他人の子供だから俺が育てたんじゃないとか、誘拐してしまったのだからいずれは親元に返さなければならないとか、そういう面倒なことは今考えないことにした。ただ単純に、この老人の目から見て親子に見えたことを素直に嬉しいと感じよう。


 老人は別れ際に、「またどこかで会えると良いな」と握手を求められたが、息子から「父さん、もう迷惑ですよ」と連れられて行ってしまった。振り返りざまに、「あと、マスコミに気を付けろよ。あいつらは嘘ばかり吐くからな」と訳の分からないことを言いながら、俺たちの前から去って行った。

 面倒で鬱陶しかったが、なぜか憎めない老人だった。




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