第59話 眼鏡の細い男
やっとサービスエリアに着いた。悪臭に耐えた時間、約束8分。オレの今までの人生の中で1番長く感じた8分間だった。
パーキングに着くとすぐに車を停めた。普通サービスエリアに着くと、なるべく売店に近いところを探すが、バックシートには女房の死体があるため、人目を避けて遠いところに停めた。それよりも、早く車から出たいことが最優先で、転げ落ちるように外に出た。
やっと正常な空気を吸えたので、生まれて初めて空気が美味いと感じた。空気が美味いという人間と、味付けしていない生野菜を食って素材の味がとか言う人間をオレは信用しないようにしているが、今後考え方を変えなければならない。
まだこの新鮮な空気を吸っていたかったが、女房の体を隠す。ゴミ袋の山になっているだけでも他人の注目を浴びる危険性があるので、念入りに隠さなければならない。オレは運転席から後ろに向けて、片足だけ後部座席に突っ込み、女房の体を露わにすることはできないのでゴミ袋の山に手を突っ込んで、女房の体を真っ直ぐにした。仰向けだと、またゴミ袋が崩れた時顔が見えるので、服の袖とスラックスの
とりあえず女房の体が綺麗に隠れたところで、オレは車から降りた。運転席と助手席の窓を4〜5センチ開けて鍵をロックしようとリモコンキーを押すが、ピュッピューとブザー音が鳴り、ドアがロックされない。ちゃんと閉めていないとロックされないという最近の技術に少々不便さを感じる。まあいい、盗まれて困るものもないし、どうせなら誰かこの遺体を盗んでいってくれ、と投げやりにオレは車から離れた。もし遺体を見つけられてしまったら、車を置いて逃げればいい。第一にこの安全な国、日本で勝手に車を開けるような奴の方が犯罪者だ。
とりあえず便所に向かった。吐こうと思っても吐くものがなく、車から降りたことで吐き気は治ったので小便だけすませた。口から息を吸っていたので喉がカラカラだった。便所から出ると自動販売機で水を買った。ただの水なんて金を出して飲むもんじゃねえ、と思っていたが冷えたミネラルウォーターがもの凄く美味いと感じた。空気や水が美味いなんて、今日はなかなか人間らしく生きている喜びを感じる奇妙な日だ。そんな感情を死体を運ぶ最中に感じるとは、なんとも皮肉なもんだ。
美味い空気に美味い水を飲んだら、なにか美味いものを食いたくなった。我ながら呑気なもんだ。今なら何を食っても美味いだろう。オレはイートインスペースに向かった。時計は11時だが、昼前というのにイートインスペースはほぼ席が埋まっていた。夏休み前だとは言ってもリゾートシーズンだ。それに今日は平日、長距離運転手など作業着を着た男たちの方が多い。旅行客で混み合う前に食事を済ませようとしているだろう。仕事中の男たちは食うのが早く、回転率が良い。すぐに席が空いた。
空いた席を確保するために、手ぶらだったオレはネクタイを外して席に置くことにした。
仕事に行くフリをして出掛けたわけだが、こんなに暑いのになんで今までつけてたのだろう。ちょっと前までクールビズやビジネスカジュアルなんて言って喜んで着てたけど、どこの会社もそんなこと面倒で定着しなかった。朝急いでいる中でお洒落するなんて時間はない。スーツならスーツと決められている方が楽なのだ。ノータイくらいは定着した感があるが、頭の堅いオレの上司は「しなくてもいいから付けないは違う。これは意識の問題だ。相手に礼儀を払う身嗜みでいること、それがビジネスマナーだ」とか言って、オレの部署だけは全員着用を義務付けられている。だいたいこういう上司に限って仕事ができない。
急いで食券を買いに行く。食券販売機の前で、眼鏡をかけた細い体型の男がやたらと悩んでいた。ボタンを押す人差し指をあちらこちらに動かして、なかなか押さない。オレは列に並んで、その間に生姜焼き定食に決めた。こういう場所でメニューを悩むのが嫌いだ。どれを食ったって、どれもそんなに美味くもなければ不味くもない、と言ってやりたい。その気持ちが出てしまったのか舌打ちをしてしまい、振り返ったそいつが、お先にどうぞ、と弱々しい声で順番を譲ってくれた。
金を入れてすぐにボタンを押した。一応申し訳ない気持ちも少しはあったので、悪いね、とそいつに言ってカウンターで食券を渡すと、呼び出しブザーの白い四角い機械を渡される。
ただたまに、こんなもんに金出したくもない不味いものに当たる場合もあるので、悩む気持ちはわかる。そこでオレはどこへ行っても、たいてい生姜焼き定食と決めている。生姜焼きというのは、どんなに料理がヘタクソな奴でも、生姜を入れればとりあえずその味になる、ハズレが少ないメニューだ。生姜焼き定食が無ければ、冷たい蕎麦かうどんにするのも同じ理由。温かい蕎麦だと、たまに不味いものもあるので避けている。
それに生姜焼き定食は出来上がるのが早い。セルフサービスの水を入れて席に着いてすぐに呼び出しブザーが鳴った。カウンターに取りに行くと、眼鏡の細い男はまだ食券販売機の前で悩んでいた。
荒いキャベツの千切りと、味噌汁とご飯。もうちょっと入れてくれてもいいんじゃないのと言いたくなる量のシバ漬けの小皿。親切にも小さい冷奴の小鉢も付いていた。それを一気に掻き込む。むかし部員の後輩に、「井口さん、早いっす。ほぼ噛んでないっすよね」と言われたことを思い出した。そんなどうでもいいことを思い出している場合ではない。車の中には、まだ女房の遺体が転がっているのだ。それに車のドアはロックしていない。側を通った人があの異臭に気付いて、中を覗かれないとも言い切れない。それにこの気温だ、少しの時間で腐敗が進んでしまったら、処分する場所までオレの鼻が保たない。あのガスがもう1発出たら、鼻が曲がるどころか、鼻の向きが180度ひっくり返ってしまうかもしれない。まあそんなバカなことはないだろうが、オレは自分の鼻の穴が上を向いて、鼻息を出す度に前髪が揺れる姿を想像して笑いそうになった。緊張感を持たないとダメだ、まだ1つも解決していない。女房の遺体も車にあるし、金もない。慌てたところでどうしようもないので、もう1杯水を飲んで落ち着こうとするが、さっきの若造刑事の顔を思い出してイライラした。
あのイライラする顔を思い出すと、もう1人のイライラする顔も浮かんできて、そのもう1人に電話をした。やはり勘づいているのか、常田は電話に出ない。余計にイライラした。奥歯の隙間にキャベツの千切りが挟まっているのもイライラした。爪楊枝で取ろうとするが、なかなか取れないのでそれにもイライラした。
オレは爪楊枝を咥えたまま立ち上がって、食べ終わった食器のトレイを持ち、さっきの店のカウンターの食器返却口に乱暴に乗せた。ガシャンと食器のぶつかる音がして、奥から気持ちの籠もっていない、ありがっした〜、という声が聞こえた。さっきの眼鏡の細い男は、観葉植物の影に隠れたゴミ箱の隣の席で、こそこそとカレーを食っていた。あれだけ悩んでカレーなのか、と見下した視線を送り、奥歯のキャベツを取ろうと、爪楊枝と舌ベラで奮闘する。チャクチャクと汚らしい音が口から漏れてしまう。
それに気づいた眼鏡の細い男は、すみません、と聞こえないくらい小さな声で肩を
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