第50話 誓い

「彼女は首を吊った状態で発見されたんです。警察は、たいして調べもせず自殺として処理されました」


 目の前の鰻丼は、もう冷えてしまった。運ばれてきたときのホクホクとした湯気は、もう消えてしまっている。僕はまだ3分の1ほどしか手をつけられていない。篠山さんも僕よりは食べてはいるが、僕の話のせいであまり進んでいない。いつもはガツガツ放り込み、あっという間に平らげてしまう。健康診断では胃腸が悪い結果が来て、問診のとき医者に、食べ物を噛む回数を増やしましょう、と注意されたほどだ。


 篠山さんは箸で鰻をつつきながら、眉間に皺を寄せ、んん、と唸っている。箸で鰻を少し切って、米と一緒に持ち上げたが、それを口には運ばず、もう1度丼に戻した。


「お前は、それを自殺じゃないって、考えてるのか」


 言葉を選んで、捻り出すように言った。

 僕は、それを肯定も否定もしなかった。店内は客が減り、残っているのは僕たち以外に老夫婦が1組いるだけになっていた。厨房からは洗い物をしているシンクの水の音と、皿と皿がぶつかるカチャカチャした音が響いていた。引き戸の滑車の音がした。女将さんが暖簾を内側に仕舞っていた。


「親に殺されたようなもんです。誘拐事件というよりも、親の虐待が許せないんです。僕は椎名恵を助けることができなかった」


「自分の責任に感じてるのか?」


 それに対しても、僕は肯定も否定もできなかった。うまく説明できない。でも僕がなにもしてあげられなかった、そうなる前に止めることができなかったことには変わりない。


「だから、さっきの三輪の言ってた奴のことが引っかかってんのか。虐待じゃないかっていうの」


 今度は肯定した。虐待だと思われる原因が、父親と血が繋がっていないこと、それが椎名恵の件とタブらせてしまう。


「まさか、そんな昔の件が、連続幼女殺人と関わってるって言うんじゃないだろうな」


「いや、そういうわけじゃありません」


「まあ、お前の親父さんが言うように、虐待ってのは立件が難しいんだよな。その虐待を受けてる子供自身が訴えないと表に出にくい。そんな場面に出くわしたって、関係ない人間が口出しすりゃあ名誉毀損で訴えられても困るしな。ただ、お前が親父さんを見限ったのは、そういうところじゃないんだろ」


 篠山さんは説明できないところも、ちゃんと汲み取ってくれる。父には出世すること、偉くなることが目的なのだ。子供の頃の自分はそう感じ、今もそう思い続けている。父にも警察官としての志はあるのだろう。自分が出世した時に今よりももっと市民が住み良い環境になっていることを願っている筈だ。僕が見ているよりも、もっと大きな枠で市民を、世の中を守っていかなければならないと考えているのだろう。

 今では、それが父の仕事だということが理解はできる。頭では理解ができるが、感情としては肯定できない。そこには小さなこと、細かいことの、目の前の1人を助けるということが抜けている。

 1人1人守ろうなんて、そんなのは不可能だということはわかる。世の中にどれだけの警察官が必要なんだっていう話になってしまう。でも、その助けを求めている人を無視するなんて、僕にはできない。それが父と僕との違いだ。

 兄は器用な人だ。損得勘定で周りに合わせることができる。僕には、そんな真似できない。


「僕には将来の夢とか、他になりたかった職業があったわけではありません。物心ついたときから警察官になるもんだと思ってました。でもその1件で、警察に幻滅、というか父にですかね。警察官の父に幻滅し、かといって他のことをするまでの反骨精神もないから警察官以外考えられなくて。だから、父みたいな警察官じゃない警察官になろうと自分に折り合いをつけて、父のいる警視庁ではなく地方警察官を目指しました」


 椎名恵が死んでしまった街にいることに耐えられない、というのが本音だった。東京でなければどこでもよかった。それに父と一緒にいることで、自分が染まってしまうのも怖かった。

 篠山さんは、漬物の胡瓜を放り込んで、医者に言われたことを忠実に守るかのように、ものすごく時間をかけて噛み、悪くないね、とボソっと呟いた。

 それは胡瓜の味に対してなのか、僕の志に対してなのか、それを誤魔化すためどちらかわからないような言い方にしたのか。その返事にどこかホッとする。今まで誰に言えなかったことを吐き出して、どこかスッキリしている自分がいた。


「よく篠山さん言うじゃないですか。目の前の困った人を助けるのが仕事だって」


 篠山さんは照れたように目を晒し、残りの鰻丼を一気にかき込んだ。丼を空にするとおもむろに席を立ち、カウンター席に置いてあった急須を持ってきて、湯呑みにお茶を注いだ。


「まあ、あれだな。俺たち一警察官には、そのくらいの小さいことしかできないからな」


 そう冗談めかして言って、湯呑みのお茶を飲んだ。


「でも、それが1番大事なことだと、俺は思っている」


「事件に、大きいも小さいも無いですもんね」


 そうだ、とテーブルを大袈裟に叩き、僕の方に指を差す。そしてまた急須からお茶を汲もうとすると、中身が空になっていた。

 その急須を女将さんが、ポッと取り上げた。


「お茶無いなら無いで、ちゃんと言ってよ。気が利かない店だと思われちゃうでしょ」


 女将さんは僕の方を向いて、ねぇ、と同調するように促してから、僕の丼を覗いて、あれ?と素っ頓狂な声をあげた。


「なぁに。全然食べてないじゃないの。口に合わなかった?」


「いや、そんなんじゃないです。美味しいです。ちょ、ちょっと篠山さんに相談してて、話してばかりで食べるの遅くなっちゃっただけです」


 僕は慌てて答えた。


「いいのよ、無理しなくて。あたしが鰻食べる時は、もっと美味しい店行くもん。この人がケチってこんな安い店連れてこられちゃってねえ。若い人に奢る時は、ちゃんと高い店連れてってあげなさいよ」


 女将さんは、パンッと篠山さんの肩を叩いた。


いてえな。こっちは真面目な話してんだよ!いちいち首突っ込んでくんな!」


「なによ、その言い方は。こっちだってね、夜の仕込みがあって忙しいんだから。あんたも若いんだから、不味くたってなんだって、カカカッと食べちゃいなさいよ。そんなしょろしょろ(静岡の方言で、ノロノロ)して食べてるから冷めちゃったじゃないの。冷めると余計に不味くなるわよ」


 口が悪いのも、この女将さんの特徴だ。でもこういうサバサバした感じは嫌ではない。僕は、すみません、すぐ食べます、と言って急いでかき込んだ。女将さんが言うように、けっして不味くはない。むしろ冷めても美味しかった。


「オメエは、黙って聞いてりゃお客さんの前で不味い不味いって。俺が作ったもんに文句あんのか!」


 と厨房の奥から旦那さんの怒鳴り声が聞こえた。


「なんだって!あたしが不味いって言えば、お客さんの方が不味いって言えなくなるでしょ。有難く思いなさいよ!」


 女将さんは厨房に向かって怒鳴り返し、僕たちの方に向かって舌を出してニヤついた。そしてレジの前にいた老夫婦に気がつくと、急いでお勘定をしに行った。ご馳走様、と老夫婦が店を出ると、お粗末様でしたー、とおどけて、またこちらを向いて舌を出す。

 奥から旦那さんがタオルで手を拭きながら、店頭に出てきた。


「本当にうちの奴が騒がしくてすみません。毎度ありがとうございます。店は閉めますけど、どうぞゆっくりしてってください」


 旦那さんは白髪頭の丸坊主で、背が小さく優しそうな目をしていた。女将さんはいつも見るが、旦那さんは初めてだった。


「なに言ってんの、アンタ。早く片付けないと、夜の仕込みがあるんでしょ。それにアンタたちも、いつまでもこんなところで油売ってんじゃないよ。だから税金泥棒だって言われちゃうんだよ。しっかり仕事してきなさい」


 篠山さんがお勘定を済ませると、旦那さんは小さい背中を丸くして、本当にすみません、と頭を下げるのでかえって申し訳なくなってしまう。


「いえいえ、僕も女将さんと篠山さんの会話で楽しませてもらってるので、気にしないでください」


 パンッと、僕の背中にも衝撃が走ったかと思うと、やはり女将さんの仕業だった。女将さんは僕の顔を見ながら笑顔で親指を立てている。


「若いのに一人前のこと言うね。なんだか知らないけど、もっと美味い物食べて元気出しなさい」


 そう言って見送られた。しばらく歩いて振り返ると、仕込みの時間で忙しいと言っていたのに、まだ店先に立ってこちらを見ていた。僕たちが振り向いたことに気づくと、大きく手を振ってきた。不味いけどまたいらっしゃい、と大声を出していた。僕は姿勢を正し、深く頭を下げて礼をした。


 篠山さんは片手をちょいと挙げただけで、ポケットに手を突っ込んで歩き出す。僕は急いで後をついていく。


「で、お前はどうしたいんだ?」


 篠山さんは踵を止めて、そう訊いてきた。僕は少し間を置き、


「この事件を終わらせなきゃいけない、と思います」


「どっちの、だ?」


「どっちもです」


 僕がそう答えると、篠山さんは軽く頷いて、また歩き出す。そうだった。事件にどちらが優先とか、そんなことはないんだ、そんな当たり前のことを忘れかけていた。

 やっぱり篠山さんに話して良かった。それにこの人の部下で本当に良かった。まだ全てを話したわけではないが、話したことで自分の中でも区切りみたいなものをつけることができた。井口雅紀の元妻の件も、関みずきちゃんの件も、また日々起こる他の件も、どれも解決しなければならない。その上でなお一層、関みずきちゃんの件はこの手で解決させたいと、死んだ椎名恵に誓うのだった。

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