第49話 椎名恵

 椎名恵は、幼馴染みというほど親しくしていたわけではない。だがまだ幼い頃の僕は少し深入りし過ぎてしまった。


 僕が中学受験の頃まで話は遡る。僕は進路について悩んでいた。僕は小さい頃は成績も優秀で、周りはだと思っているから、小さい頃からお利口だと言われるし、努力なんてしたこともなかった。学校の成績なんて提出物の期限を守ることと授業態度が良ければ、テストで相当悪い点を取らなければ家で勉強なんかしなくてもなんとかなる。テストも授業でやったところ以外は出ないし、テストに出す問題まで教えてくれる先生までいる。

 でも塾での受験対策となると違う。兄が通っている有名私立中学を志望していたので、塾でもSクラスと勉強ができる子供たちが集まっていた。兄もその塾に通っていたから、すぐに兄と比べられる。元々暗記は得意ではなかったし、頭のいい他の連中の雰囲気にも圧倒されていた。塾で周りについていけないのと兄と比較されることのプレッシャーも重なり、次第に学校での成績も下がっていった。塾をサボるようになるのは自然の流れだった。

 仮病を使って自室でサボっているのが父親にバレてからは、塾の時間には外出し、ゲームセンターなどで時間を潰していたが、夜食代と貰ったお金ではそうそう保たない。そもそもゲームはそんなに好きではなかったので、コンビニで菓子パンやジュースを買って、塾の近くの公園でマンガや小説などを読んで過ごすようになった。たまには塾に顔を出さないと、またサボっているのがバレるので、終わり頃に行ったり腹が痛いと早退したりしていた。

 そんなだから私立中学の受験は当然落ちた。友人には、皆んなと同じ公立中学へ行くためにわざと落ちた、と言っていた。もちろん言い訳で、離れ離れになって寂しいと思える特定の友人もいないが、殆どが知らない奴のいる私立中学へ行くよりはマシに思えた。これで兄のようなエリートコースから外れた。無論、警察官になってもキャリアの道は断たれた。

 だがこの頃は警察官を目指す意欲は薄れていた。その頃に椎名恵に出会った。そして椎名恵の件で警察に対し嫌悪感を抱くまでになった。


 その日は下校して家で30分くらい休んで午後4時半から塾だった。いつものようにコンビニで菓子パンと炭酸飲料を買って、公園へ向かった。昨日降った雨で公園には、いくつかの水溜りができていた。木製のベンチは湿っていたが、ズボンを濡らすほどではなかったので、ベンチに座り文庫本を開いた。

 夜食と言ってもまだ夕方で、塾が7時に終わって帰宅すれば夕飯が用意されている。今しっかり食べてしまうと夕飯が食べれなくなってしまう。夕飯を残すと父親に叱られるから、菓子パンを半分くらい食べ、残りを千切って公園に集まっていた鳩にくれてやっていた。その様子を女の子にじっと見られていた。何処に住んでいる子かは知らないが、見たことがある顔だった。多分同じ小学校の低学年だろう。肌が浅黒く、表情のない子だった。

 僕は無視してパンを千切り続けた。それでもじっとこちらを見つめているので、少しイラついて、その子が視界に入らないように体をずらすと、水飲み場の横に立て札が立っているのが目に入った。


『鳩や野良猫にエサをあげないでください』と書かれている。自分よりも幼い子からの無言の抗議で腹が立ったのと体裁の悪さで、僕は席を立ち、残りのパンをベンチの横の屑籠くずかごに捨てた。塾の終わる時間まではまだ早すぎるが、公園を出た。

 歩道に出て振り返ると、女の子は屑籠の中を覗いていた。


 なんだか気味の悪い子だ、と少し嫌な気分になったが、その後、塾の終わる時間までコンビニで時間を潰して家に帰り、寝る頃にはその子の存在を忘れていた。


 塾は火曜と木曜と土曜の週3日だったので、また1日空けて公園に行くと、その子は公園にいた。そしてまた僕のことをじっと見ている。その次の塾の日も、そのまた次の塾の日も、僕が公園で塾をサボっていると、その子はいた。回数を重ねるごとに気付いてきたのだが、段々と距離が縮まっている。初めて見てから3、4週間経った頃には、隣のベンチまで接近してきていた。そしてジッとこちらを見ている。

 彼女は僕の手元のパンを見ていた。僕はまだ封を開けてない方の菓子パンを袋ごと渡すと、彼女は首を振った。それでも無理やり渡すと、彼女は頬が緩んで封を開けたが、僕に目を向けると食べずに膝の上に置いた。いいよ食べな、と僕が言うと少しずつ齧り始めた。ゆっくり時間をかけて食べていた。僕は塾が終わるまでの時間、それを無言で眺めていた。

 彼女は見窄みすぼらしい格好をしていた。サイズの合っていない服に、汚れた靴下と傷だらけの膝。風呂に入っているのかも分からない、束になって固まった髪。きっと家が貧乏なんだ、と子供ながらに思った。可哀想だと思ったわけではない。鳩や野良猫に餌をあげるのと一緒の感覚だった。

 それから何度か公園で顔を合わせ、同じようにパンやオニギリをあげた。最初は僕を見つけるとジッと見ているだけで近づいて来ないので、手招きで呼んでパンやオニギリをあげていたが、次第に慣れてくると、食べ物を目当てに寄ってくるようになった。鳩や野良猫と一緒だ。何度か顔を合わせるうちに、名前は椎名恵だと教えてくれた。相手の名前を知ると、もう鳩や野良猫ではなくなってくる。次第にコンビニに寄った時に彼女にあげるために食べ物を選ぶようになっていた。

 傷だらけの足や腕を見て、最初は学校で虐められているのかと訊くと、首を横に振った。学校では虐められるどころか、誰とも接してないという。それはそれで虐めではないかと子供心に思ったのだが、無視されてるのでは傷はつかないのだろう。学校での虐めでなければ、親の虐待しかない。彼女がという言葉を使ったのではない。僕もという言葉を知ってはいるが、それがどんなものか理解できていない。僕の父親の厳しさと、暴力を振るう虐待との区別が曖昧で説明つかない。ただ手を挙げるだけではなく、そこには躾やも介入することは、小学6年生の自分にもなんとなく認識しているつもりだった。僕にできることは、椎名恵の話を聞いてあげることしかない。

 彼女には歳の離れた小さい妹と弟がいるのだそうだ。母親が再婚して生まれた兄妹。弟はまだ生まれたばかりで、母親は弟の面倒が大変なので、自分が暴力を振るわれても仕方がない、と言う。どうしてのか僕は理解できなかったが、彼女が母親を守ろうとしていることだけは伝わった。

 食事は学校の給食だけしか食べていないから、僕と会うこの時間は腹が減っているのだ。だから初めて会った日、僕は追求はしなかったが、屑籠に捨てたパンを拾って食ったのだろう。

 だから僕は、この公園へ来ることを、彼女に食べ物を持ってくることを止めるわけにはいかない、大した正義感でもないのに、そう思った。塾がない日にも学校の帰りに公園に寄り、コンビニの食べ物や態と残した給食の残りなどを彼女にあげた。


 なんのために生まれてきたのか、わからない。


 ある日、彼女はそう言った。

 兄と比べられて、ただ不貞腐れているだけの豆腐みたいなやわな胸を、ぶわっと手掴みで潰されてた感じがした。その崩された豆腐に、その言葉が浸透して固まっていった。そのストレートな言葉は、誰もが1度は思うことなのかもしれないが、まだ不安定な思春期の精神では口にしてはいけない言葉のようで、それを自然と口にした彼女に対し、神のお告げや崇高な啓蒙家の言葉でも聞いたかのような錯覚を受けた。食べ物を与え優越感でも感じていたのだろうが、その言葉の後には、僕は彼女の使徒となってしまった感覚がした。

 今思い出せばそう言葉を並べるが、まだ子供だった僕には説明できる言葉がなく、ただ彼女が特別な存在になってしまった。なぜか四六時中彼女のことを考えてしまう。この感覚をうまく説明てきなかったが、それがというものではないことだけは断言できた。


 それから暫く経って、椎名恵を住宅街で見かけた。

 彼女は家族と一緒に歩いていた。彼女の母親がベビーカーを引き、彼女の義父が妹を抱いて、その少し後ろを彼女が歩いていた。家族はどこかへ出掛けた帰りで、楽しそうに話しながら1軒の家の前で止まり鍵を取り出していた。彼女の家だ。

 彼女の家は、親が暇なく仕事をして、それでも育児に翻弄して服を買う金もなく、食事も満足に与えられない貧しい家庭だと思い込んでいた。彼女の家は誰がどう見ても立派な一軒家だった。多分新築だろう、デザインもお洒落な建築家に頼んだのだろうか、周りの家と比べても目立つモダンな造り。子供だからブランドの洋服なんか知らないが、着ている服も高そうな綺麗なものだった、彼女の服以外は。

 義父は妹を降ろして、母親がベビーカーの弟を抱き抱える。義父はベビーカーを折り畳んでいるところ椎名恵を振り返り、何か怒鳴った。少し距離があったので声は聞こえなかったが、雰囲気的にはあまり上品な言葉ではないのだろう。頭を叩かれ、彼女はよろけた。僕は駆け寄ろうとしたが、足がすくんで動けない。よろけた彼女と目が合った。彼女は走って家の中に入ってしまった。


 それからまた後日、いつもの公園で彼女を探した。彼女はいつもの場所で、いつものように1人でいた。そして僕を見つけると、恐る恐る近づいてくる。僕は彼女の家の前で見かけたことには触れなかった。彼女からも、その話はない。

 だが、いつもより口数が少なかった。僕は元気づけさせようと、あることないこと面白いことを言って笑わせようとするが、彼女は黙々とパンを千切り、口に運ぶだけだ。気を遣って笑顔を作ろうとするが、うまく笑えていない分、痛々しい。元気づけさせようとして、かえって無理をさせてしまっているのに気づかされた。ごめん、僕が謝ると彼女は首が千切れるほど首を横に振る。そして、ボソッと小さな声で何か言った。何?僕は優しく訊き返すと、彼女はまた首を振る。小さくて聞き取り難かったが、僕には「居なくなりたい」と聞こえた。



 僕は夕飯の時に、父にそのことを話した。塾をサボっているのがバレると困るので、学校の下級生が、と少し湾曲させて彼女の虐待の話をした。


「あまり他人の家庭の話に首を突っ込むんじゃない」


 父はこちらを見ずに、味噌汁を啜った。


「でも、暴力は犯罪じゃないの?虐待って、事件じゃないの?」


 子供の頃は児童相談所とかよくわからなかったから、そういうことは全部警察の仕事で、弱い立場の人を助けるのが警察だと思っていた。


が出てないんだから。事件じゃない」


 警察官になった今ならわかるが、父の言っているとは、のことだった。被害届が出ていないのなら事件ではない、と言いたいのだ。


「事件って何?死んだりしないと事件にならないの?」


 僕は少し声を荒げた。僕は椎名恵のために、なにもできないのか。


「だったら、自分が警察官になって、自分で解決しなさい」


 その言葉を皮切りに、父の説教が始まり、その成績で進学できるのか、そんな成績では警察キャリアになれない、キャリアじゃければ一生交番勤務で終えるのか、交番勤務じゃあお前の助けたい人も助けられないんだぞ、と延々に続く。それを成績優秀な兄は薄ら笑いで見ている。

 幻滅しかなかった。事件になってから犯人を見つける、そんなことしか警察はできないのか。そんな後だしジャンケンみたいなことで、市民を守っていると言えるのだろうか。後半は、もう父の言葉など耳に入ってこなかった。


 僕は何のために、何を目指させられているのだろう。


 母がガシャガシャと皿を洗う音を聞きながら、父のお経のような説教を聞き、僕は時間が過ぎるのを待った。


 そして数日後、椎名恵は近くの廃工場で遺体となって発見された。






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