常田 祐司

第51話 山梨方面へ

 さて、どこへ向かおうか。


 遠くへ行こう、と言ったものの、いったいどこへ向かえばいいのか全く思いつかない。このくらいの子供が喜ぶところとったら、千葉にある有名な遊園地だろうが、ただ1日遊ぶだけで終わってしまう。遠くへ行く、というのはそういうことじゃないんだ。

 それに俺は、首都高速が苦手だ。運転に慣れている連中がバンバン走る中、車の運転に自信のない俺は流れに沿うことができない。短い範囲で道が分かれ、あの密集した車の列の中へ車線変更が間に合わず、目的の道からどんどん外れていってしまう。ましてや方向音痴なので、同じような道をぐるぐる回っていると、今自分がどこへ向かっているのかがわからなくなって、運転している自分自身が酔ってしまう。首都高を運転している間中、緊張で心臓が破裂しそうだし、掌の汗でハンドルが滑るし、カーナビの予測到着時間を遥かに上回る遅さで到着し、遊園地に入る頃にはヘトヘトに疲れてしまう。そんな疲労感の後に、あの疲れる遊園地を回るなんて考えられない。


 どこか適当に車を走らせる。

 でも車の運転に慣れていない人間にとって、行ったことがないという道は自然と選ばない。適当に走らせているようでも、交差点に差し掛かれば安全な道、つまり通ったことのある道を無意識に選んでしまうのか、見たことのある風景が目に入る。カーナビを見ると車は国道52号線を走っている。

 むかしの記憶を辿る。もう6年以上前のことだ。まだ女房と別れていない頃、娘と3人で行った場所、山梨県にあるリゾートホテルみたいなところだ。そこは宿泊施設の他にウエディングチャペル、カフェや色んなショップが隣接し、敷地内が1つの街をイメージして作られている。波のプール、キッズエリアなどがあり、ファミリー層にも人気のリゾート施設だった。ここなら小さい子供でも楽しめると、別れた女房が旅行サイトで見つけ、夏の休暇に宿泊したことがあった。俺がまだ幸せだった時の思い出。もう取り戻すことができない。

 他に旅行なんて出かけた記憶がない。単純に子供が楽しめそうなところ、と頭に浮かんだのが、そこしかなかっただけ。

 俺は遠出が苦手だった。旅行というのは行先から宿泊先まで決めなくてはならない。どこへ立ち寄って、どこで食事をして、という計画を立てなければならない。宿泊施設もどのプランがお得だとか、こっちのキャンペーンの方が安いから、こっちはキャンセル料が1週間前までならかからないから仮押さえしておくことだったり、旅行へ行く直前まで気を抜けない。また移動手段は電車だの新幹線だの言っても公共機関の乗り換えとかが面倒臭くて嫌いで、車で行くにしてもどちらが運転するかで揉める。俺は運転がヘタクソだから、女房が運転することになるのだが、いつもわたしばかり、と文句を言われるのだ。決めることが多くて、夫婦で意見が合わず喧嘩になって結局旅行は頓挫とんざすることが多かった。

 家族と一緒にいることが嫌なのではない。むしろずっと一緒にいたかった。一緒にいれさえすれば、それで良かった。だから、揉めてまで旅行に行くことよりも、家の中で過ごしている方が好きだった。仕事で疲れた体に鞭打って遠くへ出掛けることもないのに。日頃、家事や育児で疲れているだろうに、なんで態々疲れることをしようとするのかが理解できなかった。女房とテレビを見たり、昼寝している娘の横でをしているだけで十分だった。だが女房は、どこかへ出掛けたり、子供を外で遊ばせたり、美味しい物を食べに行ったり、を過ごしたいと言っていた。俺にはそれができなかった。これじゃあ夫婦ですれ違いになるのは目に見えている。多分俺は普通の結婚生活に向いていなかったんだろう。


 だからたまに遠出すると喧嘩になるので、良い思い出がない。それでも山梨のリゾート施設を思い出したのは、遠出した中での唯一の楽しかった記憶があった。

 いつものように女房からこのリゾート施設に行きたいという話になった。どこへ寄るか、どのプランがいいか、行ったら何して遊ぶか、などを相談というよりも一方的に女房が言うのを、ただただ頷いて聞いていると、あなたも何か考えてよ、と言う。


「ああ、いいんじゃない」


 俺はどこでもいいし、どこか出掛けることで女房の気が済むなら、女房の行きたいところ、やりたいことを横槍入れない方がいいのかと思って、そういう返事になるのだが、それが彼女には気が乗らないと見えるらしく、これでいつも揉める。揉めるのはわかっているから、たまにで意見を言うのだが、ほぼ100%却下される。だから余計に何も言わなくなってしまう。まさに悪循環だ。

 だけど、その時は違った。

 はああ、と深い溜息を吐いてから、


「いいよ、今回はあなたの好きなようで」


 初めは機嫌を損ねたのだと慌てて謝ると、彼女はそうではないと言った。運転も食事する店も俺に任せる、たまにはキチキチしないで、のんびりするのもいいかもね、と答えた。

 行き当たりばったりも旅の醍醐味だよ、みたいなことを俺は返したと思う。それを言った後、一応女房の顔色を伺ってみるも、彼女は笑っていた。やっと俺のペースも配慮してくれるようになったかな、と勘違いしていた。その旅行の数週間後、女房から別れを告げられた。後から女房に聞いたところあの時に、別れることを決心したらしい。こんなにも考え方が合わない俺との将来を考えられなくなってしまったらしい。だから、いつものようにグダグダ言うのをやめたのだろう。最後になってしまうこの旅行を少しでも楽しく過ごそうと、彼女なりに気を遣ってくれたのだ。


 そうとは知らずに俺は、女房が決めたそのリゾートホテルという目的地の他に何の計画も立てずに旅行に出掛けた。運転も終始俺で、カーナビが案内する経路通りに車を走らせ、到着予測時間はどんどん伸びていく。途中で寄ったラーメン屋は、これで金を取るのかというほど不味い店だった。あまりの無計画さに車に戻った時に、「ごめん。凄え不味いかったな。店はちゃんと調べた方が良かったね」と俺がしょんぼりしていると、「いいじゃん。思い出、思い出」と笑って許してくれた。俺は猛反省し、予定時間を2時間遅れて目的地に到着した後、夕飯は間違いがあってはいけないと、ホテルのフロント係にお勧めの店を聞いて、地元で評判の焼肉屋を教えてもらい、予約を入れた。ネットでも評判の高い店で、行ってみると確かに美味かった。女房も喜んで食べているので、「一応調べてみたよ」と言うと、「成長したじゃん」と褒めてくれた。そんな雰囲気の良い食事だったこともあり、その焼肉は格別に美味しく感じた。女房の決心も知らずに、こんなことなら女房の言うことを聞いて、今度からちゃんと計画立てて、色んなところに連れて行ってやろう、と心に決めたが、それは既に遅く、次はなかったのだ。


 だけどあんなに楽しい旅行は、結婚して娘が生まれてから初めてだった。俺と女房の仲が良いので、娘も楽しそうだった。いつもなら女房が不機嫌になったり、俺が単独行動になってしまったりと雰囲気が悪く、子供というのはそういうことは敏感に察知するので、初めは戸惑っていた娘も、昼寝もしないで波のプールで大はしゃぎし、夜遅くまで起きていた。

 来年も着れるようにと少し大きめの水着を買ったので、波が来ると肩のストラップが直ぐに外れてしまうのを、何がそんなに面白いのか顔を真っ赤にして無邪気に笑っていた。俺もつられて笑ってしまう。ふと女房を見ると彼女も楽しそうに笑顔だった。その時女房がどんな思いだったか、今となっては知ることはできないが、その時の笑顔は嘘ではないと俺は思っている。




 娘とみずきを重ね合わせたわけではない。

 あのリゾートホテルに行った頃の娘は、まだ2、3歳だった。小学4年生のみずきが同じように楽しめるかもわからない。娘と離れてもう6年以上経っては、今の小学生の女の子がどんなことで喜ぶのかがわからない。もしかして波のプールなんて、みずきには幼いだろうか。あそこには波のプール以外何があったか記憶を辿ったが思い出せなかった。波のプールも、波のプールがあったという記憶はあるが、それがどのくらいの広さだったか、どんな形をしていたかが思い出せない。思い出すのは、娘の喜ぶ顔と優しい女房の眼差し。周りの風景なんか見ていなかったのだ。


 娘のあの笑顔を、みずきに求めているのではない。このくらいの年齢の子供を連れて行く場所が浮かばないだけだ。もしかしたら、みずきの年齢では楽しめないのかもしれない。俺にとっては、みずきを喜ばせるというよりも、少し間が持てばいいのだ。あの時楽しいと感じたのは、娘と女房の笑顔があったからだ。


 みずきは車の窓ガラスに両手を付けて、嬉しそうに外を眺めている。時折、あの山が綺麗だとか、あれは何?とか話しかけてくる。俺は運転中は脇見する余裕がないので、適当に返事をしていた。


 おじさん、チャミュエル?


 みずきが何を指して言っているのか、何と言ったのかわからない。チャミュエル?聞き間違えか。チャペルと言ったのか、それかマジ卍などの流行言葉なのか知らなかったが、ああ、うん、と適当に聞き流した。

 それよりも道がわからない。カーナビを見るとこの先はしばらく1本道だが、その先の記憶がない。カーナビで目的地を設定したいのだが、停める路肩がなく、のろい俺の運転で後続車が連なっている。バックミラーを覗くと、まるでジェットコースターの最前列に乗ってしまったかの光景だ。明らかに後ろの運転が不機嫌な表情になっている。引き返すにも、引き返せないのだ。


 そのまま車は山梨方面へ走らせるしかない。







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