第41話 柊木奈津子と家族の役割とアイスティー

 全国放送のテレビに出るような柊木奈津子と、そんなに簡単にアポを取れらわけがないと思っていたが、たまたま取材で2日前から静岡に来ていたのだ。本人は別の取材があるので代理でマネージャーが話を聞くということだった。

 待ち合わせのカフェで待っていると30分遅れてマネージャーと本人も現れた。タイトなネイビーのデニムとスニーカーに、ざっくりした薄手の白いニットを着ていた。テレビで見る柊木奈津子は黒のパンツスーツで、いかにも男性社会の中で戦うキャリアウーマンみたいな格好をしていたが、だいぶ印象が違った。


「お待たせして申し訳ありません。私、柊木奈津子と申します」


 柊木奈津子は私たち2人に名刺を丁寧に出して、ひかりに優しい笑顔を向けた。2人は私たちの向かいに座ると同時に、マネージャーはカフェの従業員を呼び、アイスティーを2つ注文した。

 ひかりは私が抱いていた。ひかりは私の手元から彼女の名刺を奪い、字も読めないのにじっくりと眺めて表裏とひっくり返している。


「あ、お嬢ちゃん。目に入ったら危ないからね。それ、ママに渡そう」


 柊木奈津子は優しくひかりの手に両手を添えて、ママ、はい、どうぞ、と私に渡すように促した。さすがは教育ジャーナリスト、子供の扱いは慣れているようだ。マゥマ、どうじょ、とひかりも真似して声に出して、それを眺めていた柊木奈津子は小さく拍手をして、偉い偉い、とひかりの頭を撫でた。ひかりも拍手して、ヘライヘライ、と真似して言う。


 私は緊張していた。柊木奈津子は、この誘拐事件が虐待している家庭に関連していると見て取材を続けている。その中で私たちが虐待しているかもしれないということを踏まえて、それに興味を持ち、取材させて欲しいと言ってきたのだ。虐待を根源から無くす運動をしているこのジャーナリストにとって、私たちはであり、仇敵きゅうてきなのだ。

 初めて柊木奈津子をテレビで見たのは、昼の情報番組だった。文部科学省の大臣か誰かが出ていて、今の環境が子育てに適していなく、余裕がない親が増えることでそれが虐待に繋がっていると、そのお偉いさんを責めていた。司会者が中立の立場で意見を言うと、メディアがはっきりした意見を述べないのが悪いと、司会者にも噛み付いていた。殴りかかる勢いで司会者に詰め寄り、ADみたいな人たちに止められていた。この人は、自分の子供ではないことで、よくこんなに熱くなれるなあ、と他国の戦争を見ているような気持ちで見ていた。むかし学級委員長で、こういう子いたなあ、私はこういう人間が嫌いだな、とその時感じたことを思い出した。やたらと正論を振りかざして、そんなの偽善だ、そういう自分に酔っているだけなんだ。私のテレビで見た柊木奈津子は、その学級委員長と同じ印象しかなかった。


 でも実際に会ってみると、まるで違った。優しい目の温厚な女性だった。本当に子供が好きなようだ。ひかりをあやすのに夢中になっている。ポケットからカラフルなフェルトでできたウサギの人形を出して、赤ちゃん言葉で話しかけている。ウサギの人形は、中にビニール素材が入っていて触るとガサガサ音が鳴る。赤ちゃんのオモチャでよくあるタイプの物だ。ひかりも、ガサガサ鳴るのを不思議そうに眺めて、それを柊木奈津子から受け取ると、キャッキャッとはしゃいだ。


「先生、あの、お時間が」


 マネージャーは自分の付けている腕時計を示して、柊木奈津子に本題に入るよう促した。


「あ、ごめんなさい。次にね、静岡の児童相談所に行く予定があるの。こちらが遅れてきて申し訳ないけど、また今度時間取りますので、今日は1時間くらいで、いい?」


 私は利喜人くんと顔を見合わせ、頷くしかなかった。私たちは子供を虐待している親として、文部科学省の人や司会者のように叱責されるのを覚悟していたが、彼女のフランクな口調にそんな素振りは見えない。


「それにしても、とっても笑顔が可愛い子ですね。お2人から愛されてることが、凄くわかります」


 隣のマネージャーが、写真を1枚よろしいですか、と聞いてきたので、私は断ろうとしたのだが、利喜人くんが承諾してしまった。マネージャーはバックからiPadを出して私たちに向けてきた。こんな時どんな顔をすべきかわからなくて、表情を迷っている間に、合図もなくパシャパシャと何枚か撮られた。


「それで、電話での内容は橋口から聞きました。まずは関さんの家族構成から教えてください」


 マネージャーが軽く会釈をしたので、橋口というのはこのマネージャーのことだと理解した。私は夫が利喜人、私が七海、長女みずき、次女ひかり、と答えた。私と利喜人くんは再婚で、みずきは私の連れ子だということも説明した。


「なるほど、はい。それで利喜人さんは、血の繋がらないみずきちゃんに躾をしているつもりだったが、もしかしたらみずきちゃんの方が虐待と受け取ってしまっているかも、ということですね。それで今回の行方不明が連続誘拐事件に巻き込まれたのか、それとも家出なのかというお悩みで、えーと、いなくなったのは3日前からということで、よろしいでしょうか」


 はい、と利喜人くんは厳かに答えたが、これでは私が警察に提出した捜索願と合わなくなってしまう。先に電話で警察に昨日からいなくなったと伝えたのは、利喜人くんだって聞いていたはずなのに。私は利喜人くんの方を見ると、彼は小声で、大丈夫、と言った。


「それで奥様は今日、警察は捜索願を出しに行ってきたんですよね。警察には、電話で昨日からと言っていたそうですが、捜索願の方もそう書きましたか?」


「はい、いや、でも嘘言ってきたらマズいんじゃないですか?」


「大丈夫ですよ。むしろ警察は信用できません」


「じゃあ、捜索願は出さない方が良かったですか?」


 柊木奈津子は、テーブルの上に置いた私の手を両手で優しく包んだ。私の指先は震えていた。


「大丈夫です。捜索願を出していない方が不自然なので、それでいいんです。ただいなくなった日付は問題ありません。どうせ警察は、何かあってからじゃなきゃ動いてくれないんですから」


 柊木奈津子の掌は暖かかった。震えが少し治まってきた。


「それでは、あなたたちはお互いのことを、何と呼び合っていますか?」


 私たちは顔を見合わせた。少し迷いながら、利喜人くんが答えた。


「僕は『七海さん』と呼んでいて、七海さんは僕のことを『利喜人くん』と呼んでいます」


「お子様の、みずきちゃんの前でもですか?」


「はい。みずきも僕のことをリキトくんと呼ぶので。少し幼稚でしょうか?」


 柊木奈津子は、いいえ、と首を振り、なるほど、わかりました、と言って一拍置いた。


「連れ子がいる家庭で、再婚相手を名前で呼び合うのはよくあることです。そういうご家庭のほとんどがそうじゃないでしょうか。でも家庭というのは小さな社会なんです。例えば、会社で課長のことを『課長』と呼ぶか、その人の名前で呼ぶかで関係性は少し変わってきます」


 私は頷くしかなかった。この人は何を言いたいのだろう。


「つまり、血の繋がらない利喜人さんのことを『お父さん』もしくは『パパ』と呼ぶことと、『利喜人くん』と呼ぶことで、利喜人さんとみずきちゃんの関係性が変わってくると私は考えています。家庭内では、父親は父親、母親は母親という役割を演じているのです。そこで子供たちは、関さんの家庭ですとお姉ちゃんや妹という役割に自然と繋がるはずなんですが、ご夫婦の間で名前で呼び合うことで、特に利喜人さんと血の繋がらないみずきちゃんには自分の役割分担が見えなくなってしまうんです。ここまでは、わかりますか?」


 言っている意味はわかるが、それがなんだというのだ。

 私が視線のやり場に困っていると、従業員がアイスティーを2つ運んできた。カラカラと氷の音がする。ここで話の筋を折るのも失礼かと、まあ、なんとなく、と曖昧に答えておいた。私が腑に落ちていないのを察したのか、彼女は、例外もあります、と今運ばれてきたアイスティーを一口飲んだ。


「母子家庭で、子供が親を下の名前で呼ぶことがあります。特に母親と息子の関係でよく見られます。母親のことを呼び捨てで呼ぶんですね。それは息子が、いない父親の役割も果たそうとして、自然とそういう風になるんです。母親を守ろうとしているんですね。でも、再婚した関係で、特に関さんのご家庭の場合、血縁関係がないのは利喜人さんとみずきちゃんですよね」


 ひかりが手を伸ばし、柊木奈津子の手を触った。彼女は、そのひかりの頭を軽く撫でた。


「利喜人さんは、みずきちゃんに、自分のことを『お父さん』もしくは『パパ』と呼ばせていましたか?」


「最初の頃は、パパと呼ぶ時もありました」


「でも、定着しなかった」


「はい、そうですね。七海さんも僕のことを利喜人くんと呼ぶので、自然とそっちになっちゃったっていうか。まあ、僕はどっちでもいいと思ってたんですが」


 なるほど、とまた柊木奈津子は頷いていた。隣のマネージャーは、何かメモを取ったりしている最中も、腕時計を見て時間を気にしていた。


「ドラマとかでもよくあるじゃないですか。再婚相手とうまくいかない子供の話って。『お父さんって呼びなさい』『本当のお父さんじゃないもん!私はこの人のこと絶対お父さんって認めない!』なんて話。でもその反発を経て、時間がかかってやっとお父さんって認めて、『お父さん』なんて呼ぶっていうドラマが。それまでは、ただお母さんが連れてきた人なんです、利喜人さんは。子供にとって、お父さんとお母さんが結婚しているから、お父さんとお母さんじゃないんですよ。目の前にいるお父さんとお母さんは結婚しているっていう話。この違いわかりますか?」


 私も利喜人くんも、多分ポカンとした顔をしていたんだと思う。柊木奈津子は、私たちの顔を交互に見て、また、なるほど、と言って溜息を吐いた。


「子供というのは、無意識に親を喜ばせようとするんです。最初の頃、『パパ』と呼ぶことで、あなたたちが喜ぶことを知って言っていただけで、決して利喜人さんのことを父親と認めたわけではありません。認めてないとか、嫌いとかってことじゃないですよ。もしかしたら最初は利喜人さんのこと好きだったんじゃないですか。でもそれは父親としてではなく、他人の大人の中で好きな人程度だと思います。みずきちゃんにとって、家に自分と母親、それと仲が良い他人がいる生活が始まったわけです。でもそのあと、このひかりちゃんが生まれた。母親と他人と妹、でもその妹にとって、利喜人さんは父親。それを目の当たりにしたみずきちゃんは、どう感じるでしょう。自分だけが他人と錯覚してしまっても不思議はありません」


 柊木奈津子は身を乗り出して、私の目をじっと見てきた。瞳の奥まで抉られるように見つめられた。私の心の中をほじくられているようで、私は身動きが取れなかった。蛇に睨まれた蛙とは、まさにこのことだろう。柊木奈津子が、ふっと目を晒し、利喜人くんの方に視線を移すと、金縛りが解けたように肩から力が抜けた。


「ひかりちゃんが生まれる前に、利喜人さんは父親の役割をすべきでした。父親の役割って稼いでくるとかそういうことじゃないですよ。もっと簡単なこと、父親役を演じることなんです。でもね、問題は七海さん、あなたが母親を演じきれてなかったことにあると思います」


 柊木奈津子にまた見つめられ、また体が動かなくなった。ひかりを膝の上で抱いているのに、私がひかりにしがみついているような気分になった。


「あなた、最近、みずきちゃんに、『お母さん』もしくは『ママ』と呼ばれましたか?」


 心臓を鷲掴みにされたようだった。ママと呼ばれるどころか、みずきと最後に話をしたのが、いつだったか思い出せない。随分長い間、口を聞いていないことに気づかされてしまった。




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