第42話 柊木奈津子とSNSとチャミュエルの手

 思い返せばみずきとは、ずっと話していない。その期間が1ヶ月なのか、3ヶ月なのか記憶にない。もしかしたら半年くらいまともに口を聞いていないのかもしれない。会ってはいる。ただ視界に入ったと言った方が正しいのかもしれない。いなくなった3日前にどの服を着ていたかも思い出せない。

 利喜人くんがみずきに手を挙げたあと、私は話しかけることができなかった。話しかければ慰めたり、同じように罵倒したり、何か言葉を発しなければならないが、私にはそのどちらもできなかった。


 気づくと、ひかりは私の膝の上で寝息を立てていた。しばらく沈黙が続いていた。その間、ずっと柊木奈津子は、私の方をじっと見つめている。犯人はあなたです、と言われているようだ。ここが取調室で、柊木奈津子が刑事。自白してしまった方が楽になれると思うのだが、うまく声にできない。言葉が見つからない。口を開けても、空気しか出てこない。


 この沈黙は態と作られているのか。テレビに出るような人は、こういうをして、自分の言葉をより効果的に扱うのだろう。罵倒でもなんでもいいから、早く言葉を発して欲しかった。柊木奈津子の視線がどんどん強くなっていくのを肌で感じる。彼女の目から発する力で、このテーブルの空気が熱くなっていると錯覚する。軽く握った掌が汗でじっとりしてきた。その熱のせいなのか、カラン、とグラスの氷が溶けて、音が鳴った。


「七海さん。あなたのしていることは、『ネグレクト』という、列記とした虐待です」


 そんなの、言われなくてもわかっている。わかっていることだが、他人の口からはっきり言われることで、それに目を背けていた自分に気付かされる。だが、他人の口から言われたことで、少し体が軽くなった気もした。もう逃げる必要がない。捕まった逃亡犯は、こんな気持ちなのだろうか。


「それと利喜人さん。あなたは躾だと思っていらっしゃいますが、それも虐待です。身体的な虐待であったり、心理的な虐待であったりするかもしれませんが、している方に自覚がなくとも、みずきちゃんは虐待と受け取っていることは間違いないと思います」


 利喜人くんは深く溜息を吐き、テーブルの下で落ち着きなく足を揺すり始めた。その揺れが地面を伝わって、私のところにも届いた。だから、と利喜人くんが少し声が大きくなってしまったので咳払いし、声のボリュームを整えて話し始めた。


「だからって言って、なんで僕らが虐待していたこと繋げるんですか!もしかしたら、学校で嫌なことあっての家出かもしれないじゃないですか。僕らは、みずきが誘拐事件に巻き込まれたかと心配しているから、それを調べているあなたに連絡したんじゃないですか。みずきに辛い想いをさせてしまったのは後悔しています。だから無事に帰ってきてほしいんです。僕らは虐待を責められに来たんじゃない!」


 最後声を荒げたので、ひかりがフニャーと泣いたので、私は立ち上がってひかりを縦に抱いて背中を撫でた。ひかりは一声上げただけで、また寝入ってくれた。私の首元に顔を埋め、寝息を立てている。


「落ち着いてください。私はあなたたちを責めているんじゃないんです」


「じゃあ、何なんですか。僕だって、血の繋がらないみずきのことを思って、血が繋がらないからと言って甘やかせてはいけないと思ってやってるんです。きっと、大人になればわかってくれるはずです」


 私は柊木奈津子が何を言いたいのかわからなかったが、それよりも利喜人くんが何をしたいのか理解できなかった。だって、こうなることは想像できたはずだ。私はこの柊木奈津子というジャーナリストがどんな人物か、ただのテレビに出ている人という認識以上は持ち合わせていなかった。虐待がどうのこうの、今の教育機関がどうのこうのと、がなり立てているテレビでの言動を見ていれば、私たちが責められることは避けられない。なのに、利喜人くんはどうして態々危ない橋を渡ろうとするのか。警察に捜索願を出すだけで良かったのに、まだみずきが誘拐されたと決まっていないのに誘拐犯を挑発するって言ってたけど、挑発されてるのは利喜人くん自身じゃないか。

 柊木奈津子の優しい微笑みが勝ち誇ったような顔に見えた。意地悪な女だ、単純にそう思った。

 そもそもメディア関係者を相手に、素人の私たちがメディアを利用してやろうという考え自体が間違っている。うまくいくわけがない。なんでこんなに当たり前のことに気づかなかったのだろう。べつにアポを取ったからと言って、ドタキャンすればいいだけの話だったのに、なんで利喜人くんを止められなかったのだろう。


「もしかして、あなたたちはテレビや週刊誌を利用して、みずきさんを誘拐した犯人に訴えるように見せて、自分たちは虐待していないと公言するのが目的だったの?」


 この人は、わかっていて言っている。やっぱり意地悪な女だ。


「でもそれだけじゃダメよ。世間は騙せない。SNSとかで好き勝手叩かれて終わりよ」


「じゃあ、なんだよ!あんたはみずきが誘拐されたのと、その誘拐される子の家庭に虐待があったことを結びつけたいだけなんだろ!それで俺たちのことを面白ろおかしく週刊誌に書くために呼んだのか。だったら好き勝手書けばいいじゃねえか!」


 利喜人くんは立ち上がって声を荒げた。余程興奮しているのか、彼が自分のことを『俺』と言うのは珍しいことだった。

 すみませんが他のお客様もいますので、と近寄ってきた従業員が小声で話しかけてきた。私はカフェの店内を見回した。店内は閑散としていて、初老のおばさん2人組と、スーツ姿のおじさんが1人。おじさんは漫画に夢中で、2人組のおばさんとチラッと目があっただけで、こちらの様子は気にも留めない。もう少し遅い時間だったら、下校中の女子高生たちに動画を撮られて友達みんなに拡散されているところだった。


「私はあなたたちが悪いなんて、一言も言ってないですよ」


 マネージャーが席を立ち利喜人くんを宥めて、彼は鼻息が荒いまま椅子に座り直した。座る時、膝がテーブルに当たって、テーブルの上のグラスの氷がカラカラと鳴った。

 マネージャーは、先生そろそろ本題に、と言って席に座った。バックからiPadを出すと何かを検索して、柊木奈津子に渡した。


「これを見てください。これは『チャミュエルの手』というアカウント名で学校の裏サイトやSNSでコメントをしている人物なのですが」


 iPadを私たちの向きにして差し出してきた。覗き込むと、いろんなコメントが縦にずらっと並んでいた。



 またアイツに殴られた


 あんな奴、父親じゃない。血が繋がってないし、キモイ


 ママはなにもしない


 死ネ。みんな死ネ


 居場所ない


 死のうかな


 誰か楽な死に方教えて



 ウザイ、キモイ、シネ、シニタイ。SNSでは、みんなこういう言葉を簡単に使う。おおよそこれらの言葉は、そんなこと本当に思っていない子たちがポッと頭に浮かんだ言葉をパッと打ってピュッと載せてしまう。大抵そういう子たちのは、どこどこのスイーツが美味しかったとか、友達や芸能人の話やらの中に時々、そんな汚い言葉が出てくる程度だ。

 でもこの子のツイートを見ると、全ての言葉がそれだ。この子の頭の中は朝起きて寝るまで四六時中ずっとこんな言葉で埋まってる。その痛々しい言葉の羅列に胸が締め付けられる。画面をスクロールしても同じような言葉が延々と続く。中には1分と待たず立て続けにツイートしている部分もあった。「いいね」も「既読」も付かず、ただ並ぶだけのツイート。このツイートは誰の目に触れることなく延々とサーバー上を彷徨っているように見えた。


「これは、この間静岡市内で遺体で見つかった山本伊織ちゃんのツイートです」


 柊木奈津子は画面をスクロールし、1つのツイートのところで止めた。そのツイートにはコメントが来ていた。



 話を聞いてあげるよ



 そのコメントのアカウント名が『チャミュエルの手』だった。山本伊織ちゃんはそのコメントに、誰?と返している。知らないおじさんだよ、というコメントが次に、そして立て続けにコメントがされていた。



 君は親に虐待されてるの?



 山本伊織ちゃんはそのコメントに対し、すぐにツイートを返してなかった。一晩考えたのだろうか、次の日の早朝にツイートを返していた。



 本当に聞いてくれるの?



 早朝にも関わらず、『チャミュエルの手』はすぐにコメントを返していた。その後は、山本伊織ちゃんと『チャミュエルの手』の会話が続く。不思議と虐待の話にはあまり触れてなく、今日は学校行ったの?夜ご飯は食べた?など普通の質問を繰り返しているだけだった。山本伊織ちゃんも、他愛のない話を返している。彼女たちの会話は、時には一方通行だったりもするが、SNS上の会話なんてそんなもんだろう。彼女の話には友達の話が出てこない。彼女は学校で友達もいないのだろう。家に居場所がなく学校でも1人ぼっち。その彼女に『チャミュエルの手』は優しく手を差し伸べている。iPadの画面を見ていると、SNSの中だけなのだが話をする相手ができたことに一瞬安堵してしまうが、この『チャミュエルの手』なる者が山本伊織ちゃんを殺害したとみて間違いはないのだろう。『チャミュエルの手』が仕掛けた蟻地獄に、山本伊織ちゃんはズルズルと引き込まれていく。

 私が子供の頃はこんなに携帯電話は普及されておらず、ましてやSNSなんて不確かなモノはなかった。クラスでも数人が携帯電話を持っている生徒がいたが、身近な人たちの間でメールでやり取りするくらいのものだ。素性の知らない人間と、いとも簡単に繋がれる今の世の中には嫌悪感もあるが、子供の時にこのツールがあったとしたら私は使っていただろうか。取っ替え引っ替え男を家に連れ込む母を見て、私は引き出す場所さえなかった。学校は行けば表面上だけの友達はいたが、そんなこと話せなかった。男が来るたびに押し入れに閉じ込められたり、家の外に出されたり、男と出掛けて何日も1人で家で母を待っている私の手元に今のスマホがあったなら、顔も名前も知らない人の優しい言葉に、心を動かされていたのかもしれない。



 会って話を聞こうか。ここじゃ話せないからね。



 そのコメントの後、待ち合わせの日時と場所のやり取りが表示されていた。場所は、八幡山神社の公園。山本伊織ちゃんの遺体が発見された山の麓の公園だった。その待ち合わせの日時に、着いたよ、という『チャミュエルの手』からのコメント。八幡山神社の境内で『チャミュエルの手』を待っている子供の頃の私。薄暗い境内は人気がなく、どんな人が来るかもわからない。引き返したい気持ちと、あの母から逃げ出したい気持ちが交互に現れる。着いたよ、というコメントが来た。彼はもうこの中にいるのだ。でも辺りを見ても人の気配はない。彼が現れるのを待つ。耳を澄ます。カラスの鳴き声が聞こえる。境内の大木が伸びていく。カラスの鳴き声が遠のいていく。足元の砂利がボコボコと泡立ち、地面が揺れる。砂利の中から手首が出てきた。その手は私の足首を掴んだ。


「大丈夫ですか?」


 その柊木奈津子の声で現実に引き戻された。私は山本伊織ちゃんのツイートと気持ちをリンクさせてしまったのか。軽く目眩がして気分が悪い。私の膝の上から、ひかりがずり落ちそうになっていたので、ひかりを利喜人くんに渡した。利喜人くんは、ひかりを膝の上に抱き、大丈夫?と言って私の背中を摩った。大丈夫、とだけ答えて柊木奈津子に話を続けるように促した。


「すみません。前置きが長くなってしまいました。そのコメントを最後に、山本伊織ちゃんのツイートはありません。この2日後に、山本伊織ちゃんの遺体が発見されています」



 





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