井口 雅紀

第33話 ゾンビ

 危なかった。

 昨晩、あの刑事2人が来た時、若い方の奴がやたらオレの部屋を覗き込もうとしていた。女房の死体に勘付いていたのかもしれない。


 3日前の晩、姑からの着信が携帯に何件も残っている。女房はオレの家に行くことを姑に言ってるだろうし、それから帰ってこなければ、真っ先にオレを疑うだろう。次の日にかけ直し、女房とは会っていないと伝えたが、多分信じてない。それからも何件も携帯にかかってくるが、オレは無視した。


 あの日、女房は離婚届を書いてもらえるまで帰らない、と言い張った。もう帰って欲しかったので、諦めて離婚届を書き始めたところ、判子がないなら血判でいいなどと、ヤクザみたいなことを言って、グチグチと文句をたれていた。

 知り合って間もない頃は、日本人離れした端正な顔立ちでエキゾチックな美女だと思って結婚したが、その嫌味を言う顔は、外国人墓地から這い出たゾンビのようにしか見えない。

 なんやかんやで口論になり、何を言われてキレたか覚えていないが、咄嗟に手が出てしまった。というより「技」が出てしまった。大学まで柔道を続けていたせいで、怪我をして辞めたといっても、体に染みついている。出てしまった技は「朽木倒くちきたおし」。片手で相手の片足を持ち上げ、相手後ろ方向に倒す技だ。先に手を出してきたのは女房の方だ。自分が座っていた椅子を振りかぶって突進してきたので、オレは避けるつもりで体勢を低くし、女房の片足を取り、そのまま体重を掛け、後ろに突き倒した。いわば正当防衛だ。

 辺りはゴミ袋ばかりだから、それほどの衝撃はないだろうと思ったが、岩が砕けるような鈍い音と、グヒッという女が出すとは思えない低い唸り声が聞こえ、目の前には有らぬ方向に首から捻じ曲がった女房がいた。どうやらテレビ台の角で頭をぶつけたらしい。女房の体はゴミ袋の山からズルズルと落ちてきて、ビニールが擦れる音がした。床に達するとジワジワと血溜まりができてきた。


「マジかよ」


 こういう場合、どうすればいいのか。

 取り敢えず冷蔵庫から缶ビールを出し、一口呑んだ。空きっ腹だと胃に悪い、なにかつまむものはないかと、キッチンボードの抽斗を漁るが、パスタやインスタントラーメンの他に、軽くつまめるものがない。今から湯を沸かすのも面倒だ。

 ダイニングテーブルの上を漁ってみると、ゴミ袋の山の中から口を閉めていないコンビニの袋を見つけ、中を覗くと食べかけのチーちーたらが出てきた。封が空いていたので、これ食えるのかな、と裏面を見るとまだ消費期限を過ぎていなかったので、口に入れた。チーズの部分が少し固くなっていて、味も素っ気もなかった。それをビールで流し込む。胃を気遣っても、こんなものを食べるのは本末転倒な気がした。


 ビールも半分くらい残し、シンクに捨てた。オレは何をしてたんだっけ?テレビの方を目を向けると、女房が転がっている。なんだか妙に落ち着いていた。さーて、どうしようか。そうか、救急車を呼べばいいのか、と思ったが、頭が血塗れでパックリ目を開けている女房を見ると、それはもう手遅れにしかみえない。これで息があって動き出したら、それこそゾンビだ。それに、この状況をいったいどう説明するというのだ。救急車を呼ぶというのは、自首することじゃないか。


 女房が投げようといた椅子を立たせて、一旦座った。足を組み換えたり、天井を見上げたりと無意味なことを繰り返し、こういう時きっと喫煙者はタバコを吸って落ち着くのだろうが、生憎オレはタバコを吸ったことがない。子供の頃から柔道をやっていて、自然とタバコを吸わずして20歳を迎えた。柔道を辞めて社会人になり、会社の飲み会でタバコを吸う機会もあったが、タバコの害を訴えるご時世になってきて、そのまま吸わずにきた。

 ダイニングテーブルに手を置くと傍にリモコンがあったので、テレビを点けようとリモコンを取りテレビの方へ目を向けると、目を開いている女房と目があった。うわっ、と悲鳴を上げてしまい、ようやくこの状況を把握した途端、体が震えてきた。


 急に罪悪感が芽生えてきて狼狽うろたえたが、女房の顔が怖いので、取り敢えずゴミ袋を上に乗せて死体を隠した。


 死体を見えなくしたら、体の震えが少し治り、少し落ち着くと呑気に腹が減ってきた。女房の死体の横で飯を食う気になれず、財布と携帯だけ持って外に出た。近場で何か食おう、外で酒でも呑めば落ち着くか、と思い1人でいるのも心細く感じ、ちよっかいを出している取引先の若い女に電話したが、出ない。最近誘っても、軽く断られることが多かった。このところ本当に金がなく、その女を食事に誘うにも安い店ばかり選んでいたから、もう切り捨てられたのかもしれない。

 仕方なく、常田に電話したが、こいつも出ない。


 常田が電話に出ないのが、無性に腹立だしかった。高校生以来会っていなく、そんなに親しい仲ではない奴だったので、慎重になり過ぎた。もう少し早く、金を無心すればよかった。金があれば、若い女とも上手くやっていけただろうし、女房に離婚を突きつけられることもなかったし、挙げ句の果てには殺人犯にもならなかっただろう。全部、金が無いのが悪いのだ。全部自分が悪いことを棚に上げて、その怒りの矛先は常田に向かった。


 あの男が悪い。


 オレは高校の頃、常田のことを好きではなかった。あの周りのことは気にしないような目、がっついてない雰囲気、女どもにクールだとか言われて涼しい顔をしてやがる。1番許せないのは、オレがクラスで想いを寄せていた女子はアイツのことが好きだった。

 それにアイツは、オレと再会した時、オレのことを覚えていなかった。声かけた時、すっ惚けた顔しやがって。オレは意地でも自分で名乗らず、街中で柔道のジェスチャーまでやったのに、おう、と答えたが中々名前で呼ばなかった。アイツは絶対にオレのことを忘れていた。


 腹の虫が収まらず、街に繰り出し、1人で居酒屋をハシゴした。かなり呑んだ。何軒回ったか記憶が薄れたが、家に帰る頃には女房のことを忘れて、我が家のゴミの山に崩れるように眠った。


 そして何も考えないまま3日経ち、例の刑事2人が家にやってきたのだった。

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