第34話 試行錯誤
あの刑事たちが来た時、オレは女房のことを思い出した。気にはしていたが、ゴミ袋で隠したことで、無かったことにしていた。これを処理することを考えるだけで面倒だ。金になるなら、やる。だが、これをどうしたところで、金にならない。ゴミだって、そうだ。ゴミを捨てに行けば金になるのなら、いくらだってやる。ただ捨てに行く行為が面倒で、それが積もり積もって、これだ。
きっかけが必要だった。たとえば自分が住めないほどの異臭を放っているとか、虫が湧いてくるだとか、近所の人から苦情が入るだとかしなければ、きっとそのまま放置してただろう。
そこへあの刑事たちがやってきた。刑事たちは、子供の誘拐事件について簡単な聞き取り調査だと言っていた。巡回連絡も兼ねて、だとも言っていた。彼らはスーツを着た刑事だった。明らかにおかしい。普通、巡回連絡というのは管轄の交番の制服を着た警官が来るものだろう。昼間に警官が来てオレが留守だったからとか言っていたが、言い訳がましい。
殺してしまったことまでは想定はしていないだろうが、女房の行方不明になっていることの関与を疑っていることは、間違いないだろう。いかにもトロそうな若い刑事が、やたらに中を覗こうとしていた。そろそろ定年を迎えそうな年配の刑事とトロそうな新人でこちらを油断させ、様子を伺うのが彼らの作戦なのだろう。
玄関のドアを開けた時、たまたま靴箱の上にも積んであったゴミ袋の山が崩れて、女房の靴が隠れたのが幸運だった。疑ってはいるが確証を得ない、彼らもオレの家に踏み込むまではできなかったのだろう。昨日は一旦引き上げた、というような去り方だった。
ただ気になるのは、あのトロそうに装った若い刑事。やたら鼻を動かしていた。初めはゴミが臭ってるのを指摘されてるのかと思ったが、もしかしたら死体が臭っていたのか。刑事たちが帰り、女房の死体を見るまでそれに気づかなかった。オレは鼻が悪い方ではないが、3日も放置したまま一緒にいて慣れてしまって、死臭が漂っていることにも気づかなかったのか。ゴミ袋の山からニョッキリ出ている右腕に近づき、少し臭いを嗅いでみたが、あまり臭いはわからなかった。
多分あの刑事たちにマークされている。少なくとも不審な人物には思われているはずだ。
女房を処理しなければならない。さて、どうやって運び出すか。
人間が入る大きな入れ物を、家中、手当たり次第探した。ナイロン製の大きめのバッグが見つかったが、体を折り曲げたとしても入らなそうだ。たとえ入ったとしても、底がやぶけてしまうだろう。旅行用のキャリーケースが2つ見つかった。家族旅行でも活躍したブランド物のバッグだ。
女房と旅行のためにバッグを選んでいた時、女房は大きいスーツケースを買おうとしていたが、そんな大きいのは邪魔になるとオレが反対し、ひと回り小さいキャリーケースを買わせた。それに荷物を詰め込んでみると、結局入りきらず、もう1つ同じくらいの大きさのキャリーケースを買う羽目になった。だから大きいスーツケースが良かったんだと女房に咎められたが、荷物を分けられるから便利じゃないかと反論すると、それもそうだと彼女は納得した。結局その旅行では女房が娘を抱いて、オレが2つとも両手に引いて運ぶ羽目になった。
これなら車輪も付いているし、運びやすいが、小さい。この大きさでは体半分しか入らない。
......................切断するしか、ないのか。
キッチンに入り、キッチンボードから包丁を手に取る。こんな物で人間の体が切れるのか。骨って硬いのだろうか。ノコギリとかじゃないと切れないのか。生憎、日曜大工をする趣味はないので、そういう類のものは家にない。この包丁で切るしかない。
女房に近寄る。彼女の上に乗せたゴミ袋を
ひゃっ、と肺に空気が入り、変な声を出してしまった。黒目は上の方向を向いて、顎がダラリと下がり大きな口を開け、3日前より酷い顔になっている。筋肉が緩み、口が開いてしまったのか。
包丁の刃先を何処へ当てていいのかわからない。あのバッグ2つに入れるとしたら、上半身と下半身を切り離さなければならないが、腹の部分を切ったら、腸やら何やら臓物が溢れてきそうで気持ち悪い。切るにしても、血が撒き散らないだろうか。死んだ人間の血というのは固まっているのか、そんなことも知らない。それに、背骨なんか1番太くて切らなそうだ。じゃあ、両腕両足を切断すればいいのか、そうしたら胴の長さを考えると、首を切り落とさなければならない。首なら投げた時に折れてそうなので、切り落とすのは楽かもしれないが、彼女の顔の方を見上げると白目しか見えない下からのアングルに、また、ヒョッ、とアホみたいな悲鳴をあげてしまった。
無理だ。骨が切れるか、どう切断するかの問題ではなく、肉の部分すら切るのが怖い。考えてみれば、柔道やってて図体もでかいくせに、注射の針すら怖くて見れないオレが人間の体を切断するのは、ハッキリ言って無謀だ。肌に包丁の刃を当てるなんか、できっこない。
その場で包丁を置き、蹲った。時計を見ると日が過ぎていた。包丁を女房に当てて、情けない悲鳴をあげての繰り返しを、もう3時間も続けているのだ。
何か名案はないか。誰かに訊こうにも、傍には動かない女房しかいない。黒目は上に向いているのだが、何故かずっと見られている気がしてならない。
開いた目が怖いので、閉じさせたい。掌で顔を撫で、目蓋を閉じさせる、よくドラマで死んでしまった仲間の目を、スッと閉じさせてやる、あれだ。
真似してやってみたが、あんなに簡単に閉じない。顔は凹凸があるし上手く両目を押さえられず、かっ
目蓋を親指と人差し指で摘んで、片側ずつ引っ張るが、ちゃんと閉まらない。左側なんか、ペロッと裏返ってしまい、小学生の時によく目蓋を裏返すのが特技な奴がいたなと笑ってしまったが、そんな場合ではない。目蓋を引っ張ったりして、なんとか薄目程度には収まった。半目だったが、多少眠たそうな目、くらいには見えなくもない。
問題は口だ。あんぐり開いてしまった下顎が、首に埋もれるかのように垂れ下がり、顎の下に何重もの皺を作っている。さっきまでの目よりも、口の方がホラーだ。目が薄目になったことで、口の方のホラー感の方が際立ってしまった。
目と同様、口を閉めてやろうと顎を持ち上げるが、筋肉が硬直してしまっているのか、顎が外れているのか全く戻らない。
オレのビジネスバッグから、紙マスクを取り出して、それを女房に付けた。少々顎が
こうやって、薄目になって、マスクをさせると、ちょっと見たところ風邪をひいて調子の悪い人に見えなくもない。
そうか。切断なんかしなくて、担いで車まで運べばいいのか。廊下や駐車場でマンションの住人に
女房の体を持ち上げてみる。意外と軽い。初めはおんぶしようかと思ったが、硬直した腕や膝が上手く曲がらないので、背中から滑り落ちてしまう。右腕が開いた状態で固まっているので、右脇に投げ技の要領でオレの肩を入れると、ちょうど肩を組んでいるような体勢で歩けそうだ。
高熱で
女房に靴を履かせる。黒いエナメルのパンプスだった。爪先が3センチくらいしかない。女っていうのは、よくもまあこんな靴履いて、足が痛くならねえのかな、と思ったが履かせるのは楽だった。
オレも靴を履いて、また右脇の下に体を潜らせ持ち上げる。これで駐車場まではなんとかなりそうだ。
女房を担ぎ、鍵を持って、オレは玄関を出た。
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