第31話 朝食ブュッフェ

 むかしからビュッフェというものが苦手だ。食べ放題、取り放題で、ちょっとずつ種類をたくさん食べたい女性はいいが、俺の食事というのはとにかく腹が満たされればいい。むしろ優柔不断なので迷ってしまうだけだ。朝早くから並んで食事を選ぶなんて、ただでさえ覚めてない脳で、しかも後ろの人に急かされているようで、結局俺のプレートの上にはソーセージとカリカリベーコンとスクランブルエッグとパンというつまらない物が並んだ。


 みずきは楽しそうにいろんな種類を載せて、席についてすぐに平らげ、また取りに行くを繰り返している。最初はパンで、次はピザで、次に和食。お魚美味しいよ、と上手に骨を取りながら勧めてきたが、俺は魚の骨を外すのが苦手だ。上手く外せなくて食い方が汚い。とてもじゃないが人前で魚を食うところなんか見せられない。


 みずきは綺麗に骨だけ残し、またブュッフェを取りに行った。育ち盛りだからこんなに食べれるのか。それにしても食べ過ぎじゃないのか。娘と長く離れて暮らしているので、10歳くらいの女の子が、普段どれくらい食べるのか検討がつかない。

 虐待は暴力を振るうだけではない。育児を放棄するネグレクトという言葉を聞いたことがある。彼女を初めて見た時、異様に細いと感じた。家では満足な食事も与えられてなかったのではないか。だから、こんなに食うのか。それにしても、いくら普段食べてないとしても、こんなに食えるものか。戻ってきたみずきの皿には、普通の1食分のカレーが乗せられていた。カレーなんて、よく朝から食えるな、とスプーンでかきこむみずきを眺めた。


「これ食べたら、お家帰ろうか」


 彼女のスプーンが止まった。やはり帰りたくないのだ。スプーンを置き、テーブルの真ん中一点を無表情で見つめている。暫く沈黙。萎縮したように肩をぎゅっと閉じて、更に下を向いた。どうしよう、ここで彼女が泣き始めてしまったら、周りの目からどう映るだろう。変な注目を浴びてしまう。

 俺は辺りを見回す。まず目に入ったのは、どこか登山に来たのかアウトドア系の上着を着た老夫婦が楽しそうに食事している。窓側の席には外国人の団体客。別の席にはインド人なのかサリーを被った女性客が2人嬉しそうにカレーを食っていた。日本のカレーは本場のカレーとは全く別物だという。はたして俺は外国へ行ったら、他所の国で寿司や天ぷらを食べるだろうか、そんなどうでもいいことを考えてしまう自分の緊張感のなさに呆れる。


 仕事で部下から、「常田さんって、凄い度胸ありますね」と言われていた。上司に向かってと言うのもどうかと思うが、それは社内での新しい施策の発表の場で、準備が間に合わず当日を迎えてしまったことがあった。グダグダの状態でプレゼンし、部長にあれやこれや突っ込まれ、もっとこうした方がいいだことの色々言われたので「じゃあ、それで」と言い放った。

 度胸があるのではない。何も考えてないのだ。その後部長にこっぴどく叱られたが、こちらとしてみれば部長が良い案を出してくれたから、それでいいと思っただけなのに、もっと自分の脳味噌を使え、と怒鳴られた。とくに叱られたことで危機感もなかった。要は緊張感がないのだ。だから、犯罪者に片足を突っ込んでしまったような状態で、あのインド人はこれをカレーと認識しているのだろうか、イスラムの人は豚肉が入っていたらいけないんじゃないか、などと平気で別のことを考えていられる。


 突然みずきは、ガタンッと音を立てて立ち上がり、走って出て行ってしまった。泣いてしまったかもしれない。辺りを見回しても、こちらの様子に気付く者はいなく、皆んな食事を楽しんでいる。俺は席を立って、熱いコーヒーを入れた。砂糖もミルクも入れず、ブラックで飲んだ。みずきは、もう戻ってこないのかもしれない。なんだか後味が悪いが、それはそれで好都合だ。コーヒーの苦味を味わいながら窓の外を眺めた。雨の降りそうな、どんよりした曇り空だった。なぜか女にフラれた時のような喪失感と体裁の悪さを同時に感じた。そんな久しぶりの感情に少しだけ浸った。


 レシートとブュッフェのチケットを会計に出して、ロビーに出た。部屋に戻ってもみずきがいないのなら、そのままチェックアウトしてしまおうと思っていると、ロビーのソファで横になっているみずきを見つけた。みずきの姿が視界に入った時、なぜか安堵している自分に気付く。傍に寄り、空いているスペースに腰かけた。


「あ、おじさん」


 みずきの顔が真っ青だった。


「食べ過ぎたから、気持ち悪くなっちゃった」


 なんだ、それで走って出て行ったのか。


「吐いたの?」


「トイレで、ゲボしちゃった」


 妙に笑いが込み上げてきた。吐くことをというところも、みずきがいなくならなかったことに安堵している自分にも、この状況から脱したいのにまだ一緒にいたいと思っている緊張感のなさにも、呆れて笑うしかない。


「笑い事じゃないよ。勿体ないけど、全部出ちゃった」


 俺が益々笑うと、彼女は小さい眉間に皺を寄せて睨んできた。横になった彼女の背中をさすってあげた。その様子に気付いたフロントマンが駆け寄ってきた。昨日のフロントマンだ。きっと夜勤だったのだろう。


「如何なさいました?」


「なんか娘が食べ過ぎて、調子悪くなっちゃっただけです」


 という単語が自然に出てきたことに自分でも驚いた。少々お待ち下さい、とフロントマンは急いで整腸剤とミネラルウォーターを持って来てくれた。娘さんは今何歳ですか、の問いに、10歳ですと、みずきが自ら答えた。フロントマンは整腸剤の小瓶の使用量を確認し、錠剤を2錠出してきた。彼女は体を起こし錠剤を飲むと少し落ち着いた。


「よろしければ医務室にご案内しましょうか」


 みずきが首を振ると、何かあればお声をかけてください、とフロントマンは速やかに去って行った。


「みずきちゃん、大丈夫?」


 彼女はコクンッと頷き、上目遣いで悲しい目を向けてきた。


「おじさん、みずきのこと、迷惑?」


 誘拐した子供に、一緒にいると迷惑か尋ねられるとは、妙な展開だ。それほど帰りたくないとは、実の母親は味方になってくれないのか。ニュースでは、虐待によって死に至る事件が後を経たない。内縁の夫が主犯と聞くと、いつも母親は何をやっているのかと思ってしまう。自分の腹を痛めて産んだ子だろ、何故止めないのか、何故逃げないのか、何故子供を守れないのか、と離婚して子供と暮らしていない自分を棚に上げて、不思議に感じる。


 迷惑じゃない、と言ったら嘘になるが、自分が連れ出してしまった責任もある。何が責任かは置いておいて、このまま放ってもおけなくなってしまった。


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