第20話 豹変

「ママ、利喜人くんと結婚していい?」とみずきに聞くと、少し考えてから、「いいよ」と答えてくれた。もっと喜んでくれると思ったのに、変な間があった。「利喜人くんがパパになってもいい?」と聞くべきだったか、と気が付いた。私の聞き方だと、みずきは、ママは自分のことしか考えてない、と受け取ったのかもしれない。


 新婚生活は、実家暮らしの利喜人くんが私たちアパートに荷物を持ち込み、学生の同棲のような形から始まった。娘と2人で十分の広さだった2DKの部屋も、男の人が1人増えただけで狭く感じる。先に一緒に暮らし始めて、ゆっくりするところを探そうということになった。みずきが小学校に上がった頃、利喜人くんが勤める広告代理店でチームリーダーとして昇進し、収入が安定してきたので3LDKの広いところに引越した。


 利喜人くんは、血の繋がらないみずきのことを良く見てくれた。遊んでくれたし、お風呂にも入れてくれたし、勉強も見てくれた。ただ甘やかせるだけでなく、悪いことをした時、本当の父親のように叱ってもくれた。それだけじゃない、家事も手伝ってくれて、夜は頻繁に抱いてくれた。普通の家庭で、ここまでしてくれる旦那がいるのだろうか。8歳も若くて心配だったが、今では歳の差など関係なく、頼れる夫、利喜人くんのいない家庭など考えられなくなっていた。

 心配していた事がもう1つ、利喜人くんの家庭だ。利喜人の両親、特に姑だ。年上でバツ1子持ちの女を受け入れてくれるはずなどない、そう思っていたが、利喜人くんの両親は私をすんなり受け入れてくれ、「あなたたちが幸せになるんだから親の許可なんて要りませんよ、しっかりおやりなさい」と姑は穏やかな顔で言ってくれた。

 怖いくらいに何もかもが順調だった。今までの不幸は、利喜人くんに出会うまでの貯金だったのかもしれない。不幸を背負う事で幸せが増えていく。私は幸せ貯金が満期になったのだ。

 でなきゃ、こんな良い人と出会えなかったはずだ。今まで生きてきて、神様なんて信じたことはなかったけど、私は膨らみ始めた自分のお腹に手を当て、神様に感謝した。ベランダに出て、空を眺めると青い空に太陽の光がキラキラしていた。何を見ても薄暗い灰色の世界から抜けて、今は色鮮やかに見える。そんな名前をお腹の子には付けたい。


 臨月を迎え、かなりお腹が出っ張って来ていた。エコーで既に女の子とわかっていたので、利喜人くんにも「ひかり」という名前にしたいと伝えていた。満面の笑みで頷く彼、名前はほぼ決定していた。私のお腹を撫でながら、すでに「ひかりたん」と呼んでいる彼。


 ある夏の日、みずきがお風呂上がりに裸で家の中を走り回っていた。私がパジャマを着せようとすると、暑いから着ない、とキャーキャー言いながら逃げるので私もはしゃぎながら追いかけた。利喜人くんはリビングのテーブルの上でパソコンに向かっていた。締め切り間近のWEBデザインの仕事で、取引先のホームページの仕上げに取り掛かっているらしい。終わったー、と言って両腕を上げて伸ばし、微笑ましい顔で私たちを見ていた。


 リビングで足を滑らせたみずきを捕まえて、パンツは無理やり履かせたが、パジャマを着せようとしても、ふざけて暴れる。そうこうしているうちに、暴れるみずきの膝が私のお腹に当たった。たまたま痛いところに当たったらしく、痛っ、と言って私がうずくまると、みずきも大人しくなって、ママ大丈夫?と近寄ってきた。その時、


「みずきー!」


 突然、利喜人くんが今まで出したことのない大声を出し立ち上がると、首がげるほどの勢いでみずきの頬を叩いた。バチンッと大きな音がして、一瞬みずきも何が起こったのかわからない顔をしていたが、少し時間が経つと大声で泣いた。その泣いているみずきの胸の辺りを、利喜人くんは蹴飛ばし、みずきの体は壁まで転がった。


「赤ちゃんに何かあったら、どうするんだ!お前、そんなこともわかんねえのか!」


 今まで発したことのない乱暴な言い方だった。蹴られたみずきの胸の辺りが赤黒く腫れていた。


「ちょっと、利喜人くん。どうしたの?」


 私はみずきに駆け寄り、体を起こした。みずきは痛みを堪えながらも、目を丸くして利喜人くんを見ていた。ショックで泣くこともできなくなっていた。


「躾だよ。これからみずきもお姉ちゃんになるんだから」


 その日を境に、利喜人くんはみずきに手をあげることが増えた。ご飯を残した時、勉強で間違えた時、彼は躾だと言う。見ていて度が過ぎていると感じ、1度咎めたことがある。血が繋がってないからって遠慮しないで本当の父親になりたいんだ、と言う利喜人くんを見ていると、何も言えなくなる。豹変した利喜人くんに、みずきは怯え始めた。「みずきが悪い大人にならないように言ってくれてるんだよ」と言い聞かせる。私は利喜人くんを信じてみる、という選択をした。


 ひかりが産まれると、みずきに対する利喜人くんの態度がエスカレートしてきたように思えた。

 みずきがひかりより先に風呂に入ると、脱衣所からみずきを叩く音が聞こえた。「学校は行ってきた体は汚い。赤ちゃんはバイキンに弱いから、ひかりより先に入ったらダメだろ!お姉ちゃんなんだからわかるだろ!」

 家で学校のピアニカの練習をしていると、ピアニカを投げて壊された。「赤ちゃんの耳は繊細なんだから、そんな練習、家の中でするな!お姉ちゃんなんだからわかるだろ!」

 最近彼は自分がリーダーを務めるプロジェクトが大幅に納期が遅れていると言っていた。私は、それで彼が機嫌が悪いと片付けていた。


 家族でデパートに行った時、子供服のコーナーで乳幼児の靴を見つけた。利喜人くんは、可愛い熊の絵が付いている小さい靴を手に取ると、ベビーカーに乗るひかりに履かせた。


「かわいーねー。七海さん、これ買おっ!」


「いいけど、赤ちゃんの靴って、あんまり必要ないよ。まだ歩かないし。歩く頃にはそんなの履けないよ」


「でも、なんかにぶつかって、怪我したら困るじゃん。買おっ」


「それよりも、みずきの靴。もうギリギリよ。サイズ大きいの買いたいんだけど」


「この間、買ったばかりだろ」


 利喜人くんの顔色が少し変わった。


「それは学校用。今履いてるピンクのサンダルがもうダメなのよ。後で小学生のコーナーも見てっていい?」


 みずきのサンダルは、もう既に指がみ出している。私の側に引っ付いているみずきを利喜人くんは冷たい目で見下ろす。


「みずき。足の指キュって力入れて、してみろ」


 みずきは素直に足の指に力を入れた。丸まった指がサンダルの中に収まった。


「な、まだ履けるだろ」


 そう言うと、利喜人くんはひかりの靴だけ持ってレジに並んだ。


 私はみずきが可愛そうになり、次の週の土曜日にみずきだけ連れて靴を買いにデパートへ行った。みずきは、要らない、と言った。欲しいけどリキトくんに怒られる、とも言った。私は、ごめんねごめんね、と言いながら、みずきにたくさんの靴を試着させた。みずきの足は痣だらけだった。近頃は、私が見ていない時もみずきに暴力を振るっているのかもしれない。みずきに聞いても、みずきは黙っている。ただ、その否定もせず黙っているのが答えだ。胸が締め付けられる。


「ママ、みずきのこと、気にしなくていいよ」


 自分は、こんな小さい子供に気を遣わせてしまっているバカな母親だと思う。結局、何も買わず家に帰った。


 家に着くと、利喜人くんが掃除機をかけていた。リビングは綺麗に整頓され、部屋の雰囲気もなんとなくだが明るくなった気がする。


「ありがとう。綺麗になったね」


「ああ、今日ゴミ回収日だったから。かなり余分な物捨てたからね。ゴミ袋10個以上捨てたかな」


 利喜人くんは、首にかけたタオルで汗を拭きながら得意げな顔をした。


「そんなに?なんか私たちの必要な物まで捨ててない?」


 私は冗談めかして言うと、みずきは何かに気づいたらしく背筋がピンッと伸び、自分の部屋へ走り出した。


「おいおい、みずき。ダメだぞ、に勝手に入っちゃ」


 みずきの後を追うと、みずきの部屋にはひかりのベビーベッド、ひかりのオモチャ、ひかりの服、その他ひかりの物が入れられているが、みずきの机、みずきのオモチャ、みずきのぬいぐるみなどが無くなっている。もう、ではなくなっていた。


 リビングに戻ると、テレビの脇にランドセルと布団、数枚のみずきの服がクシャクシャに纏められていた。


「みずきの机は?」


 みずきの声が少し震えていた。


「お前、自分の部屋で勉強してないだろ。宿題、いっつもリビングのテーブルでやってるんだから、机要らないだろ」


「ゲームは?」


「ゲームって、どれのこと?」


 みずきは手を握り締めていた。多分、みずきの言っているゲームとは、あのボートゲームのことだと思う。有名なテレビゲームを双六のようにしたボードゲーム。レベルが上がるコマがあり、そこで止まると途中で勇者になったり、魔法使いになったりできる。まだ保育園児の時は難しいルールで、単純にルーレットを回して双六みたいに進ませて遊んでいただけだが、みずきのお気に入りだった。みずきは、勇者の方がアビリティが高いのに、魔法使いになりたがった。あのお気に入りのボードゲームは、利喜人くんが初めて家に来た時、一緒に遊んだ物だった。


「とりあえず、そこに有る物以外は全部捨てたよ」


 テレビの脇の乱雑に寄せられたみずきの物を顎で示した。

 みずきは走って家を飛び出した。


 みずきは暗くなっても帰ってこなかった。探しに行きたかったが、私がいない間、万が一みずきが帰ってきて利喜人くんに暴力を振るわれると思うと、探しにいけなかった。それにすぐ帰ってくると思っていた。

 夜10を過ぎた頃、さすがにマズイと思い始めた。道に迷ったのか、事故にあったのか。警察に電話しようと思った時電話が鳴った。みずきが補導されたと交番からの連絡だった。


 私たちは交番にみずきを迎えに行った。みずきはスチールのテーブルの前でパイプ椅子に座り俯いていた。髪がグシャグシャで、服は所々汚れていた。


「なんかね、ゴミを漁っていたらしくて、みずきちゃんがこの交番に来て、捨てたゴミが集まってる所ってどこですか?って聞くから、ちょっと様子がおかしいので預からせていただきました」


 白髪まじりの初老の警察官が、みずきを補導した経緯を説明した。静岡の出身ではないのか、警察官の喋り方が少し訛っていた。私はみずきに駆け寄り、抱きしめて髪を手櫛で整えてあげた。


「聞いたら、パパに大事な物を捨てられちゃったらしくて、探し回ってたようですよ」


 利喜人が私の肩を叩き、振り向くと抱いていたひかりを渡された。私は立ち上がって、ひかりを受け取り抱いた。すると利喜人くんは、みずきの脇に手を入れ、みずきを抱き上げた。みずきは驚いて、小さな悲鳴を上げた。


「ごめんごめん。心配したぞ。パパ、みずきがそんなに大事にしてた物だって知らなかったから。ごめんなぁ」


 彼はみずきを抱きしめて、髪をクシャクシャと撫でた。みずきは怯えた目で私を見下ろしている。


「アンタたち、こういう世の中だから、ホント何もなくて良かったけど。まだ、この子、小さい《ちいせー》から親のアンタたちが気をつけないと」


 警察官はスチールのテーブルの上に書類を置き、サインするよう指示してきた。そして、こういう世の中だからさー、と前置きをして、言い難そうに聞いてきた。


「アンタたち、そのぅ、アレだ。あの、虐待とかでは、ないよね」


 失礼ですよ、と利喜人くんは低く冷たい声で言い、警察官は慌てた様子で、それならいいんだ、気をつけて帰ってね、と言いながら書類に何かを書き足し、引き出しに仕舞った。あの時、利喜人くんに抱かれたみずきの目が忘れられない。私には何もが諦めた大人がするような、焦点が合っていない、ただの穴ボコのような目をしていた。





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