第19話 キッシュとペペチーノ

 明日は月曜日だから、と私が言うと、彼は夜遅く帰っていった。昨夜はそれどころではなかったので、朝少し早く起きて、みずきのハンカチとランチョンマットをアイロン掛けし、まだぼうっとする頭で保育園の支度をした。みずきが色々と話しかけていたのに気付かず、スカートの裾を引っ張られた。


「もう!ママ、聞いてるの」


 小さい体をふんぞり返して、みずきは威嚇するポーズをとっていた。その姿が愛おしく、また自分が母親に戻らなければならない、と反省した。昨夜は、若い男の子に遊ばれただけ、むしろラッキーだったと思うようにした。本気にしたら、怪我をするのはこっちだ。


「ごめんごめん。ママ寝不足でぼうっとしてた」


「もう!大事なことだから、ちゃんと聞いて!今日の夕飯は作ってね」


 みずきは私の作ったキッシュが好きだ。キッシュなんていうと大袈裟な料理に聞こえるが、作るのは意外に簡単で、パイシートからなんかは手間がかかるので冷凍のものを使っているだけだ。タマネギとベーコンかソーセージをバターで炒めて、生クリーム2分の1カップ、牛乳4分の1カップを冷凍パイシートを敷いた耐熱皿に流し込み、さっきのタマネギとベーコン、あとは冷蔵庫に残っている適当な野菜を放り込み、チーズを混ぜて、オーブンで40〜50分焼けば完成。野菜をいっぱい買ったのに、忙しくてスーパーのお惣菜が続いてしまい、野菜が余っている時には冷蔵庫の掃除にもなるので、キッシュは割と定期的に作る。娘と2人だと食べきれないので、次の日も食べれるから、楽したい時はキッシュにすることが多い。焼き時間が掛かるだけで、作るのは楽だ。


「わかったよ。じゃあ、パスタは何にする?」


 大抵、みずきはナポリタンかミートソースか、ペペロンチーノだ。辛いとみずきが食べれないので、ペペロンチーノの場合、唐辛子は入れない。


「ペペチーノ」


 みずきはのことをと呼ぶ。上手く言えないらしいが、そういうところが可愛く思える。私は、みずきが言えないの部分が、抜いた唐辛子のことかな、と勝手に解釈している。


「今日は、赤い辛いの入れてね」


「えっ?あれ入れたら、みずき、食べれないでしょ」


 時計を見ると、ギリギリの時間。早く保育園に連れて行かないと、私が遅刻してしまう。私はみずきを抱いて、急いで駐輪場に向かった。


「今日はリキトくんが、ゲームやりに、夜うちに来るって。みずき、ご飯も食べてってよ、って言った。ママのキッシュ美味しいよって言っちゃったもん」


 自転車のチャイルドシートのベルトを閉めていると、みずきは、そう言い放った。みずきが昨日楽しくて、利喜人くんに我儘を言ったのだろう。それを利喜人が話を合わせてくれたのに違いない。


「来ないわよ。利喜人くんも忙しいんだから」


「絶対来るー!」


 みずきはプイッと横を向いて、それから返事をしてくれなくなった。保育園に着いて、いってらっしゃい、と声をかけると、絶対来るからキッシュ作っておいてね、と偉そうに言って、保育士さんに手を引かれていった。

 その後ろ姿を眺めながら、期待させてごめんね、と申し訳ない気持ちになった。園庭の時計を見てハッとし、急いで自転車に跨り、レストランに向かった。


 レストランに入ると、いつもと違う雰囲気が店内に充満していた。いつもなら早く着いたペアさんから、テーブルの上に並べられた弁当を運び、店の出入りが激しいのだが、今日は弁当が並べられたテーブルの周りに皆んな朝礼のように立っていた。前にはオーナーが立っていて、皆んなに向かって何か話をしている。中にはオーナーに向かって文句を言っているアルバイトもいた。


「どうしたの?なんかあった?」


 私はその中からペアを見つけて隣に立ち、聞いた。


「お弁当の訪問販売、今日を最後に一旦中止だって」


「えー。急過ぎない?」


「なんかね、オーナーが目をつけてた物件が急に空いたらしくて、そこに新店舗出すんだって。急に決まったから、みんな文句言ってるのよ」


 皆んな各々が文句を言ったり、隣の人と喋っているからオーナーが喋っていることが聞こえない。オーナーは、パンパンと手を叩き、すまん!ちょっと静かにしてくれ!と叫んだ。皆んな素直に黙った。


「本当に急で申し訳ない。街中で以前から目をつけてた物件だったんだ。本当は半年後の契約になるところ、今のテナントが急に店を閉めることになった。チャンスなんだよ。この店の厨房のスタッフを半分ほど新店に回す。それでこの弁当の方に手が回らない。アルバイトの皆んなには迷惑をかける、本当にすまない。もし残ってくれる人間がいるなら、フロア係など手伝って欲しい。また時間帯的に無理な人もいると思う。だが事が急過ぎるので、辞める人にはバイト代として1ヶ月分の平均配当を渡そうと思う。これで勘弁してほしい」


 オーナーは一気に捲し立てて、頭を下げた。皆んながざわつく。1ヶ月分出るならいいかな、新店のスタッフだって俺やろうかな、正社員になれるかな、皆んな方々で好き勝手に喋り出した。


「この弁当配達は今日で最後になる。弁当1つ1つにお知らせの手紙をつけてあるが、皆んなには申し訳ないが、販売する時にお客様には謝罪と今までのお礼を伝えていってほしい。それから皆んなのこれからの進退については、本日時間がある人は戻ってきた時に時間を作ります。今日都合のつかない人は後日聞きます。とりあえず、今日の分の配達をお願いします」


 皆んなは、いつものように弁当を配当分受け取り、各々散っていく。ペアの女性が、台車にいつもの分の弁当を乗せていると、あれ?と素っ頓狂な声を上げた。


「ねえ、激辛弁当、今日無いよ」


 見るとジャークチキン弁当がメニューから消えていた。最後の販売で、利喜人くんは辛い弁当を買わなくてすみそうだ。これが最後か、昨夜あんな事があったから、かえって都合がいい。気まずい気分で会わなくて済む。


 私たちはいつものルートを回り、1人1人に謝罪とお礼をした。残念がってくれる人、新店舗を喜んでくれる人、様々な反応だったがクレームを入れる人は1人もいなかった。


「いつもの彼、最後に激辛弁当じゃないから良かったね」


 1時過ぎたあたりで客足も減り、ペアの女性はそう軽口を叩いた。私はテーブルの上の残り少なくなった弁当を整頓しながら、曖昧に頷いた。


「渡合さん、そう言えば、彼とあの後どうなったの。告白こくられてたじゃない」


「何もないですよ」


「本当に?それにしても、彼、遅いわね」


 私も同じことを思っていた。いつもの時間になるのに買いに来ない。やっぱり昨夜のことがあって、気まずくて買いに来ないのかもしれない。それはそうだ、こんなオバさんとそんなことになって、会わす顔がないのだろう。律儀に弁当だけ買いに来るのもおかしい。むしろ私もどんな顔をして会えばいいのかわからないから、買いに来ないのならその方が気が楽だ。そう自分に言い聞かせながらも、本音はもう1度会いたかった。


「いいの?最後なのに」


 そんなこと聞かれても、このビルのどこの会社で働いているかも知らないし、例え知っていたとしても弁当屋のオバさんが態々彼の会社に出向いても不自然だ。これでいいのだ。


「あんな若い子が本気で私に告白こくるわけないじゃないですか。揶揄からかわれたんですよ」


 そう言って意地を張り、胸の奥の隅が少しチクッとし、物足りない気持ちでテーブルと残った弁当を片付けた。


「ねえ、渡合さんは明日からどうする?」


「んー、仕事無くなるのは痛いけど、レストランは時間的にキツイなぁ。多分お昼だけってわけにはいかないだろうし」


「そうよねえ。私も辞めようかな」


 私たちはレストランに戻ると、オーナーに1人ずつ呼ばれて今後の進退を話した。オーナーは店が落ち着いたら昼だけのシフトも作れるというが確約はできないと言う。それに昼だけのシフトだと時給になるので、今までの弁当の歩合と比較すると収入が下がってしまう。私は丁重にお断りした。


 何かが抜けたような感覚がした。頭がふわふわする。そのままみずきを保育園に迎えに行き、家に着くとキッシュの支度を始めた。

 テレビの教育番組を点けると、みずきはおとなしくテレビを見ていた。材料を切ってあとは焼くだけの状態にして、娘の後ろで体を横にした。


「ちょっとママ、休憩ね」


 少し目を瞑ったつもりだったが、一瞬で寝てしまった。ちょっと疲れたのかもしれない。そうだった、寝不足だった。気づいた時は外は真っ暗だった。時計を見ると6時を過ぎていた。


「ごめん、みずき。ママ寝ちゃった。お腹空いたでしょ。すぐ作るね」


 キッチンに向かうと、4畳半の娘の部屋から声がする。覗きにいくと、みずきは利喜人くんとボードゲームをしていた。


「あ、お邪魔してます」


 利喜人くんは私に気づくと、軽く頭を下げた。


「え?本当に来るんだったの?」


「ママ、みずき、ちゃんと言ったよ。キッシュ作って」


 みずきはワタシに恥をかかせるな、とばかりに頬を膨らませ怒っている。


「ごめん、今から焼くから1時間くらい大丈夫?」


「もしアレだったら、外食しましょうか?」


「ダメ!リキトくん、ママのキッシュ食べる約束だよ。あとペペチーノも」


「ちょっと待ってて、すぐ焼くね」


「じゃあ、なんか手伝いますよ」


「ダメ!リキトくんは、みずきと遊ぶ!」


 私はキッシュをオーブンに入れ、パスタをサッと作り、キッシュが焼き上がるのを待つ間、ボードゲームに参加した。

 みずきは大人ぶって唐辛子を入れていいと言うから、それでも少な目の唐辛子で作ったペペロンチーノを、辛い、と言って少ししか食べられなかった。多分そうなると思っていたので、余分に茹でたパスタで唐辛子抜きのを作った。

 利喜人くんは、美味い美味いと言って、みずきが箸をつけたのに残したペペロンチーノまで食べた。利喜人くんだったら、人生やり直せるのかな、と昨日の彼の求婚を真に受けている自分に気付かされた。


 その日から利喜人くんは毎日のように家に来た。そして、半年を待たずに私たちは籍を入れた。


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